神の子たちのレビュー・感想・評価
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3秒にひとり。この数字は今、まさにこの瞬間、アフリカで堪え難い貧困...
3秒にひとり。この数字は今、まさにこの瞬間、アフリカで堪え難い貧困と飢餓のために死んでいる子供の数です。僕たちがそのことを知っても知らなくても、いや、むしろ、その悲劇的状況に問題意識を感じ、何が出来るのかを考え、悩み、相談し、何かを始めようとするそんな時間さえお構いなく、子供たちは死に続けています。僕はこの事実を世界的な貧困撲滅キャンペーン 「G-CAP(Global Call to Action Against Poverty)」の一環として日本で始められた「ほっとけない世界のまずしさ」キャンペーンで知りました(当キャンペーンの詳細は公式ウェブサイトをご参照下さい。)。
先日、その「ほっとけない世界のまずしさ」キャンペーンのイベントが行われ、そこで3本のドキュメンタリー映画を見ました。そして僕が一番衝撃的だったのが「神の子たち」(四ノ宮浩監督)という作品です。フィリピンのマニラから20Km離れたケソン市バヤタスのごみ捨て場で生きる人々の生活を追いかけた1時間半ほどの映画だったのですが、そのごみ捨て場で生活するというのが本当に壮絶で、文字通りごみ山の上に家(のようなもの)を作り、子を産み、育て、生きているのです。日々回収され、廃棄されるごみの、正にごみそのものの中に住み着き、その運搬されてくるごみの中から利用出来るモノ、売れるモノを探し、生活のほとんど全てをごみから享受して生きているのです。
2000年7月10日、そのごみ捨て場である事故が起きました。不安定なごみ山そのものが大量の降雨で崩落し、数えきれないほどの死傷者を出す大惨事が起きたのです。ごみの中で生き埋めになって死んでいく。映画はここから始まります。未だ止まぬ雨の中、冒頭、何の説明もなく、ごみの中に人間のかたちをした亡骸が埋まっています。悲惨とか、無惨とかいう言葉がその間ずっと僕の頭の中にありました。政府はこの事故により、その場所は危険な状況だと判断し、ごみ捨て場自体を閉鎖します。毎日来ていたトラックが来なくなり、人々が生活のためにごみ拾いをするまさにそのごみが手に入らなくなってしまいます。それでも、何か金になるものはないかと人々は毎日ごみ山の中をうろつきます。
廃棄物の灰塵で煙るそのごみ捨て場はスモーキーマウンテンと呼ばれていました。ひっきりなしに廃棄され続けるごみの粉塵の中で、ごみそのものの中に生活をしている訳ですから、当然、衛生環境も劣悪です。慢性的な栄養不足に追い討ちをかける様々な病気が、毎日弱った人々の身体を死に追いやっています。そんな悲惨な現実の中でも人を愛し、子供を産み、育てようとする。多くの子供たちが生後間もなく死んでいくというのに、自分の食べる分さえもないというのに、子供を産もうとする女性。事故後、ごみ捨て場が閉鎖され、生活の糧を奪われた人々の、ごみ捨て場再開に至る半年ほどの期間を、この映画は有り体なセンチメンタリズムに陥らせることなく静かに描いていました。そして、これほどの過酷な現実を見せられて尚、スクリーンに映し出された子供たちのまっすぐな瞳の美しさが、際立って印象に残る映画でした。
しかし、映画を見始めてどれだけたっても僕にはその現実がはっきりと理解出来ませんでした。ごみの山での生活などというあまりにも寓話じみたその風景に正直、面食らったということがあるのかもしれません。映画を見終わった今でさえ本当の現実なのか釈然としないものを感じているくらいです。なんで彼らはこんな場所にいるの?彼らはここで何をしているの?どう見たって明らかなごみを、更にごみの中から探し出して、果たしてそれがいくらになるの?誰が買い取るの?何故彼らはここを出て行かないの?
僕たちが貧困という言葉を聞いてまず想像するのは、アフリカかどこかの砂漠のような荒野で栄養失調に苦しむ子供の映像かもしれません。あるいは、ここ最近その動向が懸念される北朝鮮の地方都市の映像かもしれません。しかし、現実の貧困はそんな教科書的な分かりやすいイメージをもっていません。単に「食べる物がない」から人は飢えるのではないのです。単に治せる薬がないから人は病に倒れるわけではないのです。食べ物をいくら作っても、経済がグローバル化し、交通が整備され、技術革命がいかに発展を遂げようと、あるいは、現代医療がいくら進歩を遂げようと、そこで生活する人々の最低限の暮らしが保証されるわけではありません。世界では年間1000万トンの食料援助が行われていますが、日本が一年間に廃棄する食べ残しはその実に2倍もの2000万トン以上だそうです。食べ物が世界的に足りないわけではないのです。このことは食料問題に限りません。
21世紀に入り早5年、世界はあらゆる局面で危機的状況を迎えています。平和、安全及び軍縮などの戦争問題。開発及び貧困問題。地球環境問題。病気やウイルスなどの保健医療問題。教育問題。人権、民主主義の健全な統治などの内政問題。深刻な事態を憂慮した国連は2000年にミレニアム会議を開催し、ミレニアム宣言を提唱したのは周知の通りです。そして、それぞれの分野でそれぞれの状況を好転させるための目標を掲げています。目標の達成はそうそう簡単なことではありませんが、現実の世界状況を考えるにあたって僕たちは悠長なことを言ってはいられない段階に来ています。それは最早、目標ではなく、義務と言い換えるべきなのかもしれません。ネルソン・マンデラ氏はこの時代を、そしてこの時代に生きる僕たちの世代を、チャンスに恵まれた世代だと言いました。後の世で歴史が僕たちをどう判断するのか。今こそがその選択の時だというような主旨をマンデラ氏は述べていました。
この言葉を初めて聞いた時、僕は震えが止まりませんでした。絶望の未来も希望の未来も僕たちの手の中にある。それは今まさに僕たち一人一人の選択に係っている。現実に3秒にひとり、この世界で子供が死んでいる。満足な食事にありつけない人が何億人もいて、安心して眠れない子供たちが何億人もいる。本当に僕たちは世界を変えられるのだろうか?本当に僕たちはこの世界の苦しみを乗り越えられるのだろうか?僕たちは本当に僕たち自身を救うことが出来るのだろうか?
冒頭で紹介した「ほっとけない世界のまずしさ」キャンペーンは、世界の(特にアフリカの)貧困に取り組んだ世界規模で連携し展開されている運動です。白い帯で意思表明する「ホワイトバンド」でご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、所謂チャリティー運動とは種類が違うものです。チャリティーとは寄付金を募る主旨のものですが、現実問題として現在の貧困問題はお金で解決出来るものではなくなっているそうです。20年前に世界的規模で行われたチャリティーコンサートで「ライブエイド」というものがありました。世界的なミュージシャンやアーティストが集まって280億円もの募金が集められましたが、現実にはその金額はアフリカなど深刻な貧困を抱える発展途上国が先進国に返済する債務のたった1週間分の利子にも満たなかったそうです。
一時的な支援、救援活動ではほとんど成果をあげられないという現実を踏まえ、本プロジェクトは大まかにわけて3つのことを提案しています。1つは援助の量と質を上げること。(日本は世界第2位の国際援助額7862億円を拠出しているODA大国ですが、国連が提唱するODAの国際目標がGNIの0.7%であるのに対し、現在ではまだ0.2%しか拠出していません。)2つ目は発展途上国の天文学的な債務の帳消し。(IMFや世界銀行など先進国主導になって行われている財政支援は実のところ莫大な利子を必要とし、先進国に有利に働く様々な規制のみを債務諸国に強制している。)3つ目は公平な貿易の仕組みを整えること。(先進国の利益が最優先される現実の貿易市場において更に利益の不均衡は促進されている。)
この3つの提案とはつまりその場しのぎの対応ではなく、持続可能な安定型社会をつくるための政治、経済、社会における構造的な改革です。「ホワイトバンド」を巡っては賛否両論、いろいろな議論が交わされています。大スターを起用したCM。ファッションの文脈で流通するマーケット。運営団体の不透明な会計。しかし、本プロジェクトの目的が単なるチャリティーではなく、構造そのものの抜本的な意識改革である以上、こういった議論も含め、実際に僕たちに何が出来るのか?そのことを考えるあたってとても多くのきっかけを生んでいると思います。
僕たちはこの世界を変えるために何ができるのでしょうか?それは考えるのも、行動するのも、とても難しいことです。但し、未来は僕らの手の中にある。このことは本当の事実なのです。
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