「『リング』を「父親の罪深さ」というテーマで再解釈した作品」らせん ビスコットさんの映画レビュー(感想・評価)
『リング』を「父親の罪深さ」というテーマで再解釈した作品
【視点人物とストーリー】
安藤(佐藤浩市)は法医学者(監察医・病理医)であり、登場時点では現代科学の代理人です。
しかし最終的には、生物工学の技術を「呪いの解明」ではなく「呪いの再生産」に流用します。
利己のために呪いの片棒を担いだという悪業が、感染や生まれ変わりによって連鎖する、
そんな不可逆的で終わりの無い連鎖の中継地点(または新種の連鎖の起点)として当事者化されます。
呪いはメディアを経由して再生産されていきます。
呪いを情報として捉える切り口は前作『リング』と同様ですが、
『リング』と比べると「呪い=情報」の図式がさらに純化されていて、
呪いの連鎖のギミック(媒体)が追加されているのが特徴です。
【「罪深い父親」というテーマの導入】
本作では、ビデオテープ、文章(手記・小説)に加え、
精液も「呪いの媒体となるメディア」として動員されています。
「情報伝達による呪いの再生産」を「父親」という概念を通して再解釈した、
いわばセルフオマージュ的作品だと思います。全体が『リング』の批評になっています。
(ここで現れる「罪深い父親」は、以後の鈴木光司作品に通底する主題でもあります。)
「生は呪いである」という信念もところどころで見え隠れし、
「父親=呪いの再生産の担い手」という発想を裏打ちしているように感じました。
古典的には仏教や精神分析学からの影響を観察するところですが、
現代的には反出生主義とのかかわりの中で再評価できそうです。
性行為は犯行現場として、生々しく描写されます。やや暑苦しい。
【罪悪感の演出】
前作『リング』では「不条理な死の連鎖」が恐怖のありかでしたが、
本作の恐怖はもっぱら「罪悪感」に依拠しています。
転生やカルマという仏教的な道具立てに、
感染症や情報拡散などの同時代的な末恐ろしさを組み込んで、
重層的に「ほかならぬ自分がしでかしたこと」を印象付けています。
【余談、「高山=イエス」?】
復活するやいなや終末を予言する高山(真田広之)はイエス・キリストを原型としたキャラクターかもしれませんが、
言動にはむしろ露悪が目立ち、「7日間」という象徴的な期限とも特に結び付けられていないので、
少なくとも本作品の中で完結した意味付けは難しそうです。