劇場公開日 2023年9月1日

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「『激突!』×悪魔教団=『ミシシッピ・バーニング』テイストの最凶ロード・ムーヴィー!」悪魔の追跡 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0『激突!』×悪魔教団=『ミシシッピ・バーニング』テイストの最凶ロード・ムーヴィー!

2023年9月8日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

おお、想像してた以上に、ガチの良作じゃないか!
くっそ面白かったぜ!!!

タイトル自体は昔から知っていたものの、観る機会もないまま忘却しきっていたが、どういう理由か唐突にリヴァイヴァル上映にかかったので、これ幸いと行ってきた。
最近会社の仕事にひたすら忙殺されていたので、映画が始まってしばらくのあたりは、申し訳ないが睡魔に襲われて、あまりちゃんと観られていない。
なんか、旅に出た早いタイミングで、おっさん二人でバイク乗り回してて楽しそうだったくらいで。

でも、悪魔教団が川向こうに現れてからは、がっつり目も覚めて、最後までしっかり夢中になって観ることができた。
なので、寝落ちしたダメ人間の身でも、感想を書くことをなんとか赦してほしい。

― ― ― ―
まずは、主役の取り合わせが最高だ。
ふたりとも、俺、超・大好き。
ピーター・フォンダは、ついこのあいだ観た『世にも怪奇な物語』の第一話にも、ジェーン・フォンダの相手役(実弟なのに!)で出演していたが、世間的にはやはり『イージー★ライダー』(69)の主演男優ってのが大きいだろう。あとは『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』(74)か。
個人的には、リンゼイ・ワグナー(バイオニック・ジェミーは俺の永遠の心の恋人!)とのせつない恋愛映画『ふたり』(73)のうらぶれた脱走兵の演技が忘れられない。

ウォーレン・オーツは、なんといっても大・大傑作『ガルシアの首』(74)の賞金稼ぎがベスト・アクトだろう。
それから、同じ年に出演した闘鶏映画『コックファイター』(74)の“緘黙の闘鶏師”フランク役も素晴らしかった。体臭が強そうで、我が強そうで、肉体も強健だが、サイコロの出目にはつねに報われない「滅びの運命を背負ったタフガイ」をやらせて、W・オーツの右に出る俳優はおそらくいない。
『悪魔の追跡』は、両作の翌年にあたる1975年に撮られており、まさに彼のキャリアの絶頂期を刻印した映画だともいえる。

ふたりは『悪魔の追跡』より前に、ピーター・フォンダ自身が監督したアメリカン・ニューシネマ・テイストの西部劇『さすらいのカウボーイ』(71)で、すでにW主演を果たしている(パンフによればもう一本W主演しているが、こちらは日本未公開)。
作品の展開に従って、主役の中年男のバディ・コンビの属性が、放浪者→逃亡者→復讐者と変化してゆく展開や、町ぐるみの狂暴きわまる犯罪者集団といった要素は、おおむね両作に通底しており、ピーター・フォンダの「好み」が良く出ているといえるのではないか。

― ― ― ―

本作の基本プロットは明快だ。
『アメリカン・ニュー・シネマ風ロード・ムーヴィー』×『オカルト・ホラー』。

『イージー★ライダー』のピーター・フォンダに、『ガルシアの首』のタフガイ、ウォーレン・オーツをかませて、バディもののロード・ムーヴィーをつくる。
アメリカン・ニューシネマっぽいテイスト。
(リベラル寄りで、アンチ南部、アンチ保守主義)
大陸横断の風まかせのキャンピング・カーの旅。
それぞれの奥さんを連れて、ひた走る。
(なんか、ABBAみたいな取り合わせw)

そこに、『エクソシスト』(73)の爆発的大ヒットを受けて、「悪魔崇拝ホラー」の要素を加味してみよう、というのが本作のストレートなネタなわけだ。
そういえば、あのアーネスト・ボーグナインがどろどろに溶解する衝撃のサタニスト特撮ホラー『魔鬼雨』は、ちょうど同じ1975年の作品だ。

ひえぇぇ~、混ぜたら危険。
どんなゲテモノになることやら。
……と、思いきや。
意外とこれが、きれいにはまっているのである。

ちょうどスティーヴン・スピルバーグの『激突!』(71)に、アラン・パーカーの『ミシシッピ・バーニング』(88)のノリを掛け合わせたような、絶妙に気持ち悪くて、絶妙にテンションのあがる、十分に見ごたえのあるアクション・ホラーに仕上がっていてびっくり。

とにかく、出て来た瞬間からニッコニコの保安官の奇顔が怖すぎる!
副保安官、ガス・ステーションの男、キャンプ場のけたたましい夫婦者。
うわぁぁぁ、いかにもホワイト・トラッシュ!!
いかにもレッドネック、まさに南部のろくでなしの商品市だ!

そういや、ハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』(64)でも、旅行者を片端から惨殺し、八つ裂きにしてゆくのは、「南部」の街の陽気な住人たちだった。
ハリウッドにかぎらず、アメリカの他地域に住む多くの住人にとって、「南部」というのは永遠に何某かの得体の知れなさを残している地域なのかもしれない。南北戦争に敗れた怨念。独特の私刑文化と法律を超えた暴力の横行。いまも根付いているある種の原始主義と、極端きわまる熱狂的な福音主義。
本作で「悪魔主義者(サタニスト)」のペルソナのもと、「底知れない恐怖」として切実に描かれているのは、実は「南部人」それ自体への根源的な不信なのだ。
人懐こい笑顔とサザン・ホスピタリティの裏で、ふつふつと北部人への怒りと恨みをたぎらせているかもしれない、粗野で、保守的で、父権的で、迷信的で、暴力的な、南部人への恐怖心。
だからこそ、この映画の漂わせる空気は『ミシシッピ・バーニング』ととても近いのだ。
(燃え上がる「木」のイメージ&アイコンの一致!)

その意味では、都会の孤独と、都市生活における顔の見えない「隣人」への恐怖を描いた『ローズマリーの赤ちゃん』(ロマン・ポランスキー、68)とは、同じ「サタニスト」を扱ったオカルト映画だとはいっても、実質はかなり似て非なる作品だとも言える。
あちらは、NYの都会の冷たい恐怖。こちらは、田舎のオープン・エアの乾いた恐怖だ。

むしろ類似作としては、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』(74)や、ウェス・クレイヴンの『鮮血の美学』(72)、あるいは『サランドラ』(77)といった、西部や南部の荒野を舞台にとる一連の通り魔シリアル・キラーもののほうに空気感は近いのではないか。
ド田舎の街の住人が全員あたおかのカルト教徒で、サバイバルにおいて孤立無援すぎる展開が待っているという意味では、イギリス映画ではあるが『ウィッカーマン』(73)の存在も忘れられない。敵がひたすら執念深く追いかけてくるという点では、一連のゾンビ映画や食人族映画との関連も見出されるだろう。

白熱するカーチェイス映画としては、先般リバイバル上映がなされていたノンストップ爆走映画『バニシング・ポイント』(71)と、先にピーター・フォンダの出演作として触れた『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』の影響は大きいと思う。
あとはやっぱり、スピルバーグの『激突!』ね。
それから、「追跡者」たちとのデッド・ヒートを描いた映画としては、オーストラリアの『マッド・マックス』(79)と『マッド・マックス2』(81)がぱっと思い浮かぶ。少なくとも監督のジョージ・ミラーは、上に挙げた4作品の影響を間違いなく受けているはずだ。
それと、バス型の車両があたりから総攻撃を受けてどんどん壊れてゆく感じは、クリント・イーストウッドの『ガントレット』(77)あたりにも受け継がれているのではないか。

もちろん、直接的に本作に影響を与えた現実の事件としては、チャールズ・マンソン・ファミリーによるシャロン・テート他9人の連続惨殺事件は見過ごせない。事件が起こったのは69年だが、その顛末を詳細に描いた『ヘルタースケルター』の出版は74年。そういえば、チャールズ・マンソンもよく「にったり笑っていた」。
南部のにやにや笑い。南部の素朴な日常。南部のねちっこい闇。
『イージー★ライダー』のヒッピーたちを徹底的に邪魔したのも、南部の排他性だった。

― ― ― ―

なぜこの映画がこれだけ面白く観られたかというと、純粋に「アクション・シーンの出来が良かった」からだ。
俳優業を営みつつ、低予算のバイカー映画やブラックスプロイテーションを撮っていたジャック・スターレット。この映画も、もともと監督予定だったリー・フロストが撮影開始1週間で首になって、急遽俳優として出演予定だった彼に、監督の白羽の矢が立ったらしい。
経歴だけから見ると、いくらどう考えても大した手腕の監督だとは思えないのだが、これがどうして、すべてのアクション・シーンの演出が、なかなかにシュアで引き締まっているのだ。

たとえば、キャンピングカーのなかに2匹のガラガラ蛇が放り込まれているシーン。
ぶっちゃけ、たかが蛇である。しかも2匹だけ。
でもね、これが結構な緊迫感なんですよ。うまい具合にラッセル音を放ちながら小刻みにふるえる尻尾の先を目立たせたりして。あと、旦那二人が蛇相手に奮闘している脇で、この世の終わりみたいに叫び続けてる奥さん二人の鬼気迫るビビりっぷりが猛烈にコワい。
しょうじき『インディ・ジョーンズ』の蛇シーンよりも、断然スリルがあるのではないか。

悪魔教団に見つかってしょっぱなの、渡河でタイヤが川の穴にはまり込んで動けなくなるシーンも意外に手に汗握る展開だ(ブニュエルの『昇天峠』におけるバスのエンストを思い出した)。悪魔教団が、わざわざ羊皮紙にルーン文字の書いてある警告文とか残してくのは、せっかく「何もなかった」偽装してるのにこいつらマジでアホなのかと思ったものの、これはきっと、南部人は基本的にアホで、アホでも力押しと頭数で押してくるから怖いのだという作り手の意思表示なのだろう。

それからなんといっても、後半20分くらい延々つづくカーアクション。
これが抜群にヴィヴィッドな仕上がりなのだ。
次から次へと湧いてくる追跡車。
田舎者たちが、無骨な体当たりや、ろくに当たりゃしない射撃で攻撃してくる。
そんでなにが怖いって、向こうはちっとも死ぬことを意に介していないのですよ。
みんな、完全に特攻隊。車とかによじ登ってきてはP・フォンダに撃ち落されたりしてる。
だって、おかしいじゃん。
本来、生贄の儀式を見られたから、単なる「口封じ」に襲ってきてるだけなのに、
あんなに何十人も教団メンバー側に犠牲者を出したら、もはや本末転倒ではないか。
しかも、実行犯の司祭は儀式の際は仮面をつけてたわけで、二人とも誰とは証言できないはずだし。なんでこんな命懸けの追撃を仕掛けてきてるのか??
『プライベート・ライアン』じゃないけど、くだらない作戦のために多数を犠牲を払って、しかもそのことに全く重きを置いていない感じが、とにかく怖い。そこが最高にくるってる。
要するに、攻撃してくること自体よりも、その背後にある圧倒的な命の軽さと、群としての目的に個の尊厳が軽んじられても無問題、万事OKという「価値観の転倒」のほうが怖いのだ。
あれ? でもこの感覚って……そう、昨今まさに展開されている、ロシアによる人海戦術的なバフムート攻防戦のそれにすごく近いんだよね。人の命に対するお国のざっくりした感覚とか、それをなんとなく受け入れちゃってる低IQの野良白人集団の魯鈍さとか。ああ、ほんと、いやだ、いやだ。

ラストは非常に切れ味がよいというか、刹那的というか、ああそう来たんだって感じ(笑)。
これくらい「いさぎよい」終わり方のほうが、映画としては観客の脳裏に焼き付いて忘れられないから、割といいのかもしれない。

最後に。
この映画、出てくる悪魔教団って、どう考えてもあからさまに「KKKのパロディ」なのに、なぜか黒人はまるっきり出てこない。
これで追いかけられるカップル×2が、北部から来た黒人たちだったりすれば、まるで装いの異なる映画になったはずだが……。
これだけきれいさっぱりと「黒人要素」が排除されてると、逆に薄気味悪いというか、作り手の何らかの意図を感じて、ちょっと空恐ろしい感じもする。
あえて危険な政治的領域からは一歩引いた、単純明快な娯楽作として作りたかったか、あるいは不自然なまでの「不在」に、敢えてこめたかったなんらかの意図や含意があったのか。

って、まあそんな小難しいことを考えて観るような映画じゃないんだけどね(笑)。

じゃい