「恐ろしいことを共有する濃密な絆」愛の嵐 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
恐ろしいことを共有する濃密な絆
狂気、というものを経験したことがないから、すべては想像でしかない。狂気に落ちて「あの時私は狂っていました」と振り返るようなものではないんだろう。
恐ろしいのに素晴らしくも思う。「愛」と一言で言うには不足しているようにも、過剰にも感じる。その複雑さが興味深い。
歳を重ねてからのシャーロット・ランプリングしか観たことが無かったので、中性的なのに肉感的で、清純で高潔なのに蠱惑的でもあるルチアの存在感は素直に凄いと思った。
今は完全にお年を召されているが、内側から滲み出る迫力みたいなものはこんなに若い時からあったんだな。
不正行為の三要素、というものがある。
「動機」「機会」「正当化」の3つが揃ったとき、不正行為が発生する、という考え方だ。
「愛の嵐」で描かれる退廃的な愛の狂気は不正行為とは異なるが、良識の範疇を外れてしまう、という意味においては共通する部分があるように感じる。
マックスとルチアが出逢った時、マックスはSSの高官でルチアは収容所の少女だった。マックスにはルチアの生殺与奪権があり、ルチアには生きる権利すらなかった。
性的な欲望という動機と、立場の違いという機会をナチズムが正当化した環境で二人の関係は始まる。
この正当化はルチアにも大きく影響し、生存のための戦略が逢瀬を重ねる毎に歓びへと変わっていった事は想像に難くない。
快楽という意味だけでなく、自分は特別なのだという歓び、相手を支配できる力への歓び。
マックスはルチアのためにルチアの嫌った男の首を捧げ、ルチアはマックスを誘惑するように歌い、踊る。
戦後全く異なる立場で再会したとき、二人は互いに戦慄したはずだ。地味ながらに平穏な毎日を脅かす存在。忌まわしい過去から逃れ、何不自由ない生活を脅かす存在。
しかし、それとは全く逆の、背徳にまみれ、ただ愛しあうことに没入した日々は、抗いがたく二人を誘う。危険だとわかっていても止められない。
その感覚は私にはわからない。ただ、もし体験したら私だって踏みとどまれるとは言い切れない、そんなヤバさを感じる。
猫とシンクロするようなルチアの佇まいが、もはや人間性や理性が遥か彼方へと追いやられてしまったようでゾクリとした。
ナチスドイツの軍服を見るたび、カッコいいと思う。そして、「カッコいい」なんて思ってはいけない、と思う。
悪いとされていることに、強烈に惹かれる経験は誰にでもある。
愛した男の首を求める「サロメ」の物語が何度も上演される名作であるように。
幸いにも道外れたことのない私には、マックスとルチアの愛の終焉を、安全な手すりの内側から固唾を飲んで見届けることしか出来ない。