劇場公開日 2004年9月18日

「ハラスメント+しょぼい作品=日本映画」完全なる飼育 赤い殺意 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

1.5ハラスメント+しょぼい作品=日本映画

2022年5月23日
PCから投稿

(憶測に過ぎない記述があります。)

さいきん(2022/05)河瀬直美に新たなパワハラの報道があった。
先月、自身の映画「朝が来る」の撮影現場にてスタッフを蹴った──という文春砲があったばかりだった。

『(中略)そんな中、主にアメリカで活躍する俳優の松崎悠希が5月19日、自身のツイッターを更新。《中島哲也監督の撮影現場でのパワハラが話題になっていますが、ここで改めて、今度「日本代表」としてカンヌに行く河瀬直美監督が「2つ目の窓(2014年)」の撮影で 当時16歳の俳優にどのような「演出」を行なっていたか見てみましょう》とツイートし、河瀬監督の撮影現場のショートムービーを投稿した。
動画には、河瀬監督が16歳の俳優に対して「なんで1回言われたぐらいでやめるの!」「いつも言いなりか!」「カメラから逃げるな!」などと絶叫している様子が映っていた。』
(まいじつの記事より)

日本には「追い詰める」という指導方法がある。

それが映画で使われる場合、映画監督が俳優に対し恫喝や罵倒をたたみかけることによって俳優の心が折れ、感情が露わになった姿に価値がある──とする演出法。のことを言う。

この様態は、たとえばスポーツ、ダンス/舞踏、音楽、などにおいてその師匠が生徒や弟子を厳しく指導するばあいの「追い詰める」とは、まったく意味が異なる。

スポーツやダンスや音楽などの分野で世界を目指している者が厳しい指導を受けるのは、そうしないと負けてしまうから。勝負には精神的な強さも必要だから。技能が上達/熟練しないから。基準点を満たせないから。
──きわめて当たり前の指導方法といえる。

対して演出家が役者を「追い詰める」のは、前述のとおり、徹底していたぶることによって彼/彼女をいったん崩壊させることを目的としている。

ところが「「追い詰める」ことによって良い演技をひきだせる」と証明されたことはない。あるとしたら都市伝説である。

わたしは(演出が)厳しいとされている相米慎二監督や井筒和幸監督の映画に厳しいゆえの効果を認めたことがない。それは悪くない映画だったかもしれないが厳しいゆえの効用だったのか、結局わからない。

もし演出家が「追い詰める」ことによって良い演技をひきだせる──と思っていたとしても、そのことに根拠や証拠を呈示できるだろうか。

もし根拠をもって「追い詰める」ならば①やさしく演技指導した場合②ふつうの言葉で演技指導した場合③威圧的に演技指導した場合──それぞれの実証結果を、演出家は持っていなければならない。

映画とは気合いとか「心を込めて」とかで作るものではない。技術の集約で成り立っているものである以上、役者を「追い詰め」た場合の実証結果①②③を、映画監督はたずさえていなければならない。わけである。

とうぜん河瀬直美にそんなものはなかっただろう。「泣かすといい絵になるかも」みたいな漠然とした思惑だったと思われる。お涙頂戴の演出家が根性論で映画製作をしているのは「やっぱりね」だった。

ただし河瀬直美に限らずこのような加虐的な演出法というのはおそらく日本映画のお家芸だと思う。

日本の(多数の)映画監督のルーツがポルノにあるのは知られた事実だが、昭和世界では団鬼六のような筋書き上の加虐と、監督の女優に対する加虐的演出が同時に行われていたことが容易に推察できる。

なぜそうなっているのかといえば映画監督が映画を監督する目的のひとつが、出演女優と体よく懇ろになること──だったからだ。

日本の映画監督の多くがポルノ出身者であるならかれらの初動は全裸監督とたいして変わらない。映画をやろうとしていた──というより、色物な世界に入って女優と懇ろになれたらラッキーだろうな──が彼らのスタート地点なわけである。

「追い詰める」演出法もそんな監督の全権主義によって培われたものだろう。「追い詰め」て女優を服従させ彼女の懐に入りこむ──という映画監督だけがなしえる攻略法を用い、映研の童貞男が日本中の男たちが羨む女優をGETする僥倖に与ったわけである。そもそも(少なくない日本の映画監督が)そのために映画監督になったのだ。
すなわち日本では伝統的に映画監督がサディストでいられる地盤があった──と見ていい。

そもそもATG映画群はそんな現場の極限状態がもたらす世界と言ってよかった。すべてが勘違いだった。今の人たちが、いったいATGの誰を知っているだろう。日本で知られているカウンターカルチャーといえば後にも先にも大島渚しかいない。

日本映画界というのは言ってみれば加虐に歓びをかんじる映画監督の無意味な要求をのんで散っていった数知れない無名俳優たちの墓場──である。

『(中略)この直後に行われた映画『完全なる飼育 赤い殺意』(若松孝二監督)の主演オーディションを受けることとなった。
オーディションでは最終候補約20人の中から絞り込まれた2人にまで勝ち残ったものの、結論は持ち越しとなった。翌日、マネージャーとともに若松監督の事務所を訪ねて直訴。度胸を試そうと考えた監督にその場での脱衣を要求されたところ躊躇うことなく即座に全裸になり、陰毛が長いことを理由に「その毛も全部剃るぞ」と畳み掛けられても「結構です」と即答した。このような過酷な要求を即座に承諾する心意気が評価され、その場でヒロイン役が決定したという。なお、この会話から劇中に佐野史郎による剃毛シーンが取り入れられた。
ロケ撮影は2004年3月に新潟県六日町(現・南魚沼市)で行われた。長年監禁されているという設定からすっぴんでの撮影であること、実際に佐野史郎により陰毛を剃られること、ヌードシーンでも前張り無しが前提であったことは本人にとり「三重苦」であった。オーディション時には勢いで全裸になったものの実は肌を露出する仕事は初めてであったため、映画の撮影現場で初めて裸になる日には羞恥心から物陰で泣いたという。』
(ウィキペディア、伊東美華より)

この引用は若松孝二監督の映画「完全なる飼育 赤い殺意」に主演した伊東美華のウィキペディアにあったもの。

『度胸を試そうと考えた監督にその場での脱衣を要求されたところ』──とあるが、正にどストライクな根性論である。
この発言は現代のポリコレのコードを大きく逸脱しているが、昭和だろうと平成だろうと令和だろうと、たいして変わらない世界なのだろう。
たいして変わらないからこそ、今になって園子温や河瀬直美といった強権スタイルの映画監督が相次いで告発されているわけなのだ。

主演の伊東美華氏のウィキペディアには2004年以降の活動歴がない。で、もういちど繰り返すが日本映画界というのは言ってみれば加虐に歓びをかんじる映画監督の無意味な要求をのんで散っていった数知れない無名俳優たちの墓場──である。

やさしく演技指導しましょう──とか、そういう話をしているわけではない。厳しくない世界などありえない。

今世間で告発されている園子温や河瀬直美は、とんでもなく持ち上げられてしまった御山の大将だった。

園子温はマスコミのゴリ押しによって日本の代表的な映画監督だとポジションされてきた。こけおどしの残酷描写と「海外で大絶賛」という自演マーケティングによってなんとか体裁を保ってきた。

河瀬直美はオリンピック映画の監督に任命され、ユネスコの親善大使になり、日本の最高学府での祝辞を依頼されている。過分な厚遇はカンヌ映画祭という権威に対する盲信によるものだ。

ふたりとも裸でいることを容認された王様だった。曲がりなりにも小物であることがバレていなかった。今までは。

ならば罪深いのは、そんなとるにたりないクリエイターを持ち上げ続けた周りなのかもしれない。
園子温や河瀬直美の映画見りゃ、たいした人間じゃないってわかるだろうに。

さいきん相次ぐ映画監督の告発は、今まで持ち上げてきた人たちのリテラシーのなさにも因る、と思った。──という話。

この映画は伊東美華氏が気の毒。ほとんど全裸でがんばっている。ひたすら気の毒なだけで他の感想はまったくない。余計なお世話だが消えた俳優の熱演を見ると「どこかで楽しく暮らしてますように」とか思う。

当然ながら河瀨直美に怒鳴りつけられた「当時16歳の俳優」に対しても心の平安を願うばかり。君はなんの意味も価値もないいじめに遭ったのだ。

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津次郎