「白頭巾ちゃん気をつけて」ヒポクラテスたち 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
白頭巾ちゃん気をつけて
"たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか"
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』より
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本作の主人公である荻野は、医学科の最終学年だというのにろくすっぽ進路も決めないで風船のように京都の街を漂っている大学生。「大学モノ」にはよくある導入だ。現在の私がそうであるように。
しかし荻野のそれは『ニッポン無責任時代』の「スーダラ節」のように、嫌なことは忘れて楽しく踊ろう!的な享楽主義とはまったく様相を異にしている。
病院という空間は、生と死が最も鮮やかな実体を持っている場所だ。臨床実習や日々の生活を通じて、荻野はさまざまなヒューマニズム的問題に直面する。
橋の上で交通事故を起こし足を負傷したバイカー。野次馬たちが口々に叫ぶ。「早く医者を呼べ!」
彼の子供を堕ろした交際相手が言う。「医者なんか大嫌い」。
その兄も言う。「俺は医者が大嫌いなんだよ」。
同じ寮の後輩が先輩に向かって叫び散らす。「医者になることは加害者になることなんですよ!そんなこともわかんないんですか!」
荻野はかつて寮の友人たちと共に不正医療を糾弾するデモ活動に明け暮れていた頃もあった。しかし彼は途中で脱落してしまった。それは彼の思考停止を意味するだろうか?安易な享楽主義への堕落を意味するだろうか?私はそうは思わない。
彼は迷っているのだ。混沌をきわめる医療の世界に対して、自分はどのように振る舞うべきなのか、と。
彼が画面に向かって手話で語りかけてくるシーンがある。これは彼の頭の中を逡巡するさまざまな思考が、彼を一時的な失語症へと追いやってしまっていることの暗示だ。
彼は手で語る。「私はなぜ手話を学んでいるのか?私は誰と話さなければならないのか?」
もし考えることをやめられるのであれば、今すぐにでも彼はそうしたかっただろう。しかし彼はそうしなかった。できなかった。
交際相手が家庭の事情で故郷に戻ることになった。彼女は荻野に向かって手紙で語りかける。「まだ世界が終わっちまったわけじゃないんだぜ 頑張れ」。それは呪いのように、祈りのように彼の胸に重くのしかかる。
中盤、荻野と同じ寮に住んでいる映画オタクの医学生が制作した自主映画がチラッと映るのだが、そのタイトルは『白頭巾ちゃん気をつけて』。
これは言うまでもなく庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』のオマージュだ。
『赤頭巾ちゃん』では、学生運動激化の煽りで東大の入試が中止になってしまった年の、ある一人の受験生の心の動きが、生き生きとした一人称視点で語られる。
彼は学生運動という時代のうねりを前に、ある種の虚無主義に陥る。学生運動という「昭和元禄阿波踊り」に盲目的に便乗する以外に、60年代という「狂気の時代」を生きることは無理なのではないかという諦観だ。
これはまさしく人道と利益主義をめぐってさまざまな問題を露呈させ続ける医療・医学という壁を目の前にして失語症に陥ってしまった荻野の姿と見事に符合する。
しかし『白頭巾』を見た寮の先輩たちは、映画オタクの後輩に向かって素っ気なく言う。「これ面白くないな」。
荻野の同期にはみどりという唯一の女子医学生がいるのだが、彼女は夜勤の臨床研修の待機室で、荻野とこんな会話をする。
「暇だな」
「暇でいいのよ。他人の不幸を待つほうが嫌よ」
このとき、みどりは手塚治虫『ブラックジャック』3巻所収の「研修医たち」という話を読んでいた。「研修医たち」のあらすじはこんな感じだ。
ある病院の若手医師たちが、ある日独断で患者を診断していたところを先輩医師に見つかり「手術もお前らで勝手にやれ」と見放される。
しかし先輩医師の高圧的な態度に日頃から辟易していた彼らは、先輩医師の鼻を明かすためにも自分たちだけで手術を敢行することを決意した。
とはいえ経験も浅く自信のない彼らはブラックジャックに手術を依頼する。ブラックジャックはそれを冷淡に断るが、後で心配になって彼らの手術現場に駆けつける。
手術はブラックジャックの手捌きでつつがなく終了したが、ブラックジャックは周囲にいた医師の中に先輩医師が混じっていたことを知る。
「患者にもしものことがあったら大変ですからな」
先輩医師はブラックジャックに微笑みかける。
「たぶんあなたも…」
手塚治虫のヒューマニズムが光る屈指の名編だ。患者を勝負のコマのように扱う若手医師たちと、それを峻厳な眼差しで見つめながら、しかし決して見放さないブラックジャックと先輩医師の優しさ。みどりは同期の医学生の中でもとりわけそのような優しさを備えていたといっていいだろう。
しかしその優しさこそが医者としての仇となり、彼女は各医局への進局を拒み、退学を決意する。そして最後の最後には自らの命をも絶ってしまう。
ここに医師という職業の冷厳さがある。私はレイモンド・チャンドラー『プレイバック』の有名な台詞を思い出した。
"タフでなければ生きて行けない。優しくなければ生きていく資格がない。(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)"
みどりにはタフさが欠如していたのだ。ふつうに生活するのであれば、それは大した問題ではない。彼女に「生きている資格」はじゅうぶんすぎるほど備わっていた。しかし医師はそうはいかない。来る日も来る日も、数々の死を、常に最前線で見送らなければいけないのが医師という職業だ。
さて、この狂気の世界に対し、荻野はどんな答えを出したのだろうか?
彼は朝刊で衝撃的な記事を見つける。交際相手が堕胎した病院が、実は無免許医によって運営されていたという内容だった。彼は半ば放心状態で交際相手に電話をかける。電話に出たのは彼女の兄だった。彼は切れ切れの声で絞り出す。
「俺、彼女と結婚します。結婚しなくちゃいけないんです」
彼もみどりと同様に、冷淡な医療現場を素知らぬ顔で闊歩できるほどのタフさを持っていなかった。彼はそのまま気絶してしまう。
次に目覚めたとき、彼はおもむろに自身の白衣をマッキーで真っ黒に塗り潰しはじめた。「paint it black, paint it black」と何度も呟きながら。
彼はひどく打ちひしがれながらも、戦い続けることを選んだのだ。それは、ふとしたきっかけから社会と対峙していくための勇気を得、東京の街へと踏み出してゆく『赤頭巾』ラストシーンの主人公の姿とも重なる。
荻野は真っ黒の白衣を着たまま大学病院に乗り込み、自分を嘲笑する同期の医学生たちに食ってかかる。
しかしたちまち彼は抑え込まれ、精神病棟に収監される。翌年には晴れて精神科医になった元同期の「最初の患者」として病院生活を送っていた。
これを病院ひいては医療という狂気の世界に対する彼の敗北と捉えることに、私は積極的意義を感じない。
むしろ、彼がそれらの不条理と自己の倫理との板挟みによって死の淵へ追いやられながらも、なんとかそこから生へと再起することができたことを、私はとても喜ばしく思う。たとえその回復の過程において、荻野が常々疑問視していた「医学」の力が使われていたとしても。
ラストシーンでは、みどりが自殺したことを含め、荻野の周囲の「ヒポクラテスたち」がそれぞれどのような進路を辿ったのかが説明される。
しかし荻野に関して言えば、彼が2ヶ月後に大学を卒業したこと以外の情報は敢えて何も明かされていない。
彼は医者になったのだろうか?それとも医学の道を諦めて、「生きている資格」のみが重視される優しい世界に腰を落ち着けたのだろうか?
それはわからない。ただ私が願うのは、彼が今もどこかで生きていてほしい、ということだけだ。彼は狂気を生き抜くための術を、どうにか自分の中に確立しつつあるのだから。
白頭巾ちゃん、どうか気をつけて。