私が棄てた女のレビュー・感想・評価
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2人の女性が主役 昔の男にドン引き
題名だけ知っており、アマゾンプライムに入っていたので見た。当時の日本の景色、時代背景が映されて車や看板のデザインから目新しく、古い映画は戦後史の資料のよう。 主役の吉岡努(河原崎長一郎)は、当時の早稲田大学卒で、尚且つ社長の姪マリ子(浅丘ルリ子)と婚約中。というけど、無愛想かつエラソーで魅力は無い男。 大学からの友達長島(江守徹)もひどい。 大学時代に長島は「明星のペンフレンド募集コーナー」で女を物色、自分がモテないのを棚上げし「ブタばっかり」と悪態つきながら(ブタ5連発してた)「タダでやれる相手」と吉岡をそそのかす。胸糞悪い。 吉岡は待ち合わせに来たミツに対し、最初から偉そう。初日でアパートに連れ込み襲おうとまでする。これで2度目のデートが有り得るって、よほど手紙の中身が良かったのか……。 ミツは太り気味で、垢抜けず鈍臭い田舎の女子。でも、明るくて気はよく、海岸で「東京ドドンパ娘」を演奏し踊ってる人達に混ざり、一緒に踊ってるの面白かった。 吉岡は離れたとこで仏頂面でみてるだけ。ミツは一緒に踊るような明るい男子と付き合った方が幸せになれた気する。 吉岡は酷すぎた。海岸の小屋に置き去りはミツが危険な目に遭う可能性もあったのに。しかも避妊もしてないとは最悪。 男は何のリスクもなくやり捨て、女は棄てられた挙句、中絶費用を払わされ怖い手術台に登り体の負担と罪悪感を引き受けるとは? 今も中絶費用を捻出できず産み捨てた女性が逮捕されてる事件があるけど。 ミツは、高額の中絶費用を作るために、友達の勧めでおじさんに売春したらしき場面があり悲惨。 やり捨てられ後も、まだミツが吉岡を好きなのはリアリティはない。後年会った時、中絶の話して費用ぐらいは取り立てたら良かったのに。痛快な復讐劇になれば良かったが、そうはならない。 少女期は楽しく遊んだ友人も、都会で売春斡旋業に堕ちてた。故郷に帰らずにこの友だちに頼る必要ある?とは思ったが。 傷ついて堅気の仕事する気にならなかったのか、吉岡とまた会いたくて東京を離れなかったのか。 マリ子が吉岡を好きになった理由はさらに分からない。美人かつ社長の姪で性格も悪くなく、歌もうまい(突然歌のシーンが)、 離婚歴があるとはいえ、引く手あまたな気がする。 会社で「お預けは勘弁だから」とマリ子の都合無視して「下宿に来いよ!」と命令する男のどこがいいのか。マリ子は「怒った目が好き」とか言ってるが、そうはならないだろう。 マリ子の親戚の集まりで、吉岡はマリ子のどこが好きと聞かれ「綺麗だから」しか答えてない。 社長のドラ息子が「キャディなんてうんと虐めて辱めてやらなきゃダメだ」だの「女は半人間」とか言い出し、当時の差別男にドン引きするが。酔って異議を唱え食ってかかった吉岡も、女に関しちゃクズっぷりは変わりはない。 酔いつぶれた吉岡を、女性5~6人が連れ出し介抱するのも度肝を抜かされた。ガタイのいい男を運ぶのに男どもは誰も動かない。 「あなたなんか嫌」と怒るマリ子に、吉岡は何故か無理やりキスだの押し倒したりだの、DVにしか見えない。 ミツも世話焼いた老婆の息子にも無理やりキスされてたが、当時はまだセクハラという言葉もない。再開した吉岡にも合意なく押し倒されたり、女性は言いなりで主導権も拒否権もなかったようだ。 ミツと再開した料理屋の2階で、カーテンも閉めずすぐ横の人で盗撮する男の気配にも気づかない吉岡はおかしすぎる。ミツは、これで恐喝の共犯にされてしまう。そして友達に追求にいきあえなく亡くなる。 吉岡もマリ子に捨てられ会社もクビになり、何もかも失うかと思いきや。 突然カラーの前衛的な夢を見る吉岡。 現実に戻ると、なぜか老婆の息子と将棋さして、髪を切り妊娠したマリ子が家にいて、仲良く喋ってる(老婆の息子、子猫持ってる?)シュールな光景……。 マリ子は、なぜか吉岡の元を去らなかったらしい。そして吉岡が持ってたミツの遺影写真は焼きながら、ミツを殺したものと対峙すると決意。 妊娠してる時に、夫が好きだった薄幸の女性や同じ境遇の人達のために動こうと思えるのだろうか。またミツを死なせた1人は夫なのだが。 やり捨ててもずっと自分を思い続け、何も要求せず、結婚してからもやりたい時やらしてくれて若く亡くなるミツ。 美人妻がほしい出世もしたい欲を叶えてくれ、浮気がバレても離婚せず自分の子を産んでくれる妻。 どちらも偉そうな男に都合がよすぎる女性ではないか。家父長制、男尊女卑、女への暴力、セクハラモラハラを消し去ることがミツへの供養だろう。 後に豊かな時代へ突入はしたけど、不幸な人が見えづらいところへ押しやられた。そしてまた格差が生まれたが「自己責任論」がまかりとおり、恵まれた者の責任という発想が無くなった。
苦闘する女性たちを通じて日本の差別構造を糾弾?!
浦山桐郎監督による1969年製作の日本映画。原題:The Girl I Abandoned、配給:日活。
原作は読んでいない。ただ,キリスト教色は無く、かなり改変されていることはまあ十分に予想されるところ。
一度見ても良く分からず二度見し、現在でも通じる凄い傑作映画との印象を抱いた。主題となるものは、そう今も尚存在する、差別する者との差別される側の闘いとでも言えそうか。都会者と田舎者、金持ちとそうでない者、女性差別者と非差別者、高学歴者と低学歴の者、資本家と労働者、学生運動から要領良く転向する者とそれをずっと引きずる者、都会に染まり悪事を働く人間とそうでない人間、強者と弱者が描かれ、更に差別される側の人間として、出戻り女、障害者,年寄りが登場する。
主人公吉岡勉(河原崎長一郎)と三浦マリ子(浅岡ルリ子)は早稲田卒の学歴や金持ちの家系子女で差別する側に居た訳だが、その場所にはどうも落ち着いて居ることが出来ない。吉岡には森田ミツ(小林ミツ)を棄てた過去があり、マリ子も親の言いなりの結婚で失敗した過去が有る。無垢なミツの死を経て学びを得た2人は、差別される側に寄り添って生きていく模様。そのことが最後、マリ子が差別する者たちと闘う決意を表明することで示される。
浦山監督作を見るのは「青春の門」以来2作目。大竹しのぶの演技も凄かったが、この映画で登場する女優達の演技も素晴らしい。
小林トシ江演ずるミツは最初の方はいかにも冴えない田舎娘であるが、純真に吉岡を想う恋心には惹かれるものがあり、どんどんと美しく魅力的に見えて来る。過去映像として挿入される堕胎シーンで吉岡さーんと叫ぶ姿が痛く悲しい。後半では、戦争で片足無くした経営者が運営する老人施設に押しかけ就職し、正しく生きていく逞しさも感じさせた。
ミツの幼馴染だが、対照的に都会で売春を束ねる様になるしま子演ずる夏海千佳子の悪女ぶりも良かった。ミツの恋心を利用し、吉岡の妻三浦マリ子から金を巻き上げようと画策し、意図は無いにしろミツを死に至らしめる。悪になってしまった彼女も差別構造の犠牲者か。
そして吉岡勤める会社社長の姪ながら、金持ち生活を捨て吉岡の妻となるマリ子を演ずる浅丘ルリ子もとても良かった。叔父に頼る母の生き方への反感や結婚失敗を経て自分の生き方への疑問を感じている彼女は、新しい時代の若者への監督・脚本家の希望の象徴か。出演作も多いが、美しく気品もあり強さも備え、彼女の代表作の一つか。最後、彼女のアップで終わり、彼女の主演映画にも思えた。
一方、主演の河原崎長一郎、彼の学生運動からの友人役江守徹、部下役小沢昭一と男優が皆魅力無いのは「青春の門」と同様で、浦山監督作の特徴?まあ、その中で労働者役の加藤武はミツへの強引なキスや最後の主人公との将棋シーンで印象には残った。
脚色山内(「久豚と軍艦」等)、原作遠藤周作、企画大塚和、撮影安藤庄平、美術横尾嘉良、音楽黛敏郎、録音紅谷愃一、照明岩木保夫、編集丹治睦夫、スチール寺本正一。
河原崎長一郎(吉岡努)、浅丘ルリ子(三浦マリ子)、加藤治子(三浦ユリ子)、小林トシ江(森田ミツ)、加藤武(森田八郎)、岸輝子(森田キネ)、夏海千佳子(深井しま子)、
江角英明(武隈)、江守徹(長島繁男)、山根久幸(友人太田)、辰巳柳太郎(清水修一)
織賀邦江(清水綱子)、大滝秀治(清水修造)、北原文枝(清水友枝)
中村孝雄(清水修巳中)、阪口美奈子(清水由起子)、小沢昭一(大野義雄)、佐々木すみ江(赤提灯のてる)、遠藤周作(医者)、佐野浅夫(医者)、園佳也子看護婦園佳也子。
原作とは全く別物として観る作品だとしても…
遠藤周作原作とは全く異なる内容だ。 小説では、ほぼ吉岡が語る物語だが、 実質的に森田ミツが主役の話だ。 しかし、映画のキャスティングでは 吉岡とマリ子がメインで、 ミツの扱いは原作からはほど遠い。 また、「砂の器」と同じく、 映画としては表現出来ない背景があったと しても、ハンセン病には触れていないから、 小説でのミツがハンセン病の陰性が 証明されても病院に残る決断へ繋がる 彼女の思索が無く、 遠藤周作のキリスト教感に基づく 大事な要素が全く抜け落ちていると 言わざるを得ない。 往々にして原作本の映画化に際しては、 監督は原作とは異なる芸術性創出のために かなりの改変を行うことがしばしばだが、 同じくハンセン病を扱った両作品の映画化 で、私にとっては 上手く改変したのが「砂の器」で 残念なのが「私が棄てた女」のイメージだ。 また、人間的な魅力を感じない描写で あるにも係わらず、 社会的には何故から出世を遂げていく 吉岡の人物像には不自然さを感じる。 話の展開として私が特に残念なのは、 知り合いのホステスの手配での ミツと吉岡の情事を揺する展開だが、 余りにも問題を通俗的に特殊解化させて しまい、 テーマの普遍化を妨げていることだ。 この作品、原作からは離れ、 社会的格差に深く切り込んだ内容に思える。 そして、ラストシーンで、 ミツを悲劇に追いやった皆々が、それでも それなりに生きていくことや 背負っていくものの重さも示唆される。 原作とは全く別物として観るべき 作品なのだろう。 しかし、作品案内に原作が 「遠藤周作」とある映画である以上、 どうしても私の好きな小説 「わたしが・棄てた・女」から 頭が離れないままに鑑賞してしまうことは 間違いないだろうから、 これ以上の鑑賞は難しいかも知れない。
本当に棄てられたのは誰でしょうか?
見応えがありました 疑いようもない名作です 河原崎長一郎が演じる最低のカス男 浅丘ルリ子の60年代とは思えない現代的な美貌と肢体 そして何より小林トシ江が演じる本当のヒロインの熱演は、心を打つ見事な名演で強烈な印象を残します そうです 本作のヒロインは浅丘ルリ子ではなく、決して美しくもない小林トシ江なのです 本作は白黒映画ですが、途中主人公がヒロインと出会った頃のシーンを緑色に着色された映像で見せます また、中盤のヒロインの回想としての相馬の流鏑馬のシーンと終盤の主人公の妄想とエピローグだけがカラーで撮られています 実験的な演出手法ですが、効果的で成功していると思います 森田ミツは劇中で三度棄てられたのねと言われますが、終盤に行きずりの女だと言われて更に棄てられたのです 本当に棄てられたのは誰でしょうか? もちろん森田ミツです しかし、映像で語られる通り、彼女は60年安保闘争で敗北した理想の日本の未来だったのは明らかです そこに本作の真のテーマがあります 60年安保に敗北して、学生達はフレキシビリティを発揮して高度成長を始めた日本経済の中で資本主義の中で成功しようとしています 彼らは森田ミツという理想を棄てたのです そして彼女が身を持ち崩し五反田の風俗に身を落としていくのを見ても、なお見棄てるのです 日米安保体制に組み込まれていっているではないかといいたいのでしょう そして更に手切れ金を渡そうとし、また棄てたのてます これも70年安保に最早関わりたくないという60年安保闘争世代の姿勢を暗に批判しているでしょう 4度目は警察から取調べをうけて、行きずりと言ったのは、60年安保闘争での左翼活動は単なる行きがかりだけのことだと答えて活動を裏切ったと批判しているわけです 本作は1969年の製作です つまり70年安保に向けての60年安保世代からの懺悔と自己批判であり、同時に70年安保闘争世代に俺達と同じようになるな、森田ミツを捨てるなとエールを送っているのです 田舎から出てきた母と弟と上野動物園で合います 70年安保世代たる弟が立つ脇には立て看板があります こう書いてあります 考えよう!すてて良い場所、悪い場所 つまり70年安保闘争を見棄てるなと言っているのです ラストシーンの代官山ハイツで主人公は婆さんの息子と将棋を指しています 二級ボイラーマン合格のことでこんな台詞が飛び出します 地下に潜って考えるか もちろん、60年安保世代への呼び掛けです 60年安保闘争当時のデモ隊と機動隊との衝突の回想シーン、終盤の機動隊を思わせる黒ずくめの死神の集団 騒乱で荒廃した街並み、殺された人々 殺された死体から刃物を抜き戦車のようなものに立ち向かう主人公 浅丘ルリ子は70年安保闘争での実現したい理想の象徴でしょう 彼女は森田ミツのことを主人公に痛烈に批判しますが、結局彼を許しています 国民は理解している きっとわかってくれるとの期待です その上でラストシーンで彼女はこうひとりごちます ミッチャン、私はもっと貴方を知るべきだったのだ 今ワタシは貴方を殺した者をハッキリと見つけて、その者と戦って行かなければならない 愛するものを一生愛し続けながら 能面は自己批判のシンボルです ラストシーン、浅丘ルリ子の顔が能面を思わせ、夕陽に赤く染まる演出 日本はその自己批判を受け入れた、より良い明日が待っている それを夕陽の水平線を走る二匹の白馬に託しているのでしょう 二匹とは主人公夫婦ではなく60年安保世代と70年安保世代のことだと思います これが当時の文化人と呼ばれる人達の空気 吸いたいと激しく求めているものだったのだとおもいます しかし酸素は少なく彼らは呼吸困難に陥るのです そして昏睡してダメージを受けたのか 未だにその当時のままの精神状態で21世紀を迎えてしまったのだとおもいます それゆえに未だに森田ミツの手紙と写真を大事に隠し持って忘れられないのだろうと思うのです そんなことに21世紀の若者を巻き込まないで欲しいものです 森田ミツは田舎での無教養で美しくもなく、主人公からすれば性欲を満たす対象としか扱われません そこには無知蒙昧な大衆を指導するのだという、彼らの自分勝手な思い上がった、国民を蔑視している視線を感じます 森田ミツが不幸のどん底に堕ちてしまったのは自分が棄てたからだ、自分がすてなければこうはならなかったのだ そのような自己弁護であり、むしろ詭弁ですらあると思います とはいえ、映画としては素晴らしい作品です 名作で間違いないと思います
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