「日本人の良心」たそがれ清兵衛 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
日本人の良心
真田広之は『SHOGUN将軍』のエミー賞受賞ですっかり時の人になった。ふしぎなほど(日本へ)戻ってこない人だったから特大の成果が出てよかった。安堵した。
侍の話なのに外国人にウケるつくりになっていることが賛否になっていたが映像作品は俗受けこそが正義。監修に飛躍が入っても構わない。ウケなければ何も伝わらない。ドラマも映画も観る人にウケることが大前提、じぶんは中華戦記のキングダムがしぬほどきらいだが、大衆にウケたならそれが勝ちであり正義だ、そういうものだと思っている。
『SHOGUN将軍』は長年海外で、極東の侍の話をどうやって外国人にうったえたらいいかを念頭に役者をやってきた真田広之だからこその成功であったに違いない。
ところで真田広之と言えば、わたし的にはこれ。山田洋次の藤沢周平はぜんぶ傑作だが、なかでもいちばんよかった。
再度見たら余呉(田中泯)がジロっと梁を見たのに気づいた。
大太刀が梁につっかえて切られるのだから、とうぜんあっていい伏線だが、かつて見たときは気づかなかった。
余呉がけっこうしっかりと梁を見て、つまり梁を注意しながら切り結んでいたのに、とどめで大上段に振りかぶってやられる。
だから伏線は「余呉は大太刀が梁につっかえることを用心している」ことと「もしも大太刀が梁につっかえたなら小太刀の清兵衛に勝機がある」ことを併せて伝え、クライマックスの真剣勝負の緊迫感に貢献していた。
たそがれ清兵衛はすんなりとはいかないストイックな話だった。次女「いと」が回想する構成になっていて、ナレーションと後年の老成した次女「いと」を岸惠子が兼任した。
後日譚で、ともえ(宮沢りえ)は清兵衛と夫婦になるが三年足らずで戊辰戦争になって清兵衛は戦死。ともえは義娘ふたりと東京へ出て働きながら娘を嫁がせて亡くなる。そこから最後のナレーションを文字起こししてみた。
『明治の御代になって、かつて父の同僚や上司であったひとたちの中には出世して偉いお役人になった方がたくさんいて、そんな人たちが父のことを「たそがれ清兵衛は不運な男だった」とおっしゃるのをよく聞きましたが、私はそんなふうには思いません。父は出世などを望むような人ではなく、自分のことを不運だなどとは思っていなかったはずです。わたしたち娘を愛し、美しいともえさんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたに違いありません。そんな父のことをわたしは誇りに思っております。』
ナレーションに同感で清兵衛は不運な男だった──とは思わなかった。映画に甘さはなかったが、清兵衛は短いが輝きのある人生を生きたと思う。すがすがしい後味だった。
清兵衛の人生は暴力を使いたくないのに暴力を使うことを強いられた人生だった。家族という温かな世界と、余呉や甲田(大杉漣)のような暴力や戦国の無情の世界とが、隣り合っていて、つねに平穏がおびやかされる。そのことを通じて「強さ」とは何なのかが語られていた。
強さとはそれを誇示するものではなく、とはいえ家族を護るために強くなければならず、とはいえ暴力的なまがまがしさを娘たちに見せてはならず──それらの矛盾の狭間で、常に温柔な父親であろうとした清兵衛の生き様が描かれていた。
それは何も特別な状況ではなく、たとえば恋人あるいは家族と街や商業施設にいるとき、輩っぽいのがたむろして騒いでいるところに遭遇するみたいな──そういう状況におちいることがある。
こちらは幸福な気分でいて、まがまがしい者らに関わりたくないし、家族にじぶんのまがまがしさを見せたくもない。
それでも、もし連中が絡んでくるのなら、じぶんのなにか・どれかを捨てて、戦わなければならないだろう。そのような試練は、案外日常に潜んでいるものだ。
現代でも俗世間を見下ろしたときに、強さを誇示しているような輩がいて、強さを誇示することに価値があるような風潮があって──だからこそ「たそがれ清兵衛」に強い共感をおぼえたに違いない。
正直に、強さをひけらかすことなく、だけどほんとは強い男でありたい──と思うのだが、とはいえ現実は映画じゃないから、正直に生きたとて、気立てよし・器量よしの宮沢りえのような嫁がきてくれる、なんてことはないが、たそがれ清兵衛は真っ当に生きよう──という気分にさせてくれる徳化映画だったと思う。
The Twilight Samuraiという英題で英語圏でもすこぶる評価が高かった。imdb8.1、RottenTomatoes99%と94%。
静かだが雄弁に日本人の良心を海外に喧伝してくれた映画だった。
畢竟たそがれ清兵衛や『SHOGUN将軍』や、数多の外国映画への出演を顧みると、真田広之の役者人生は事実上「日本人の良さを外国人にアピールする」に費やされてきた。じっさいどの大臣よりも優れた外交員たりえてきたのだった。