「そこはかとなく寂しくなった」耳をすませば(1995) タケバヤシさんの映画レビュー(感想・評価)
そこはかとなく寂しくなった
東京の多摩に住む中学生の雫さんと、聖司くんの夢と恋愛と成長の物語。(あらすじはWikipediaで確認できるので割愛させていただきます)
ふとしたきっかけでTV放映で観たのですが、
私にとっては、とにかく、暗かった。
観た後しばらく立ち直れなかった
そして、ネットにあふれる、これが最高の青春とかいう声が
多いことを知ってまた落ち込んだ。
まず、全編にあふれるリアリティのある描写と、それとは真逆の
主人公たちのピュアすぎてファンタジーの域に達している感情の揺れ動きは
作り手のご都合主義というか、自分の感覚を客観的な調整なくして
映像化してしまったという感じがした。
決して良い暮らし向きとは言えない主人公たちの日常のリアリティと
そのような環境で根拠もなく、明るい未来があることを前提に繰り広げられる主人公たちの人生。
この差の空虚感が、私をひどく切なくさせた。
たとえば、雫が住むマンションの描写、二階建てベッドで眠る姉妹のようす、
家族の風景、場のリアリティを演出するための先生同士の無意味な会話、
このリアリティさは演出を超え、メッセージとすらなっている。
確かに日常とは無意味な会話の積み重ねだし、そういうなかにこそ
人生の輝きは存在するかもしれない。
これらをきちんと見つめることで、人生は豊かになるのだろう。
しかし、これにひとたび満足してしまえば、この日常は繰り返し、
庶民は永遠に庶民でありつづけるのだという社会の枠組みのリアル
すら感じ取ってしまった。
今の時代だからか。
雫のけっして広くない自宅、進路が決まらない日常、良くもない成績
才能も開花できないまま過ぎ去る青春。
この先のふたりに明るい未来や変化を期待できるだろうか。
ネットの多くのレビューを見ると、私だけが見れなかったのかもしれない。
成功できなくなっていい、私たちはそのままで輝いているのだから。
むしろプロセスこそが、輝きなのだから。
というメッセージは、そのまま私たちの閉塞感を表してしまっている。
二人の先の日本は、暗かった。ブラック企業、就職氷河期、過労死、
派遣社員の解禁。あのまま結局は、救われないで終わる現実がありはしないか。
物語の最後は、朝日が見える丘の上で、聖司が告白し、結婚しようねと
誓うシーンで終わる。
救われない。
そこはかとなく寂しくなった。