劇場公開日 2020年11月6日

「エッセンシャルワーカーの悲哀と誇り」鉄道員(ぽっぽや) とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

2.0エッセンシャルワーカーの悲哀と誇り

2021年8月23日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

悲しい

単純

寝られる

昭和世代には、この駅長のように、住み込みで、家族ぐるみで、人々の生活を支えていた人たちがたくさんいた。駐在さん、学校の用務員さん…。

今も、人々のために働いて下さるエッセンシャルワーカーの方々はたくさんいらっしゃる。
 東日本大震災でも、家族を家に残し、救助を求める人々のもとに向かった、警察官・消防士・自衛隊・行政職…。家で待っている子どもが、警察官のお父さんのことを心配して泣いていたっけ…。
 コロナ禍で、家に帰ると家族にうつす可能性があるからと車中泊していた医療従事者のニュースも流れたっけ…。
 昭和のTVドラマを思い出した。森繁氏が演じる医者が手術している間に、その医者の息子(鹿賀丈史氏演)が、怪我をして手術を必要とする状態になるが、他に医者がおらず手当てができず亡くなる。医者は息子がそういう状態なのを知っているのに、今手がけている手術も、中断できずー中断すればこちらも助からないからーという展開だった。命にかかわる仕事の厳しさを知ったドラマだった。

 人流・物流。鉄道の力。
 無人駅もあるから、駅には必ずしも駅員は必要ないのだろうとも思うが、やはり終点となると役割も違うのだろう。
 都市で鉄道系が止まった時の混乱…。廃線が決まった線が第三セクターとして復活する。東日本大震災後、長らくつながっていなかった線の復旧の喜び。
 やはり、鉄道もなくてはならぬ、生活を支える仕事。

その仕事と、私生活の間で、思うようには動けぬ葛藤。それが…。
 自分の、後悔だらけの人生の背中を押してくれるようで、感動する人が後を絶たぬのも理解できる。

だけど…。
 原作未読。
監督は何をしたかったのだろうか。脚本がグダグダ。キャスティングも…。
単なる自己弁護・自己救済・自己感傷の物語になってしまった。

乙松は決して家族をないがしろにする人ではない。
 駅長就任辞令が出たとき(駅長業務が始まる直前)は、雪子出産時に病院にいる。
 ツリーの飾りつけ…。静枝と一緒にクリスマスパーティの準備。
 駅に集まる人々との間でも、人への思いやりにあふれている様が描かれる。
 仙次に比べて出世はしていないから、組織内での立ち回りは”不器用”なのだろうが、ふだんのやり取りでは”器用”ではないが、温かい牛乳等の細やかな気配りができる人。
 そんな乙松が妻子の死に目に会えなかったのは、駅長業務の代替がいなかったから。幌舞に医療機関がなかったから。
 仙次のような大きな駅の駅長なら、部下に任せて行ったはず。だが、部下もいない駅長。代わる者がなかった。だから行けなかっただけ(仙次!代われ!とツッコミ!)。
 幌舞に医療機関があったなら、業務がない時間は妻の側に居続けただろう。
 もし、駅が機能せずに列車が走らなかったら…。学校・職場に行けず。大切な約束を果たせず。稀ではあるが、第二の雪子の悲劇が起きるかもしれない。そうさせないために、仕事を優先せざるを得なかったため。

だのに、高倉氏を起用したことで、たんに”不器用だから”となってしまう。なんだそれ。
  例えば、乙松を、人情家というイメージが強かった坂上二郎氏が演じていたら、この脚本・演出でも、家族を愛しながらも、死に目に立ち会えなかった悲哀がちゃんと伝わったであろうに。
 それだけではない。静枝死去の際、仙次の妻に乙松を非難させて、職場環境のせいではなく、乙松個人の問題にしてしまっている。仙次も乙松を言葉で擁護しない。妻の口を閉じさせようとするだけ。なんだそれ。
 だるまやの女将が文句を言うのならともかく、とも思うが、だるまやの女将は乙松を責めたりしないだろう。雪子を目の中に入れても痛くないほどかわいがっている様を知っているから。普段の乙松・静枝夫婦ー静枝が乙松を愛し、乙松が静枝を大切にし、静枝の想いを叶えようとするさまを見ているから。

時代。
 映画の中でピンクレディーが流れる。活動期間1976年~1980年。バブル直前。TVの中は狂騒的な番組であふれており、都心では皆飛ぶ鳥落とし、世界の覇者を気取っていたころ。その同じころ、石炭で生活している人々は、敏坊の父のような状態。

 他に産業もなく、廃れていく幌舞…。

 国鉄から、さしたる描写もなく、いつの間にかJRに変わる。唐突に、JRの”幹部”である仙次の息子へ、乙松(≒国鉄関係者)から苦言・要望が突然語られる。
 国鉄からJRになるにあたって、かなりの数のリストラが敢行されなかったか?この組織変革についての描写はない。公開当時は、自明のことだったからあえての描写はないのだろうが(実際に争議もあってうかつにふれられないのだろうが)。
 有無を言わさずリストラされた人、あえて自ら外の世界に飛び出した人。組織に残った人。
 スト破り。本来仲間からそしりを受ける行為(炭鉱夫は仲間から袋叩き似合う)。乙松達は「年端の行かぬ子どもの達のために」と汽車を走らせる…。自分の利益ではなく、人々の為の仕事としての気概。
 そういう背景あっての、鉄道で働いてきた人・働いている人の代表としての、「ぽっぽや」「それしかできない」という言葉の連呼であろうに。

 そういう歴史をチラ見させるが、乙松の生きた時代が見えない。
 たんに、本人の性格として、不器用・無骨に、周りの意見にも耳を傾けずに、家族を犠牲にして、自分のやりたい仕事にしがみついてきた男に見えてしまう。
 原作はそんな話なのか?

役者の演技はそれぞれいい。
 高倉氏は、温かくて責任感の強い初老の男を表現する。
 大竹さんはやはりうまい。病室では、死にゆく人特有の匂いまで匂ってきそうだ。
 でも、この二人が夫婦に見えない。親子に見えてしまう。実年齢差26歳なのだから当然なのだけれど。特に妊娠報告時の演出。幼児?
 なぜ、この組み合わせ?
 文句ありのキャスティング。その中で安藤氏は新鮮。安藤氏とわからないくらいの、この毒のなさ。こういう演技もできる方なんだ。こっちが素か?

そうして、鉄道員というエッセンシャルワーカーとして、時代の要請の中で、家族と人々のためにやるべきことをやり、生きた乙松の生涯が、すべて乙松の性格・生き方のせいになる。
そうして、家族を顧みずに、仕事に打ち込んだ男への賛歌となる。
 ここで引っかかる。
男たちは、それでよかった、仕方なかったと自己肯定し、
男を支える女の幸せを刷り込まれた女も、この夫婦を肯定する。

本当にそれでいいの?
 否。と言いたい。

男は、仕事を逃げ道にし、家族のことは置き去り。
 「企業戦士だったのだから」「経済的に発展させたのだから仕方がなかったじゃないか」
 定年を迎えるこの映画スタッフからは、「良い映画を撮るためだったのだから仕方がなかった」という声が聞こえてくる。
 全体的に経済成長は著しかった。でも、だからどうした。
 終戦時からの復興には感謝するが、経済的に発展すればいいのか?
 家族を置き去りにしたツケは見なかったフリ…。
 エコノミックアニマルの匂いがぷんぷんしてくる…。
 犠牲自慢をして、粋がる男たち。
 自分勝手な男たち。
なんて、ブラックな…。

もう一つ、腹が立つのは、妻に愛され、周りからも慕われ、気にかけてもらえるような男の人生を、「何も良いことがなかった」と言い切るところ。
 乙松自身は、皆に感謝しつつ「幸せだ」と言っているのだが。
 確かに、家族に先立たれる不幸はあるけれど、妻の笑顔、妻が作る食事=普段の生活にも”良いこと”はなかった?雪子が授かったのが、結婚してから17年目。妻が亡くなったのは一昨年。少なくとも、静枝との生活は18年以上ある。雪子が亡くなってからぎくしゃくした可能性はあるが、静枝の最期の言葉は、乙松への思いやり。
 家族を亡くした人が、自分に責がなくとも、自分を責めるのはよくあること。こうしたら、ああしたら、仮定の後悔ばかり。乙松が自分を責めるのは仕方がない。
 でも、ここで「良かったことがなかった」と言い切るのは乙松ではない。なんだそれ。
 映画の制作者たちは、経済発展・華やかな栄誉にばかり目を向け、
 妻との、地域の人々との生活の積み重ね=小さな日々の幸せはなかったことにする。
 何を”良いこと”とするかはその人の価値観だけれど。
 妻に理解され、周りの人から慕われ、リストラもされずに一生と決めた仕事をやり終えることは”良かったこと”には入らないのか?

そして、個人のせいではなく、家族を犠牲にしなければいけない仕事の仕組み・働き方…。なんてブラックな…。

もっと、乙松が”そうしなければいけない事情”をちゃんと描いて欲しかった。
妻との、地域や職場での生活を描いて欲しかった。
そのうえで、乙松の、不器用ながらも真摯に、家族に、人々に向き合った人生を肯定して欲しかった。

昭和史の総括。

そしてこれからの生き方を考えてしまった。



いろいろなレビューを拝読すると、乙松と高倉氏は重なるところも多いらしい。
生まれてこれなかった赤ちゃん。
お母様の死に目より、仕事を優先したこと。
離婚されていたから、江利チエミさんの死に目にも立ち会えなかったのではなかろうか。

はじめは、この映画への出演を辞退されたという高倉氏。
テネシーワルツを使うことにも抵抗を示したという高倉氏。
どんな想いでこの映画に出演されたのだろうか。

高倉氏にとって、演じることで、カタルシスが得られたとか、良い方向になったのだと願いたいが、
人が嫌がることを強要する監督のことは、嫌いになった。
それ、ハラスメントだ。
(この監督の映画、初鑑賞)

とみいじょん