暗殺の森のレビュー・感想・評価
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動乱の時代に求める「普通の人生」。
◯作品全体
主人公・マルチェロは過去に同性と性的関係を持ったことやその相手を殺してしまったことにより、「普通の人生」を生きることに固執している。しかし、時代はファシスト政権下のイタリア。強引な全体主義こそが普通とみなされていた時代に、マルチェロはその普通を求めてしまう。しかしその普通の結末を知っている側からすると、ひどく不安定な「普通の人生」を歩むマルチェロに悲哀を感じずにはいられない。
「普通の人生」というあいまいな道を進むマルチェロは愛しているとは言い難いジュリアと結婚した後に、案の定ミステリアスな美女・アンナに惹かれてしまう。官能的な関係性だけど、やっていることは最低だ。しかし、その行動は目的地があいまいだからこそ横道にそれてしまう「持たざる者」の悲哀もある。そしてそれと同じように暗殺計画を中途半端な覚悟で臨む姿から、どこのコミュニティにも居られないマルチェロの孤独感を感じさせた。
時代の潮流を読めないまま沈んでいくマルチェロからは、揺れ動く情勢の中で「普通でいること」の困難さを強く感じた。ラストシーンでは性別不明の娼妓がマルチェロを見つめる。マルチェロは否定していたが、梅毒を患った精神病患者である父と同じ結末を迎えることを示唆するような演出が印象的だった。
〇カメラワークとか
・この作品の一番の見どころはなんといっても演出力の高い構図やレイアウト。イタリアの街並みや建物と人物の切り取り方がとてもかっこよかった。
マルチェロが初めてファシスト組織の建物へ行ったときの直線的な廊下の影や幾何学模様のような立体物。座って愛人と戯れるファシスト組織幹部をバストショットで映したあとにズームアウトして広い空間を映すカメラワーク。母へ会いに行くシーンでの美麗な建物とマルチェロをダッチアングルで映すアイデア。アンナが襲われてマルチェロとガラス一枚を隔てて会話するシーンや、終盤のマルチェロとジュリアを画面真ん中にある家具によって分断するレイアウトの演出。若干カメラを引いて街と人物の一体感を感じさせる構図の多用。見れば見るほどベルナルド・ベルトルッチ監督のこだわりが溢れてきそう。
〇その他
・「時代の潮流」という言葉で思ったけど、マルチェロは人の流れを理解できない感じがある。わかりやすいのだとダンスフロアのど真ん中でジュリアたちに囲まれて戸惑っているところとか。ラストシーンでムッソリーニが退陣して喜ぶ群衆の流れに呑まれていたけど、マルチェロが普通の人生を生きるのであれば、あそこで群衆の波に乗らなければいけなかった。それができずに孤独になり、あの退廃的なラストへつながる。
・教授殺害シーンは小さいナイフでちょこちょこ刺しているように見えて迫力に欠けるな…と思ったけど、見せしめだから傷が多いほうが良いのか、となった。
・チャーハンを箸で食べてて食べづらそうだった。
・ファシストに属している人間が来ることが分かっているのに吞気に一緒に飯食ってる教授も随分アレだな、と思ったけど、マルチェロに「心からファシストではない」と話しているあたり、マルチェロが危害を加えると思ってなかったのかもしれない。そうだとしても共犯者の存在とか考えそうだけど…。
震える魂よ 肉体に宿りし友よ
ファシストの組織の一員となるイタリア人青年マルチェッロをジャン = ルイ・トランティニャンが演じる。
無機質な雰囲気を纏ったジャン = ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリがそれぞれに魅力的。
スタイリッシュな映像が美しく、ダンス・ホールの映像が印象的。
ー 我 汝の罪を赦す
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕)
解説動画は蛇足そのもの
まず本編と関係ない話になってしまうが、
劇場で観たときに町山某氏の解説が入った。
まず、これが結構長い。そして余計なのである。
映画本編の前後にこういった動画を挟むのは禁じ手だ。
町山氏の解説自体はとても分かりやすいのだが、映画がはらむ解釈の多様性を
妨害しているとしか思えない。とても残念であり、興行主は何を考えているのかと呆れた。
本編については、やはり解説のおかげで思考が誘導されてしまって
ニュートラルなレビューは出来なくなってしまったかもしれない。
臆することなく言うと、「内容」がいまいちだと思った。
確かに画面構成やライティングは引き込まれる作りだと思う。
「形式」は間違いなく計算された完成度の高い仕上がりだ。
「内容」がついていけなかった。
出会って2秒で合体みたいな展開がまず感情移入できない。
隣の部屋に奥さんがいるのに堂々と不倫する主人公に笑ってしまった。
細かい点では、来客の際に教授の妻が何故か奥さんの方だけ
コーヒーを入れて旦那には入れないだとか
もしかしたらイタリアないしはフランスの慣習なのかとか引っ掛かる。
本筋に影響のない描写なら未だ良い。むしろ町山氏の解説にもあった
「普通」になりたいという主人公の心理描写がもっと前面に出てこないと
何だかファシズムに踊らされてバイに戻って終わるという暗鬱で
幻覚的なサスペンスムービーだと感じてしまった。
個人的に何度も観たいと思う映画ではなかった。
強いて言えば音楽は良かったと思う。
繰り返しになってしまいますが、"個人"の感想が一意的にならないためにも
どうか映画評論家"個人"の解説を挟んだりするのだけはご勘弁頂きたいです。
インターナショナルは無いだろう!僕は見たのかなぁ?
初見ではないはずだが、何だかわけわからなくて、10分で熟睡。coffeeを2杯飲んでさぁもう一度。
『自分と似た人間がいると満足する。人混みの海岸やサッカーが好きで、、、自分と違う人間を警戒する』とファシズムの口上を聞き。
さて話はどうなるんだ。そうか、パリへ亡命中の教授を暗殺か!
って、この頃のフランスってファシズム真っ盛りだったのでは?ペタン元帥率いるヴィシー政権。少なくとも、3年後にはヒトラーがパリを陥落させる。パリはイタリアの反ファシズムの教授を受け入れる様な場所じゃない。1938年にドイツ高官が襲われて、ユダヤ人が迫害を受け、ホロコーストの始まる様な時代。こんなのんびりした話でファシズムを語る様な時代ではないはずだが。上映された現代に置き換えると、ベトナム戦争反対運動真っ盛りの時。果たして、僕はこの映画見たのだろうか?電話の受話器のシーンはなんとなく覚えているが。
見ていない!なぜなら、ドミニク・サンダはお尻が印象あるから。ロベール・ブレッソンの『やさしい女』だったね。見たのは。ドミニク・サンダの胸は記憶の欠片すらない。
いずれにしても、我が青春の1ページを飾るような名作ではない。見ればトラウマになっていたかもしれない。
兎に角、『不条理なストーリー転回』は良いが、フランス人はファシズムとは関係なく、イタリアやドイツとは違うなんて語る偽りが共感できない。
また、
イタリアは第二次世界大戦は日本やドイツの様に敗戦国ではない。ファシズムはイタリアが起源かもしれないが、ムッソリーニと共に形の上では滅んでいる。そして、寧ろ、コミュニストがその後台頭している。この演出家もその一人。それが悪とは言わないが、表裏一体のような気がする。
ベルナルド・ベルトルッチと言えば『ラスト・タンゴ・パリ』見たかったが、僕は当時高校生だった。R18だよ~ん。しかし、音楽はガトー・バルビエリ。
で、何故全否定しないか?
哲学教授の頭皮が、まるでキッバー若しくはヤルムルケみたいに見えた。つまり、その方を暗殺するとなれば、イタリア人としての自戒の念?さて。
2018年初見では評価困難な哲学的戯曲
イタリアの事をよく知らない。ファシズムの事も、多分わかってない。この映画が世に出た1970年の頃とか、私はまだあっかいほっぺの子供です。大阪に万博観にいったなぁ。って言う時期。
真面目は盲目的と同意。裏切りは無知ゆえになせる業。国体維持に最も危険なのは思想。非行動の結果発生する残虐。他にも山ほどの小さいメッセージ。21世紀の今、「過度の多言は卑怯」だと思ってるが、当時ベルトルッチは30歳。血気盛んだったんだろうとは思うが、言葉が多すぎて困る。何が言いたいのかが判らなくなるから。ラスト・タンゴ・イン・パリ くらいで、ちょうどいい具合に灰汁が抜けてるんだな、って思いました。
同時に、なぜ小津・黒澤が世界の喝采を浴び、今でも慕われているのかが理解できました。核のあるストーリー、ラストに向かって絞り上げて行く様な・積み重ねて行く様な展開、言葉では言えないものを表現するための画。日本人だからなのかも知れないが、ベルトルッチのこの映画からも感じるものは沢山あったけれど、黒澤監督ほどじゃないんですよね。
パリでタンゴを踊るシーンの美しさと、森の中の暗殺シーンの絶望感にはココロ奪われました。
ベルトルッチと階段
乳白色のブルーを基調にしたパリの撮り方が美しい。
セーヌ河畔のメトロの高架は数々の映画に登場するロケーションだが、この作品でもサスペンスに満ちたシーンとなっている。高架下の道路を走るたった一台の車。上を走るメトロからは人の気配を感じられない。規則正しく並ぶ鉄骨の橋脚が言い知れぬ緊張感を謎を深めている。
魅惑的なパリの景色は他にも登場する。
エッフェル塔(を臨むシャイヨー宮の広場)や(作品中ではホテルに改装されている)オルセー駅は20世紀初頭のパリを象徴する建築物である。これらの建物は鉄を使用しながらもその意匠は柔らかな曲線を描いていることが特徴的だ。
これに対して、ジャン・ルイ・トランティニャン演じる主人公が「就活」のために訪れる国家機関の建物は直線だけで構成される空間を持っている。
自由な都市であるパリと、ファシズムの政権を立てたローマという二つの都市を建築を通して対比している。
ところで建築と言えばベルトルッチの作品を何本か観て気になることがある。登場人物の権力関係を階段で表すことが多い。
誰でもがすぐに思い浮かべることができるだろう、「ラストエンペラー」で幼い溥儀が紫禁城の階段を小さな歩幅で駆け上がるシーン。幼年の皇帝が、なんの迷いもなく、無自覚に権力の高みへ登っていく。
「シャンドライの恋」は階段の昇り降りが、一組の男女の愛と権力の関係を形作っている物語である。
この作品でも、主人公が彼の希望通りに秘密警察になるときには上の階に案内されて、階段を昇っていく。
また、初めて訪れたパリの恩師のアパートで、ドミニク・サンダがステファニア・サンドレッリを階段の上から見おろすことでこの二人の力関係が決まってしまう。
しかし、この作品でもっとも語られるべきは、外光が一方向から射す部屋で、昔の師弟が自意識について語るところではないだろうか。
恩師曰く、人は「光を当てられた自分の影を自分自身だと思っている。」のだと。人間は自分自身の全体の姿を見ることができない。鏡に映る姿や影は自分自身という実体ではない。そのことを分かっていながら、自分が何者であるかを知りたいと思うところが人間の弱さであり、だからこそ人は「影を作り出すための光を求めるのだ。」と。
この会話の最後に別の角度からの光が当たり、壁に映っていた主人公の影が消える。ファシズム政権が崩壊するラストを待つまでもなく、主人公の影であるセルフイメージが消失しているのだ。
さて、映画のラストはサンタンジェロ城、コロッセオといったローマの古い建物が出てくる。近代的な自我が現れるよりも前に建てられたその建築を舞台に、ファシズムに酔っていた者たちの自意識が溶解していくのである。
ジャン・ルイ・トランティニャンの変容ぶりが素晴らしい。前半のファシズムと自らを同化することになんの疑問も持たない、無垢な冷たい表情は、後半、その任務に苦悩し、やがてファシズムとともに崩壊していく。
映像美は賞賛に値するが
この映画のポイントは映像美であり、特にカメラワークが素晴らしい。撮影が誰だと思ったら、「地獄の黙示録」や「ラストエンペラー」のヴィットリオ・ストラーロだった。
それと、ドミニク・サンダが美しく、圧倒的存在感だった。特にダンスシーンは見所だ。
ただ、他の俳優がややもするとコミカルで、ドミニク・サンダだけ異質な感じがした。それと、森で暗殺されるまでの展開と、暗殺されるシーン、ムッソリーニ崩壊後の主人公の行動、その3部分が全くテイストが異なり、かなり違和感を覚えた。
また、吹き替え版でなく字幕で見ているが、セリフのアフレコがかなり合っていないことが多く、基本的な作りの雑な面が気になった。特にステファニア・サンドレッリが一番ひどく、セリフや笑い声がわざとらしく、B級映画を二流の声優の日本語吹き替え版を見ている感じだった。
個人的にこの映画を低評価にしているのは、主人公だ。あんなに好きなはずのドミニク・サンダが殺されるのを何もしないでいるのは許せない。同じ優柔不断の性格でも、ベルナルド・ベルトルッチ監督の傑作「ラストエンペラー」の主人公には感情移入できたのだが。まあ、この映画から「ラストエンペラー」を作るまでは17年の開きがあるので、この頃はまだまだ監督も未熟だったのだろう。せっかくのヴィットリオ・ストラーロ撮影の映像美を台無しにしてしまった。
深い
日本語のタイトルは『暗殺の森』だが、原題は"IL COMFORMISTA"。イタリア語で「周りに同調する者」という意味。この映画の軸は単なるファシズム批判ではない。実はファシストなんて者はいない、みな正常であろうとするからファシストだったのだ。そしてこれはもっとも正常でありたかった男、Marcelloの話である。その主張は随所で見られる。盲目の親友イタロとの会話、教授との洞窟の比喩の会話。ムッソリーニが失脚した途端民衆はころっと態度を変える。
なんの予備知識もなく一度観ただけではあまり面白くないのではないか。私は一回目は1人で、二回目は教養のあるイタリア人と観た。一回目は美しいという印象が強かったが二回目でいろんな疑問が解けBERTOLUCCI監督のすごさを知った。
最後に、ファシズム建築と美しい女性たちがこの映画に花を添えている。
眠かった
映像や女優がとても美しく、惜しみなくおっぱいも見れるのだが、とにかく退屈で眠くなる。110分なのに寝てしまい2回中断した。主人公の男のキャラが薄い。単なる暗い美男子でしかなく、何の面白味もない。殺害場面は変でちょっと面白かった。しかしその表現は好きな映画だったら嫌だったかもしれない。
全然好きでもなんでもない作品なのだが、妥協なく懸命に上質なものを仕上げようとしている感じはうかがえた。ずっと気になっていた映画だったので見れて気が済んだ。
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