「様式美」緋牡丹博徒 jin-inuさんの映画レビュー(感想・評価)
様式美
1958年(昭和33年)をピークに映画の観客動員数は右肩下がり、1970年にはピーク時の約1/5にまで落ち込み、日本映画界は斜陽産業化しました。
1968年(昭和43年)、日本は国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、アメリカに次いで世界2位になり、ベトナム戦争は激化し、東大では紛争が勃発し、テレビの普及が進みました。
当時のサラリーマンたちは胸の奥にくすぶる敗戦の痛みを抱えながら、利潤第一主義の会社にこき使われ、日々理不尽に耐えつつ仕事に精を出し、さらに家庭に縛られ自由はありませんでした。
そんな映画産業とサラリーマンたちの苦境を救うために現れたのが、緋牡丹お竜こと藤純子です。変な熊本弁を操る美しきヒロインの誕生です。お竜の口上に始まりお竜の口上に終わる本作のスタイリッシュな演出も見事。
時は明治中頃。日清日露と戦勝の余韻に浸る日本。まだ敗戦の痛みを知らない幸福な時代設定です。役柄は女博徒。賭場の真ん中で、むさ苦しく小汚いおっさんたちに囲まれたお竜の姿は神々しいばかり。彼女の生きる博徒の世界は、しきたりや作法に厳しい世界です。賭場のシーンには本物のヤクザがまじり、作法指導を行っていたそうです。仁義の切り方一つで人品骨柄、経験値まで判断されます。彼らの価値観は「子は親に絶対服従」「なにしろ義理人情」「仁義第一」。和装、蛇の目傘、火鉢など、画面の中の情緒あふれる生活風俗も含め、戦後民主主義社会が捨ててきたものばかりです。映画のラスト、お竜は多勢に無勢で殴り込みをかけ、利潤第一主義の悪徳一家を壊滅させます。緋牡丹博徒シリーズには戦後社会であえぐサラリーマンたちの夢が詰まっています。そして寅次郎にも言えることですが、お竜も家庭を持つことが許されず、シリーズの最終作まで流浪の生活を強いられます。民衆の夢を背負わされた者たちの宿命でした。
本作公開時の藤純子は弱冠23歳ですが、助演の高倉健や若山富三郎、待田京介、清川虹子らを従え堂々の女博徒ぶりを披露します。1963年、18歳で映画デビューを果たし、それから6年間で55本の映画に出演、56本目の出演作が本作です。
でも、確立された様式美の世界はやがてマンネリを生み、そこから様式美をぶち壊すパワーを持った「仁義なき戦い」が誕生します。
【年表】
終戦直後の昭和20年12月、大阪からの疎開先である和歌山で産まれる。本名、俊藤純子。父は後の東映任侠映画のプロデューサー、俊藤浩滋。
昭和37年(1962)、17歳、高校2年生。よみうりテレビ歌謡番組のカバーガールを務める。当時は大阪の芸能プロダクションに所属。
昭和38年(1963)、18歳。父の勤務先である東映京都撮影所に行った際に映画監督マキノ雅弘にスカウトされ、藤純子と芸名をもらい、「八州遊侠伝 男の盃」で映画デビュー。マキノ雅弘は藤純子を自宅に住まわせ、女優のイロハを一から叩き込んだ。
昭和39年(1964)。岡田茂が東映京都所長に就任、人気が低迷していた時代劇制作をやめ、俊藤浩滋とのプロデューサーコンビによる任侠路線映画(鶴田浩二「博徒シリーズ」、高倉健「日本侠客伝シリーズ」)制作を開始する。
昭和42年(1967)、22歳。出演55本目の『尼寺㊙物語』で映画初主演。
昭和43年(1968)、23歳。「緋牡丹博徒」の主役に抜擢。
昭和47年(1972)、27歳。『純子引退記念映画 関東緋桜一家』で監督マキノ雅弘、主演の藤純子が映画界を引退。
昭和48年(1973)。『仁義なき戦い』が大ヒット。任侠映画は終焉を迎える。
【語録】
岡田茂:「不良性感度の強いもの、濃いいもんを作って欲しいんや。テレビの中に絶対出てこんもんや。博打場、鉄火場、いつもドスを懐に忍ばせているような世界や」
俊藤浩滋:「やれいうんなら、ほんなもんすぐでけるで。責任は取らへんど」
マキノ雅弘:「俊藤の牛耳り方があまり感心できなかった。プロデューサーの範囲を越えて、企業家みたいな気になっちゃったんだな。金を出すのは会社なのに、人のフンドシで小遣いやって『兄弟の盃しよう』とか『お前、俺の若い者になれ』というやり方だからね。俊藤より前にいた奴がみんな子分みたいになっちゃって、他のプロデューサーもみんなあいつに頭が上がらなくなったんだ。しまいには『今度はマキノを使おうか』てなもんでしたな。プロデューサーが監督より偉いなんてことないのに、あいつはそう思い込んじゃった。やくざ映画ブームをつくったといっても、殺されたら仇討ちに行くという同じパターンのものばかりだ。『忠臣蔵』の小物みたいなものしか作ってなくて、題名が違っていただけだから。やくざの世界を勧善懲悪に置き換えたという点が新しかっただけでしょ。ワシらでさえ撮って行き詰ったんだから。マンネリになったらおしまいだということを知らなかったんじゃないかな。同じ方向を向いてた岡田茂とも、やくざ映画が下火のころには意見が合わなくなって、岡田が社長になるとき俊藤は対立する立場だった。岡田にしても東映でポルノを始めた元祖だからね。ハッキリいえば二人とも、映画人としてはゲテモノなんです」