「十字架を担う人」ゲルマニウムの夜 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
十字架を担う人
本作の主題は何だろう?神への冒涜か、それとも神の喪失か・・・。否、大森監督が本作で描きたかったのは、新しい神の姿だ・・・。
意味もなく人を殺した朧は、生まれ育った教会の救護院に戻ってくる。定期的に行われるミサには、信者たちも集まって来るこの教会には、暴力や異常(変態)性愛、様々な汚いものが蠢いている。これらの行為は神への冒涜だろうか?実はここで行われている異常な行為は、ここにいる異常な人々が作り上げた神に守られている証拠だ。その顕著な例が、朧に下の世話(もちろん性的な意味で)をさせている修道士だ。彼は行為の最中に祈祷書を読んでいる。だがそれは決して自分の罪を悔い改めるためではない。「常識」という枠組みから逸脱している彼は、かろうじて修道士という立場(=神に守らている者)から、人々の尊敬を得ている(もちろん信者に正体は知られていない)。修道士という鎧が取り除かれたとたん、彼は「人間」として軽蔑されてしまうのだ。彼にとって宗教は、自分が「人間」であるための必要不可欠なものなのだ。自分で作り上げた偶像である神の庇護のもと、欲望をむき出す人々。そんな中での朧の立ち位置は何だろう?
朧は、修道士の欲求に淡々と応え、仲間たちのイジメも受ける。その反面、イジメを行う奴に容赦ない暴力をふるい、処女である修道尼を犯す。朧を演じる新井浩文の独特な存在感が実に良い。一見大人しい純朴な青年だが、瞳の奥に狂気が潜んでいる。では彼もまた、偽物の神の庇護下で自分の欲望を爆発させているのか?朧は、この中では唯一「常識」的存在である高齢の修道院長に、神に対する挑戦状をたたきつける。“許す人”であるはずの修道院長だが、あまりにも冒涜的な言動に怒りを露わにする。しかし臨終の際に「朧は神に近い」と言い残す。
本作には不快な描写が実に多い。暴力や性行為だけでなく、生々しい豚の解体シーンなど。中には思わず目を逸らしたくなる光景もある。しかし本作において一番不快なのは、画面から滲み出てくる“臭気”だ。朧が働く家畜小屋の臭い、腐った食べ物の臭い、痰や反吐の臭い、そして「足の指の股に溜まった垢」の臭い。強烈な悪臭に吐き気をもよおすが、これらは全て「生き物」の臭いだ。
現代の人間社会において、不潔は悪とされている。足の指の股に垢を溜めるなどおおよそ「常識」外だ。しかしそれは「人間」が決めたルールであり「生き物」としての自然に反している。「人間」が「生き物」より上の存在であるという驕りから形成された人間社会は、前述の修道士のような歪んだ者を生んでしまう。だとすると「人間」が創り上げた「神」もまた、自然界では歪んだ存在だ。
朧が挑むのはそんな神だ。彼は「生き物」として自然な感情のまま生きようとしている。彼は、その無表情の中に「生き物」としての素直な感情を秘めている。怒りや戸惑いや快感という人間らしい感情を一番持っているのが、この無口で無表情な朧だ。足の指の垢の臭い(=生き物の臭い)を感じることのできる素直さ。もしかしたら彼は、文明を持たない古代の人々が畏れた神を呼び戻す救世主なのかもしれない。何故なら、人を殺した鉄パイプを肩に担いだ彼の姿が、まるで十字架を担うキリスト(救世主)に見えるから(そのキリストとて「人間」が創ったものだが)。
救世主朧の担う十字架は重い。しかしそれを背負い続けなければならない、彼が夜な夜な聞くゲルマニウムラジオのノイズの中に聴く“神の声”が、いつしか彼以外の人々の耳に届く日まで・・・。