怒りの日(1943)のレビュー・感想・評価
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目は口ほどに物を言う
ドライヤーの傑出したヒロインの魔性は自身の内心と自ら発した言葉が同じ結果を生むことにある。
一人の若い女性が経験した葛藤の顛末は彼女自身の告白によって、仄暗い部屋にある夫の死体の前で、純白のドレス姿で終結します。その姿を際立たせているのは仄暗い空間で進行する屋内と逢引きをする屋外の光の対比に始まり、家内の重苦しさと屋外の神秘的な光に満ちている開放感のシーンの間で繰り広げられるこの対比は、ヒロインの心理状態と外界との間の複雑なダイナミクスであり彼女の告白はその結節点となります。
魔女として火に焚べられる、生に執着する老女とは対照的に、ヒロインは複雑な感情の渦の中で言葉の魔術性に打ちひしがれるように告白へと踏み出し、老女と同じ運命をたぐり寄せることになります。
ドライヤー作品は女性の芝居が凄い。吸血鬼もそうだけど、怒りの日の若...
ドライヤー作品は女性の芝居が凄い。吸血鬼もそうだけど、怒りの日の若奥様が文字通り人が変わったように見える。素晴らしい。
燃える瞳
今回のリバイバルで見逃していた本作、やっと観れた。
やはり、この映画は主人公のリスベト・モーヴィンの燃えるような瞳。この目力に尽きると思う。
あの彼女の瞳なしでは有り得ない作品だった。
タイトルといい主題といい、あの中世の魔女狩りにおける民衆の暗い熱狂が群集劇として徹底的にリアルに描かれているのか?と勝手に想像していたが(原作の戯曲は群集劇だったようだ)今回も殆ど得意の室内劇だった。予算の都合などもあったのかもしれない。
ラストの唐突な寝返りの方も、ちょっと御都合主義で勿体なかった。必然となる伏線は張って欲しかった。
しかし、それにしても、この監督の尋常ではない漲る緊張感って、ホントに一体なんなんだろう。
徹底したリアリズムの為せる技なのだろうが、今回も冒頭からラストまで一気に引き込まれてしまった。
うーん、深い。
若い頃、この監督の「裁かれるジャンヌ」、「奇跡」を観て衝撃を受けた。再上映されると知って、まだ観ていない作品はこの機会を逃すと、当分ないだろうと思い鑑賞した。本当は「裁かれるジャンヌ」も観てもよかったのだが、鬱病の症状が表われ始め、精神的に不安定の状態では、ショックが大きいと断念した。まだ、観ていない方は、是非鑑賞することをお勧めする。無声映画だけど、訴える力は凄い。
この映画もいろいろ解釈できる映画で奥が深い。ベルイマン監督は、もろに影響を与えている。
牧師の後妻となった若い娘が、義理の息子を誘惑する物語だ。誘惑ではないと思う。恋したこともなく年老いた牧師に嫁いだものの、セックスレスで子供を産むことができない。おまけにうるさい姑がいる。この結婚にも訳ありの事情が絡んでいる。そんなところに、先妻の息子が帰省してきて、同年代の若い二人の間に恋が芽生える。夫や姑の目を盗んで逢瀬をするが、手をつないだりキスをするぐらいだ。セックスまではいっていない描きかただ。
中世ノルウェーの魔女裁判では、他人の死を願うだけで魔女とされ、火あぶりの刑になる。告発もあの人は魔女と訴えばいいみたいだ。あとは拷問による強制自白である。とんでも世界である。
私は北朝鮮のキムジョンウル総書記や今ウクライナに戦争を仕掛けているプーチン大統領など殺してやりたいと思っているので、即火あぶりだ。
恋に溺れて夫の死を願った通りの事が現実となり、葬式で姑から魔女として告発されて幕となる。
他の投稿では後妻を魔性の女と評している方もいる。が、私は違うと思う。彼女は自分の感情に正直なままだ。監督はその判断を観客に委ねるような描き方をしている。
しかし、この義理の息子の態度はどうだろう。繼母を守ることを言っておきながら、最後は告発側に寝返るのだから、牧師見習いのいい加減さに呆れる。
「怒りの日」は、神の審判がくだされる日みたいだ。イタリアの作曲家ヴェルディのレクイエムの「怒りの日」は演奏効果抜群で、テレビ番組でよく利用されている。
個人の憎悪が社会正義へと変換される装置――魔女狩りの狂気を静謐に描き出す、圧倒的傑作。
おお、ちょっと前まで映画.comには本作の項目がなかったのに、いつの間にかイメージフォーラムでの上映に併せてレビューが書けるようになっている!
なので、他の三作品もこれから観る予定ということもあり、昔Yahoo!映画で書いた評をこちらにお引越ししておく。
正直、オールタイムベスト級の傑作だと思う。
カール・テオドール・ドライヤー。凄い監督だ。
数日前に、同じシネマヴェーラで同じ監督の『吸血鬼』を観たときは、正直何一つ僕と噛みあう部分がなくてげんなりしたのだが、こちらは打って変わって大興奮。ただただ打ちのめされた。
敢えてわかりにくいナラティブをとったり、才に走ったようなトリック撮影にかまけたりで些か自家撞着の気配のある『吸血鬼』と異なり、こちらは正攻法のまっすぐな叙述で「人間」の業を真正面から描いている。そう、これだよこれ。
ゆるぎない、ゆったりした進行のなか、静謐で息をひそめるような北欧の自然と家族のこまやかな描写に、リアルな「痛み」の演出が楔のように突き刺さる。
空気感としてはイングマル・ベルイマンやロベール・ブレッソンに近い映像作家だと思うが、そこに「恐怖」の感覚が絡んできて独特のテイストを醸し出す。
逆にホラーの文脈で観ると、常に通俗性とセットで扱われてきた「恐怖」の感覚を、「神の恩寵」というテーマと対峙させ、文芸の領域で扱うことに成功した、最初期の監督だったと言えるだろう。
物語は、有り体にいえば「よろめきドラマ」であり、若い嫁と夫の連れ子の不倫話に過ぎないのだが、その背後に「教会」という絶対権力の主導で「魔女狩り」が横行しているという現実が、陳腐な昼メロを締め付けられるような悲劇へと変じさせる。
誰かが誰かを「魔女」だと告発する。
それだけで、証拠もないままにひとりの人間が拷問によって自白に追い込まれ、火あぶりにされる。なんともおそろしい社会装置だ。
個人の憎悪が、絶対的権威のもとで、社会の正義へと変換される。
それが許されているということだからだ。
嫁のことが嫌いな義母が、息子が死んだ腹いせに、嫁を魔女だと告発することで、火刑台に送り込むことができる。正しい手順で。
日常のきわめて陳腐な感情のいさかいが、そこでとどまらず、ひとりの人格の社会的抹殺と命の剥奪まで行きついてしまう。それが「善」として奨励されている。
おそろしい。社会が狂えば、人もまた狂うのである。
本作の前半では、魔女の疑いをかけられた老女マルテが、ヒロインの家に逃げ込んで捕縛され、拷問によって自白させられ、火刑に処される。
「そのへんにいそうなただの田舎の婆さん」が、絶対悪としてレッテルを貼られ、哀願と脅しを繰り返しながら、命乞いをしつづける姿は、正視に堪えないほどの衝撃を与える。あの裸体。あのつぶらな瞳。あの絶叫。だめだ、こわすぎる。
ヒロインのアンネは、若く実り多いはずの青春の時期を、年老いた牧師の後妻として、息をひそめて浪費してきた。そこに留学から帰ってきた前妻の息子マーティン。似たような年ごろの若い二人は、ころりと恋に落ちる。
アンネはこれまで本当の恋を知らなかった。だから、いざ好きになったときに歯止めがきかない。無垢ゆえに、とりつくろえない。愛がむき出しになる。嫌悪がむき出しになる。
時間を惜しんで逢引にいそしみ、積極的にマーティンに誘いかけるアンネ。愛を勝ち取った高ぶりの裏返しとして、自分を憎んできた義母に冷笑的な態度をとり、遠出から帰ってきた夫に「ずっと死ねばいいと願ってきた」と口走る。
情熱的で蠱惑的な「女」の部分を抑えきれず、むしろ意図的にひけらかすのは、初めて知った恋に夢中で、長い抑制のなかで情緒が成熟していないがゆえの行為でもあるだろう。彼女は知らない。その「夢中さ」「女らしさ」が、やがて自らを身の破滅へと導くことを。
夫の死より愛の成就を上位に置くアンネののめり込みようが、不倫のさなかに父に頓死されて罪悪感に苦しむマーティンを怯えさせる。「ふつうの女は夫が死んですぐにぐいぐい来たりしない」からだ。
ふつうでない女とは何者か。それが「魔女」だ――というのが、この映画のロジックである。
中世的な宗教観に基づく女性像(夫に仕える貞淑な妻)から逸脱した、村はずれに暮らす独り身の老婆や、義理の息子を誘惑するような女は、すべからく「魔女」として告発されうる資格を有し、告発されたが最後、抗弁の余地も残されない。絶対権力が取り仕切る自白強制のシステムを支えるのは、最も優秀で道徳的な宗教者と、神を信じる善良な民草である。
ドライヤーは本作をナチス・ドイツ支配下の故郷デンマークで撮った。
どこまでそれが題材選択や作品の内容に影響しているかは知らないが、「社会規範から少し外れて見える」人間を「処刑」するシステムを持っていたのは、ナチス・ドイツもまた同じである。
ただ、本作でマルテやアンネが呪いをかけた牧師は、実際に「ふたりとも謎の急死を遂げている」。すなわち、二人が「魔女」である可能性自体は否定されない。この不吉で不穏なオカルティズムの気配が、映画を「一面的」な二元論から解き放っているのも、また確かだろう。
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