「映像化作品と原作の関係性」八つ墓村(1977) 山本さんの映画レビュー(感想・評価)
映像化作品と原作の関係性
映画単体としては中の上、原作の映像化作品としては下の下、というのが率直な感想だ。
果たして映像化作品と原作の関係性とは、そして原作は一体どこまで尊重されるべき要素なのだろうか、という自分の中で未だに解消されることのない命題を更に膨らませる一作である。
原作版の八つ墓村とは閉鎖的な村社会という魅力的な舞台設定、現実に起きた事件を元にした背筋の凍るような背景、ミステリー小説の花形である連続殺人、不気味な民間伝承、豊富なキャラクターの相関図や心情設定、一般人ではあるが普通の人間故に応援しがいのある魅力的な主人公の、国内において非常に知名度の高い金田一探偵の推理、埋蔵金探しに関わる冒険小説としての側面などといった数多くの要素を、高い次元でまとめ上げた、非常に出来がいい作品である。
知っているミステリー小説の中では確実に上位3作品に入る程、この上なく原作版には思い入れがあり、それだけに一種のホラー物としてはそれなりの出来栄えなことを認めつつも、どうしても納得できない疑問や不満を抱えてしまうことにある種のやりきれなさを感じてしまうのである。
時間的、あるいは制作者の嗜好などの様々な制約によって、前述した原作小説の多くが完全にスポイルされてしまっており、代わりに自己満足としか受け取ることのできないようなシークエンスがそれなりの尺を使って挿入されているのが自分が感じた最大の問題点である。
例をあげるならば、慎太郎及び典子兄妹の削除によって、犯人美也子の動機が非常に短絡的で曖昧、その上支離滅裂になってしまっていること。それに関連して、田治見家と慎太郎の因縁、そして各キャラクターの設定と魅力、相関図(典子と主人公辰弥、義姉春代との奇妙な三角関係)が全くなかった物となり、奥の深い人間関係の描写が大幅に劣化してしまっていることだ。
他にも主人公が性格の改変で無口で陰鬱な、細かな心情が不明な応援し辛いキャラクターとなってしまい、観客としての没入感が大幅に薄らいでしまっていること。
慎太郎の削除によって田治見家の人間がいなくなることにより資産を受け取るのが犯人である美也子な為、民間伝承に関連した祟りに偽装する、という連続殺人の設定が完全に破綻してしまっていること。またそれに関連して雷に打たれた杉の伝承を利用して対になる存在の片割れを抹殺するなどの魅力的な設定が完全に削除されていること。
財宝探索のパートが丸ごと削除されており読後に得られるカタルシスが一切なくなってしまっていることや各種キャラクターの動機や因縁が薄らいでしまっていること。
村人がただの群衆と化してしまい、辰弥との因縁、そして村そのものとの因縁が完全になくなってしまっていること。
そしてなによりも、これが一番衝撃的だったのだが、最後のシークエンスで金田一探偵がオカルトに基づく結論を許容してしまい、話を完結させてしまっている、ということである。
これは子供向けの童話を昼ドラに、ノンフィクション伝記をオカルトSFに、デビルマンをデビルマンに改変してしまう軽薄で絶対に許されない愚行であり、この要素を抜かすなら一体何をもって原作を下敷きにした映像化作品なのだろうか、と首を捻りたくなってしまう。
これらの要素を全て排除して、本作が導入したのは“落ち武者の復讐”という一部の限られた要素を膨らませることと“関西中国地方紀行映像”、そして“暗黒かつ複雑な構造の洞窟を延々と疾走する辰弥と美也子”である。
原作の魅力のほとんどを捨て、やりたかったのは金田一探偵が被害者が多数出ている連続殺人の現場を離れ各県を廻り、各関係者の家系図を調べていた、というミステリー映画なのだと思うと、視聴後肩の力が抜けるような感覚を味わったのだった。
繰り返しになるが、仮にオリジナルのホラー作品として見れば映像的にも物語的にも及第点であり、そういった観点から見れば評価することができる、ということは頭では理解できる。
しかしながら、内容の多くを改変し、全く別物に変えてしまった上で映像化作品として世に出す、という選択とは、原作小説のネームバリューを利用するという商業的な利点以外で一体何の意味があるのだろうか。
時間的な制約という側面から考えても、ミステリーという作品の根幹を大きく作り変え、その上で使える筈だった設定の数多くを捨てそれなりの尺を使って意味のない風景映像や文字通り、怪奇な映像を挿入されては、原作とは全て監督の自己表現の為に消費されてしまっているのではないか、という疑念を否が応にも抱かされてしまう。
原作を利用する映像化作品の創造性と原作への尊重という対立した関係性。
今日においても中々解消されないこの問題から自分が解放される日は果たして訪れるのだろうか。