「凶行の意味は?」EUREKA ユリイカ yutakさんの映画レビュー(感想・評価)
凶行の意味は?
【40点】
悪い意味でサブカル的です。必然性を作品内で明らかにできていないような設定が数多く、非常に軽薄な印象を受けました。例えば、まったく大人の保護を受けずに兄妹だけで暮らす小中学生という設定には、どれほどの意味があったのでしょうか? 少なくとも現実的ではありません。現実的でないなら、作品内でその特殊な状況に理由をつけなければならないと思うのですが、両親が去ったという以外の理由付けが、果たして作品内でなされたでしょうか。
あるいは、バスジャックで殺害されかけたことがトラウマとなった被害者たちが、今度は加害者として殺人に関わるという設定に、妄想以上の価値はあったのでしょうか? そして、その心理に至った理由は、そういうこともあるだろうという創作者の勝手な憶測以上のレベルで明かされたでしょうか? 殺人というデリケートな問題に対して、我々は真に理解することなどできないはずです。だから、勝手な拵え話で娯楽作品に仕立て上げずに、分からないことは分からないこととして認めて、謙虚に遠くから事件に向かいあう姿勢だけが、(娯楽作品以外の)創作者の取るべき態度なのではないかと私は思います。別に娯楽作品は悪くありませんが、私が言いたいのは、この作品の題材は悪趣味だということです。
冒頭の「大津波がくる。いつかきっとみんないなくなる」という、こずえの独白から、海のシーンに至るまで、被害者たちの純粋さの象徴として水が登場し続けます。さらに被害者に対する外部世界の象徴として登場するのが酒です。単純に酒を飲んでいる人間が水の人間を傷つけるという構図です。しかし、海に行ったところで、役所広司がわざとらしく白い布巾を口に当てて咳き込むだけで、作品を総括するような出来事はそこでは何も起こらず、ラストの大観峰を待つことになります。果たして水対酒の構図にグループ分け以上の意味があったのでしょうか。
犯人の言った「違う人間になりたくないか」という言葉の解決だけは、面白味があったところかも知れません。役所広司演じるバスドライバーが、かつて思い描いていた理想とは異なる現実、「色のないセピア色の日常」に悩むなかで、バスジャック事件が起き、放浪の末、こずえという希望を発見(ユリイカ)して「色」を取り戻すという構成です。ちなみに、このシーンを「事件から再生」の象徴と捉えると、事件前からセピア色の画面であった理由が付かずにおかしいです。
しかし、どうしてこずえが希望だったのでしょうか? 賢いから? 可愛いから? どうして少年では駄目だったのでしょうか? 役所広司は何で死にそうになっているんでしょうか? 少年が殺人に至った理由付けが希薄な上、新たな被害者に対する責任というのが、司法に委ねるだけで何も試みられていないので釈然としません。(少年の犯行に拘るなら)彼らはバスを引き返して被害者家族に頭を下げに行くくらいのことをしなければならなかったのでは? 設定先行で陳腐な印象が拭えない作品です。