「‘70年代前半の中学生の目には衝撃作だった」イージー★ライダー アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
‘70年代前半の中学生の目には衝撃作だった
中学生になりたての頃に、都内の名画座で鑑賞した。
バイクを駆って旅するという以外には、殆ど予備知識らしいモノは無い状態での鑑賞であり、当然、その結末など知る由もなかった。
当時は巷にポスターやパネルなどを扱っているアートショップみたいのがそこそこあり、オートバイに乗ったこの作品の登場人物の大判ポスターも人気で、それこそあちこちで目にし、映画自体は知らず観ていない人でも「イージー・ライダー」というフレーズとその象徴的なビジュアルであるチョッパー・バイクの認知度に限れば相当高かったと思う。
鑑賞後には、反体制の象徴としてのイメージだけ勝手に世間で一人歩きしていたように思った。
アメリカの若者文化の象徴的にイメージされていたが、殆どの人は作品自体を観てはおらず、まさにこのポスターからくる“イメージ”のカッコ良さだけ表面的なものだっただろう。
何故なら、日本での公開も都内では有楽町のスバル座というミニシアターに近い小規模劇場での単館ロードショーに留まってのものにすぎず。
従って、その後の名画座(関東地区)での上映も、順次その同じフィルム一本を使い回していた程度だったと推察されるからだ。
その程度で、一体どの程度の人が実際に鑑賞したのか、たかが知れていると思う。
そんな時代の中で、アメリカ文化への傾倒が相当強くて、何でもかんでも”アメリカナイズ”で、映画少年を自負している身である以上は、特有なデザインを施したチョッパー・バイクがシンボライズされたこの映画を未鑑賞のままでいられはしない。
わが国では1970年1月から単館ロードショーされたが、当時既に洋画を日常的に観ていたものの、その時点では小学生だったので、まだアクション、西部劇、戦争物などが主な鑑賞対象であり、このような当時のリアルタイムなアメリカの若者文化をテーマとした”ヒッピー文化・バイク・ドラッグ・セックス”が露骨に前面に出された作品は流石にまだ早かった。
結果的に数年遅れで、中学生になった時点での名画座で鑑賞を遂げることとなった。
初めて見た当時は、開巻から「あれは一体、何をやっているのか....?」状態にあらゆる場面が興味津々だったのと、冒頭から全編に散りばめられた当時のアメリカン・ロックに完全にやられてしまった。
なんらの予備知識も無いままの鑑賞(当時的にはムシロ当たり前)だったので、ある意味“目撃者”のような心境で、最初から最後まで観通した感じがした。
“最後”も知らずに観たので、なんだか唐突に終わりを突き付けられ「ええぇ....」、のような状態になった。
そしてその鑑賞後の結果としては、殆ど”信者”のようになってしまったと言うべきかも?
あと、日本では当時その名前を出しても、知っていた人はほぼ皆無だった“ジャック・ニコルソン”にはドハマリして、劇中度々披露する「ニック、ニック、ニック、ウックックッ!」は思い切りツボにはまって、直ちに推し俳優と化した。
まさか、後年あんなに有名に(主演の二人よりも)、メジャー俳優に化けるなんて、まさに嬉しい誤算だった。
鑑賞後には取り敢えず、巷で手に入るパネルと大判ポスターを何枚も手に入れて、壁に天井にと張りまくった(他の洋画の劇場用ポスターと混在して、殆ど覆い尽くされていた)。
当然のことながら、サウンド・トラックLPを手に入れなければならないので、近所のレコード店頭では入手できないため、在庫を取り寄せて手に入れた。
ジャケット写真がカッコ良かったのでシングル盤も買って、「ワイルドでいこう」繰り返し聴いた。
あとは当時、角川文庫から出ていた脚本そのまま採録したようなテリー・サザーンの原作本や、ピーター・フォンダのシネアルバムとかも….
今でも強く記憶に残る事がこの映画についてあるのが、鑑賞時点での“英語力”は、学問としての英語自体が中学から初めてゼロスタート状態で始まるという背景から想像できるように、“英語力”などと表現出来るレベルにすらない。
そこで、内容的にな所は“字幕”への依存度ほぼ100%という事にな訳で、要するに“英語耳”慣れの域には程遠い為に、「目と耳と同時進行的に両者の情報を比較」など不可能だった。
具体的に説明するとテーマ曲が終了しつつ、夜の場面になってモーテル(車両ごと宿泊=モーター・ホテル)に辿り着くも、「空室」もネオン表示が彼らの姿を見るなり「満室」へと切り替わってしまったシーン。
この後のセリフに字幕で表示された(当時の)のは「ケツの穴め!」だったのである!!
コレは当時全くもって「???」状態となった。
その後も名画座での数回の鑑賞を繰り返しても、何度観たって理解不能、というか意味不明で分からない。
まさか親に聞く訳にも行かず(映画の内容を知ったら仰天するだろうに….)、一緒に観たりした友人に聞いたって「ははは、さあ何でだろうね…」。
ある意味この件が切っ掛けとというか強い動機となって、“原語音声”と“アメリカ俗語(所謂スラング)”に強く興味を惹かれていくこととなったのであり、そうした意味に於いてもこの映画の存在は計り知れないものとなった。
しかし、当時の情報や、「その音声を繰り返し聴く」機会が得られない当時の周囲環境からは、この解決は困難を極めた。
何年か経過したのちに、偶然書店で見つけた「アメリカ俗語辞典」を得たことによってこの件を含めた、それまで多くの「謎」=疑問だったことへの殆どの解答を得る事が叶ったのである。
この本を手に入れた時の喜びと感動は計り知れず、そもそもその当時「このような本が存在している」事を知りえた事だけで驚愕だった。(当然、未だ手元にある愛書)
但し、事は単純では無い。
先ずは、その音声を拾う事は叶わず、聴けたとしてもヒアリングで聴き取る自信もなかったから、やり方として考えられたのが「ケツの穴め」からの逆算的手法。
この言葉を英語に直したとしたら?
単純にはAss=お尻、Hole=穴となり、ここから「Asshole」という表現がアメリカ人が大好きな常套句なのだという事が浮かび上がってくる。
これを前述のスラング辞典で引いてみると…..
やっと辿り着いた!、のであった。
その後の時代には、もっと酷い“F言葉”が登場して頻発されるようになるので、今となってはこのような「ばか野郎、くそったれ」表現は可愛いものとなってしまった。
今となっては「なんだよ、そんな事か。知ってるよ。」との声が聞こえてくるレベルの事であっても、当時は周囲の誰もそんな事(アメリカ大衆文化)に関心すら持たなかった時代だった中での事である。
つくづく、「自分が好きな事を貫くのは楽しい」し、そこまで入れ込んだという事は、自己満足と共に忘れ得ない。
だが、「この映画の(私だけへの)宿題」はまだ終わって居なかった。
それは前述のサントラLPのせいである。それも国内盤だった事から更に深みに…..
単純に言うと、
「まずジャケット・デザインが違う(2種類存在している)、それは何故か?」
「1番気に入ったThe BandのThe Weightがオリジナルじゃ無い」
「ライナーにもあるように、未収録曲がある」
「曲目表記と実際の収録内容の一致に疑問を感じる(納得出来ない)箇所が存在する」
と言う事。
多分、これら(全て)はほぼ誰にも分からないと思う、と言うかそれ以前に気付かずとか、そもそもそこまで思い入れも関心も無かろうかと。
最終的には、それこそ長年の執念で上記全ての解決を図る事が叶ったが、まさに困難を極め、ほとんど不可能かとも思いながら、やっと10数年前位だったかに辿り着くことができた。
これについても、まあはっきりと、自己満足の世界だろう。
こうした経験からは、ある意味「気長に、(焦らず)時の運に任せる」も大事だと悟った。
が、あとは「そこまで自身の一心を貫き続ける気が(持続力も)あるか」が最重要だと言う事も。
別件として個人的見解と前置きした上で、極論を承知で敢えて「長年映画を観て続けて来たからこそ感じた、時系列的な映画の(登場の歴史の)流れを強く意識した上」でいうなら、
この映画の続編的(流れを継承する)繋がりが感じられた作品は『悪魔のいけにえ』だった。
『イージーライダー』のラストで”突然に(それまでと)何の脈絡もなく不意打ちを喰らったように訪れる最後”について(鑑賞当時の)受けた、あまりにも唐突で理不尽な主人公たちの末路の衝撃。
それは、このラスト(道中でも)が象徴する「アメリカ南部(田舎町)の闇」部分を引き継いで、その部分(テーマ)のみをクローズアップする形で描いて見せた、延長線上にある事を感じえたからである。
映画史においては、どの作品のどの部分が継承されていってるのか考えてみるのは面白い。
参考までに続編ネタも3点ほど。
一つは日本ローカルで、昭和の名画座全盛時代に某所で新聞などの上映時間案内欄に「続イージーライダー」のような表記が出てて事があり実際に確かめると「ファイブ・イージー・ピーセス」だったという顛末。
もう一つは、制作主演両氏による制作後記的な本で明かされている続編構想。
ラストシーンから続いて、瀕死の二人の元に雷鳴と共にバイク跨って天国から“ジョージ・ハンセン”が「しっかりしろ」とばかり降臨するという、無茶苦茶な展開。
ホッパー氏の打診に、ニコルソン氏が「それムリ」とばかりに笑って却下と相成り、当然ボツに(既にニコルソン氏は超売れっ子だった頃だし)。
最後は実在する「2」。
実は今作は既に“パブリック.・ドメイン”扱いなので、権利者不在なので許諾なく誰でも制作可能状態の作品。
それで実際に勝手に続編名乗って作っちゃって人が居る。
取り敢えず、酷いらしいので、未鑑賞です。(Aなど輸入盤で買えます)。
追加
上記のような経験を踏まえた上でという前提で、
蛇足ながら、「観る作品を選ぶ」際のことについて、思う事を一言書いてみいと思ったので、以下に。
(読みたく無い人は、この先は読まないのが良いです。)
その時代にネットどころかビデオも存在せず、TV放映もずっと後になってからだから、視聴方法は劇場のみ。
従って「自らの(強い)意思」無くして、映画を観る事は基本あり得ず、「ちょっと時間あるから何か観ようか」なレベルでの鑑賞という選択は無いと思い浮かべて欲しい。
更にその時代には“映画人口”というのはそれ程多いものでは無く「映画好きの人」の為であったと思って欲しい。
要するに、現在のように(猫も杓子も状態な)まるでTVのような「万人のもの」などでは無かった。
そういう時代に作られた作品であるという、歴史的背景を完全無視して「名作なんじゃないのかよ〜」っていうの聞くと、何だかなぁと思わざるを得ない。
極端に何でもかんでもそうせよなどとは言わないが、音楽でも映画でも、先にコレがあって、それでその次にはコレが登場してみたいに、時系列を意識して(鑑賞後にでも)みると、時代を知るという事にも繋り、「見えなかったモノが見えてくる」事によって面白さは倍増すると思う。
「そんな事しなきゃ面白く無いならいいよ」方は、『名作』などという言葉に釣られるだけで観る事は、今後慎むべき極力止めておくべきだとの忠告を差し上げたい。
時間の無駄だから。
基準にしている「自分の生きる時代」の範囲の、身の丈にあった作品に留めておくのが無難でしょう。
少なくとも、様々なジャンルの映画がある中で、自身が時代毎に違う社会性についての知識や興味も大して無いのに、わざわざ「当時のリアルタイムな背景が題材」だった作品を、その背景などに何らの造詣も無い状態で、中途半端に娯楽対象に選ぶ行為自体の方が、ダメ出しされるべきと思う。
何でも(名作と付くや)観りゃいいってもんじゃないし、合わないの選んだ自分を置いといて、作品への文句はスジ違いと思う。
そういう人だと、食べ物でも服でも何についてもその調子なんじゃないかと思えてきてしまいます。
「余計なお世話」でしたね…..