火垂るの墓(1988)のレビュー・感想・評価
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戦争孤児
僅か2ヶ月の出来事だったのかと何度も鑑賞しようやく気付いた。
14歳の清太は海軍の父と病弱の母、10歳離れた4歳の妹セツコと何不自由無く贅沢な暮らしをしていた。
空襲に遭い家は焼け、母は死んだ。
残された清太とセツコは西宮の親戚に身を寄せる。
小母さんの棘ある一言一言は清太のプライドをへし折るように刺さる。
戦時中に働かずケラケラ笑い妹と遊び呆ける清太に小母は更なる仕打ちを…
自炊する2人に冷やかな視線の小母。
強情な清太と夜泣きするセツコに向かい小母の一撃。
お国のために働いてる娘達が眠れない何とかしろ!とまくしたてられ清太はセツコと池の淵の洞穴で暮らす。
健気な兄妹の暮らしにもやがて陰りが来る。
セツコは栄養失調で衰弱死した。
清太はセツコを1人で火葬した。
その小さな白い骨をドロップ缶に入れて持ち歩き、清太もまた戦争孤児の衰弱死としてかたずけられた。
意地悪な小母さんと可哀想な兄妹の話だと初めの数回は涙を流し鑑賞していたが、私自身母となり鑑賞した時、清太の可愛げのない性格に腹が立った。セツコは死なずに済んだのに清太の強情さによって死んでしまったのではないのか?と思うようになった。清太の自己満足の犠牲となったセツコの屈託のない笑い声が更に切ない。
戦争と言う暗い題材だが自然の美しさと蛍の光が美しい映画。
基本的には、 よくできた映画です
迫力ある爆撃シーンと、 戦時中のつらい生活が中心のはなしです。 といっても、 主人公は勝手に厳しい環境で生活することを選択しているため、 そもそも親戚の家にすみ続けていれば、 妹の節子が死ぬこともなかったのですが。
基本的には、 よくできた映画です。 しかし、 テンポの悪さが有り、 どうしても退屈だと感じるシーンが有りました。 また、 主人公の亡霊が過去を振り返るような演出がありますが、 非常に分かりづらく、 亡霊と本人の区別もつきづらいです。 そういった演出上の不備もマイナス要素でした。
戦争の悲劇・・
戦争が生んだ悲劇
高畑勲監督の訃報がニュースになったのをきっかけに、ちゃんと見てみようと思いレンタル。
清太の判断が、生きるために正しい決断だとはちょっと言えない。きっと他の選択肢には、生き延びれるものがあっただろう。
でも、14歳で、母が死に、戦争という地獄の中で、自分に正しい判断ができるのかとも思う。少なくとも清太には、妹を守らねばという使命感があって、不安な思いをさせたくない気持ちでいっぱいだったんだろう。それを思うと、批判はできないし、やっぱり憎むべきは戦争であって。
戦争を体験してないからわからないけど、平気で隣の人が死んでいくような世の中に、今の常識なんて通用しないよなあ。虚し悲しい。
納得いかない
なぜ本来の面白さを伝えないんだろう
タイトルなし(ネタバレ)
戦争の悲惨さ、平和の大切さを子供にもわかりやすく伝えている映画。
子供のころにみたときは、親戚のおばさんがいじわるで嫌いと思ったけど、
どう見てもお兄ちゃんがよくない。
お兄ちゃんのわがままで親戚のおばちゃんの家を飛び出し、幼い妹の命を奪ってしまう。。
節子が栄養失調で弱っていくシーンはかわいそうで涙なしには見れません。
最後はお兄ちゃんも節子も死んでしまうバッドエンド。
考えさせられます。
戦争の犠牲者を忘れるな
今日は終戦の日。娘が観ているTV放映を、ラストだけ後ろから覗く。
戦争が終わって、蓄音機から華やかな音楽が流れる。若い女性たちが明るい声で「久し振り」と喜んでいる。
これを明るく自由な時代の到来と受け止めていた高校生当時の私。同じ年齢となった娘はどのように思ったのだろうか。
言うまでもなくこの原作は野坂昭如の実体験に基づく小説である。彼は終戦を境にした人々の変容を受け入れがたかったのではなかろうかという気がする。
女たちが自由を謳歌できる時代は、主人公の少年にとっては、肉親をすべて失い、そして尊敬すべき父の命を賭した仕事への名誉も失われるという時代に他ならなかった。
おそらく軍人である父の名誉が失われていくことは、終戦を迎える前から彼には感じられていたことであろう。それは、母を失くした後に身を寄せた先の叔母から、学徒動員で勤労奉仕している自分の子供たちとの対比で「何もしない」となじられることでも感じているはずだ。
なぜなら、彼と妹の節子が叔母の家に身を寄せなければならないのは、彼らの父親が海軍の軍人として戦地に赴いているからに他ならないのに、そのことへの尊敬や同情がなく、厄介者扱いを受けているからだ。
この少年にとって終戦とは、すべての希望を失うことである。たとえ、空襲で人々が逃げ惑う日々が続いたとしても、その隙に火事場泥棒を働いて食料を確保できることのほうがありがたかった。そして、父親の働く連合艦隊が、自分とこの国を守り続けていると信じていられることが、彼の唯一の誇りだったのだ。
戦争が終わったときに喜んだ人々も多い中で、新しい時代に生きる希望を失った者もいることを忘れてはならない。これは、その時の職業や年齢、信じていたものの違いによって異なってくる。
忘れてならないのは、戦争で失われた数多の命が、敗戦によって無意味な犠牲とされてはならないということであろう。その時は、よきことと信じて死を賭けていた者たちが馬鹿を見ることのないようにしてやらねば。
そうでなければ社会には刹那主義、ニヒリズムが蔓延し、共同体のために勤める気持ちが無くなっていくだろう。
作画が表情豊かですごいと思った。 とくに涙を流すところはリアル。 ...
作画が表情豊かですごいと思った。
とくに涙を流すところはリアル。
戦時中、孤児になってしまった兄弟。
西宮のおばさんと清太がうまくいっていたら、節子も清太も生き延びられたかもしれない。両親を亡くして、親戚の家に居候して、その家の人とうまくやっていける人もいただろうし、清太のように、まだ子供であるために意地を張って亡くなってしまった人もいただろうと思う。
清太も節子も、西宮のおばさんの家に居続けたら生き延びられただろう、というのは、どうしてお金もあったのに、二人とも死んでしまったのだろう、というのも合わさって、西宮のおばさんの表面的な態度だけを見て家を出ていくことを決心した清太の子供っぽさが際立つ。
もしこの映画が、西宮のおばさんと和解して二人が生きていく、またはおばさんの家を出て二人で生きていく、という話であっても反戦映画になりえた。二人が死ななくてはならなかったのは、清太のまだ大人になりきれないところを描くためかもしれない。
これは反戦映画ではない(高畑監督の才能の罪深さ)
夏になると反戦映画の定番としてTV放送や、学校で上映されることの多い火垂るの墓。
私は中学生の時の初見からずっと、ふに落ちないものを感じていた。
だって、これ清太が悪いやん。
節子が死ぬ間際になってから預金おろしにいったり・・・金あるなら早く行ったらよかったのに・・・。
反戦映画にしたいなら、少なくともオルガンのエピソードは入れたらあかんのでは?
最近ネットで見たのだが、高畑監督はこの映画で
「生きる力のない子ども」を描いたんだそうな。
(高畑監督は)「周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」と語っています。
↑上記のテーマをストレートに描いたら興行的に問題があるので、
フランダースの犬で培った手腕で味付けしたわけだが、
高畑監督の才能がすごすぎた。
監督の意図は映画の中で十分表現されている。
親戚や、親の遺した預金等、生きる道はあったのに、それを活用できずに
妹を死なせたばかりか、自身も死んでしまう「生きる力のない子供」清太。
戦争で犠牲になるのは弱者(子供)である。「戦争の犠牲者」清太。
相反する主人公像・解釈を両立させてしまった、監督の手腕に脱帽である。
が、問題なのは、目くらましに使ったはずの、反戦映画としての名声が高すぎることにある。
もしここを見ている教職員の方がいたら(いないと思うが)お願いしたいのだが、
この映画を反戦映画として感想文を描かせるのはやめてほしい。
節子や清太がかわいそう。やっぱり戦争はしたらあかんのや。
そういう感想を持つ生徒が大多数で、それはひとつの良心的な正しい解釈だが、
この映画は本質的に反戦映画ではない。
私のように、周りの号泣と自分の解釈の違いにもんもんとする生徒が少なからずいるだろうから。
辛い…
人知れず消えていった命
総合80点 ( ストーリー:75点|キャスト:85点|演出:85点|ビジュアル:75点|音楽:70点 )
日本国民ほぼ全員が自分のことすらままならず人を助ける余裕など無い時代に、だれにも頼らず清太と節子の幼い兄妹がただ懸命に生きようとする。人知れずひっそりと消えていった二つの生命は、生前の兄のひたむきさと妹の健気な可愛らしさによってその大切さと儚さが強調される。その二人の人物像の作り方の演出が上手いし、声優も良かった。特に妹の幼さを表現した声はいい。
久しぶりに観たけれど、やはり主題が重い。質の高い作品だけど何度も観たい作品ではない。日々痩せ衰えていく二人の姿は痛々しすぎる。駅に座り込み死を待つ少年たちの多さを見れば、二人は例外ではなく当時のありふれた存在で、彼ら一人一人に似たような背景があるのだろう。物語は厳しい現実を見せたが、安易な救済を入れないから作品の質が保たれたと思う。
普通の人として描かれる 西宮の おばさん
戦災被害の後、清太と節子が厄介になる西宮の おばさんの家で、実は空襲で母親が亡くなっていたと知った おばさんの態度が一変、早速 追い出しモードに入り、容赦なく責める言葉が投げかけられます。
彼女の言葉を額面通りに受け取っては いけません。清太が隣組の役務を負ったからといって、それで満足して納得する話しではないのです。同じ屋根の下に余計なものを背負い込んだ事が疎ましくて我慢ならず、それで文句が浴びせられるのです。 おばさんは東京にいるらしい親戚に、二人を押し付けようとも考えます。
清太は母親の残してくれた千円という大金と、生きていると信じる父親を励みに、妹と二人で生き長らえる決断をします。─ これが糸井重里の、「─ 4歳と14歳で生きようと思った。…」という名コピーに繋がって行きます。
“4歳と14歳”が出て行く段になっても、おばさんは止めもしません。漸く出て行ってくれて清々する気持ちが窺えます。
おばさんが母親の死を節子に告げ口していた事が明らかになっても、清太は自分達の置かれている悲しさに涙するばかりで、恨みがましさを口に出したりはしません。
おばさんは特に極悪人ではなく、余裕のない普通の人として描かれている点が秀逸だと思いました。
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