晩春のレビュー・感想・評価
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父の優しさと残酷さ。
◯作品全体
物語が進むごとに紀子役・原節子の娘、女、嫁としての表情変化が素晴らしかったが、なにより、それを全て包み込んでしまうかのような父役・笠智衆の表情に圧倒された。
親の考えたレールに沿って生きなければならない女性が多くいた時代において、周吉は28歳の娘に強く結婚を勧めずに優しく見守っている。紀子が病気がちだったこともあったかもしれないが、夜まで都内で遊んでいても小言を言わずに穏やかに会話する二人の空間は暖かさに満ちている。
前半は確かにそうだったが、叔母のまさに結婚を打診されてからは紀子も周吉も様子が変わってくる。ただ、紀子の主張は一貫していて、「父と一緒にいたい」だ。現状に満足しているにも関わらず変化を求められたからこそ、紀子は周吉と一緒にいたいと思う娘の紀子・妻の紀子・嫁入りする紀子がこぼれ出てきてしまった、というような状況なのだと思う。紀子役・原節子はこぼれ出てきた3つの紀子像を、影を落とすシルエットや寝床でジッと一点を見つめる微妙な表情で完璧に表現していたのが素晴らしかった。
周吉にとっては名残惜しさから後回しにしていた紀子の縁談と向き合う、という変化があった。不機嫌な紀子に対して優しく諭す姿は、周吉の元来の性格を描き出すかのように周吉演じる笠智衆から溢れる包容力がある。ただ、その裏には紀子の嫁入りという幸せを願う感情があって、そこは曲げられないという周吉の想いがある。嫁入りに駄々をこねる紀子に周吉は優しい表情を崩さず、そして意見を曲げない。お見合い後に二人で話すシーンでは、それぞれの表情を正面からアップショットで素早く切り返すことで、娘を想う厳しさと優しさ、その両方の強さが表現されていて、心に刺さるシーンだった。
憶測になってしまうが、戦後間もない時代に「嫁入りをする」という当然の行為に対して28歳の娘が父親に反発するというのは考えられない状況だと思う。そしてそれに対して話し合いを遮断することなく娘の話を聞いて、父自身の言葉で納得させるということは尚更だろう。周吉にはその両方を許容できる優しさがあり、娘の話に流されない厳しさがある。
ラストで周吉自身が語る「一世一代の嘘」はすごく誠実で優しく、そして残酷な「突き放し」だった。
◯カメラワークとか
・紀子とアヤのシーンとか紀子と周吉のシーンでアップショットの短い切り返し演出があった。フルショットでローポジのカットが多いからそれだけで凄く目を引く。コメディチックにもできるし、二人の感情の衝突の強調にもなっていた。特に紀子と周吉のシーンは結婚する、しないで真っ二つの衝突だけど、周吉の表情が終始朗かだから、ヘタしたら周吉がいなしているように見えてしまわなくもない。そこを短い切り返しで真正面からの衝突を強調しているのは、上手いなと思った。
・結婚に揺れる紀子が東京で周吉から離れていくシーンが良かった。車道の反対側へ駆けていく紀子と杖を突いてゆっくりと歩く周吉。バックショットだから周吉の表情はうかがい知れないけど、揺れる紀子を優しく見守っているようにも見えるし、静かに見送ってるようにも映る。周吉の背中から感じる寂寥感がラストの周吉への伏線みたいなカットでもあった。
・ウィキペディアにある壺のカットの演出。個人的には紀子の中に閉じ込めていた周吉への感情を壺に仮託して、誰にも触れられないまま壇上に置かれた感情、みたいに感じた。月光の強さは紀子の感情が影に隠れても強く放ってるイメージ。性的なイメージも確かに含んでいそうだけど、それだけじゃなくて紀子の中にある周吉への愛情がメインで存在するシーンだった。
◯その他
・原節子も良かったけど、やっぱりこの作品のMVPは笠智衆だなあ。アヤにキスされた時のびっくりした表情とか、あんなに可愛くできるオッサンいないでしょ…
テーマは草木国土、悉皆成仏♥ スゲ~
『こりゃ、要害堅固の地だよ』
56歳の父親は娘を大事に育てる。それで『草木国土 悉皆成仏』それがテーマ。アナクロだが『すみません。心配かけて』と答える娘の言葉に集約されると思う。主人公の奥さんがどんな人生だったがどうしても気になる。この映画ではそれを一切語らない。それが間となって、大事な次の世代に人生を繋ぐ。それを語っている。凄いよ。
日本が誇る小津安二郎監督と言うが、そのDNAは本当に繋がっているのだろうか?
父親はまだ人生が20年も続く。何をやればよかろう。
優しさと切なさのあわい
家族という温かい人間関係の輪郭を保つものは何かといえば、それはある意味旧来的な「制度」だったのではないかと思う(今は違うだろうけど)。男は外で稼ぐ、女は家庭を守る。あるいは嫁を貰う、嫁に出る。こうした営為の絶えざる反復によって家族というものは大いなる時間の波を乗り越えてきた。
しかしこの「制度」は、同時に家族という人間関係を損なわせる要因そのものでもある。仕事をするかしないか、誰と結婚するかしないか、そういった「制度」をめぐる問題によって家族関係に不和が生じた経験は誰にでもあるのではないか。家族を未来へと繋げていきたいだけのに、そのことによって現在の家族が引き裂かれてしまうアンビバレンス。
娘の紀子は早くから妻を亡くしてしまった父・周吉の面倒を見ているが、周吉はそれによって紀子の婚期が遅れることを危惧している。「面倒を見てくれる再婚相手がいる」という周吉の言葉によって、ようやく結婚へと舵を切りかける紀子だったが、不意に「いつまでもお父さんと一緒にいたい」と本音を漏らす。しかし周吉は「結婚すれば本当の幸せが手に入る」と最後まで紀子の背中を押し続けた。とはいえ紀子が本心から結婚を前向きに捉え直すことができたのか、それを明示する描写は最後までない。
紀子を嫁に送り出した日、周吉は姪と酒を交わす。しかしその表情はどこか空虚だ。姪が「あたしおじさんのとこに会いに行ったげる」と周吉を励ますと、周吉は「本当に?本当に来てくれるんだね?」としきりに訊き返す。家に一人で帰ってきた周吉はりんごの皮を剥きながら静かに肩を落とした。そこで映画は幕を閉じる。
ここには不可避的に自己否定を繰り返すことによって未来へと延命されていく家族という人間関係の哀愁が描き出されている。紀子も周吉も、本当はいつまでも一緒にいたいのに、家族を下支えする「制度」が存在していることによって分断を余儀なくされているのだ。
しかしそこまでして家族などというものに拘泥する意味が果たしてあるのだろうか?「ない」と断じることは現代でこそ簡単だが、それが単に遺伝子学的な結束を超えた何らかの価値を有していることは小津安二郎の生み出した数々の名画が、あるいはそれらに対する市井の評価が示唆している。家族とはいいものです、と全肯定するのでも、家族なんかクソ喰らえだ、と全否定するのでもなく、あくまで単調なトーンの中でその陰陽をつぶさに描き出していく。それが小津映画の本髄だ。
意味の有無という問題圏の手前(あるいは向こう側)でただただ素朴に存在している家族という人間関係についての、ただただ素朴なスケッチ。「制度」という呪いを受ける対価として繋がっていく家族に意味があるかはわからない。けれど少なくとも紀子や周吉にとってそれは、現にそこに「ある」ものであり、これからも「続いていく」ものであったのだ。
映画を見終え、紀子や周吉は今ごろ何をしているのだろうと考えていたところ、ふと夕暮れの情景が頭の中に浮かび上がってきた。
優しさと切なさのあわい。
おそらくこれが家族というものの正体なんだろう、と私はおぼろげながら思った。
とても美しくて切ない。日本の美学
「東京物語」が僕にはあまり理解できなくて、小津映画もしかして苦手かもと思っていたが、この作品で小津安二郎の凄さがわかった。
お互い依存しあう父娘、しかしお互い自立しなければいけないと頭の片隅にはあり物語が進む。非常に繊細な二人の駆け引きが胸にチクリときてしまった。
道路の両隅を無言で歩き、それをカメラがフォローするシーンはとても美しかった。
笠 智衆と原節子の父娘はとても可愛らしく描かれており、ずっと観ていたくなる。
ラスト、お嫁に行く娘を送り出す父。「東京物語」の様にドラマチックではなく、淡々とリアルに描かれ「小津らしい」と思った。しかしラストカットで、静かな家で一人リンゴの皮を剥く父が頭を垂らすエンディングで鳥肌と涙が出た。
とても日本的な美しさが描かれている繊細な映画だった。
小津のミューズ、原節子が放つ魅力!
紀子三部作第1作。
Blu-ray(デジタル修復版)で2回目の鑑賞。
なかなか嫁に行こうとしない娘を心の底から案じている父親と、自分が結婚すれば父親がひとりぼっちになってしまうと心配している娘―。結婚と云うイベントが浮かび上がらせていく父娘関係の変化を、丁寧に描き出した名編でした。
舞台となる晩春の鎌倉の風景が美しく切り取られており、登場人物たちに静かに寄り添っているように感じました。
原節子の小津映画初参加作品となりました。小津安二郎監督の映画に欠かせない女優さんのひとりですが、監督のつくり出す世界観に誰よりも相性ぴったりの気がしました。まさに小津監督が見出だしたミューズ、と云うことでしょうか?―彼女に寄せる信頼が、画面越しに伝わって来るようでした。
その関係は公私に渡っていたと云うことが噂されたそうですが、真相や如何に?―小津監督の死去と同時に原節子が銀幕から姿を消したことも、監督と役者を超えている気がします…
―閑話休題。
自分の意に反して、父は自分が嫁に行くことをなんとも思っていないと誤解し、憤慨する姿などが、原節子自身が持つ純粋さと結びついているようで、素晴らしい演技でした。
月丘夢路が演じる親友とのガールズ・トークも見物。本音を包み隠さず言い合えるふたりの関係性にホッコリし、昔も今も女性の抱く悩みや喜びは変わらないのかも、と思いました。
不器用な父親を演じる笠智衆も、小津作品には欠かせない役者さん。正直棒演技ですが、なんとも言えぬ味わいを持っていて、独特の世界感をつくり出しているように感じました。
娘の身を案じながら、娘に甘えていた自分を省みる…。後妻を迎えるからと結婚を勧める姿に、身を切られるような想いでした。ラストのえも言われぬ表情が涙を誘いました…
[余談]
この父娘の関係が近親相姦めいていると云う考察をネットで拝見しました。確かにそんな気もしました。娘の父への執着も裏を返せば…と思わず想像してしまいました。
結婚前最後の家族旅行にて、旅館で過ごす一夜。ふたりの会話の後に映される床の間の花瓶がその象徴と云うことらしいのですが、まだよく理解出来ないので勉強します(笑)。
※修正(2022/05/05)
さあ観念しろッッ!
小津安二郎初体験。果たして世界に冠たる小津映画はどんなものかとワクワクして本作を鑑賞しました。
感想は、面白かったけどあまりハマらず。でも、もしかすると過剰なファザコンを描いた本作が小津映画の中でも異質で、東京物語とか観たらまた違う感想を持つような気がします。
主人公・紀子はちょっとキてますね。はじめは朗らかで魅力的に思えたのですが、父の再婚話での異常な嫉妬を剥き出しにする姿を見てドン引き。よくよく見ると紀子は他者の気持ちを慮るシーンはほぼなく、喜怒哀楽も垂れ流しでコントロールが効いていない。
おそらく彼女はすごく幼いんですよね。精神的には年中〜年長さんってとこ。父への過剰な執着は「大すきなパパとずーっといっしょにいたい!」って感じです。幼稚園児ならそう考えるのは当たり前です。途中で紀子を成人女性としてではなく幼稚園児として観ると、違和感がなくなりました。
しかも、紀子は父親以外から影響を受けないため、クライマックスまで成長しません。この閉じられた感じもヤバいですね。日本の伝統的な闇を感じます。
そんな27歳児も逃れられない運命がありまして、それが強制結婚です。価値観の多様性・自己決定権が重視される現在とは違い、当時は周囲が一丸となって「結婚シロー!」と圧力をかけてきます。
これは、ある意味よくできているかも、なんて感じました。おそらく舞台が現在ならば、紀子は父子密着のままずっと行ったと思います。周囲の圧力もそこまでないだろうし、父親も優しいから踏ん切りつかなそうだし。
でも、強制結婚は強引に父子を引き剥がします。しかもそれは個人の意思とかでなんとかならない社会システムによるものなので、紀子も心の奥底ではいつかこの日が来ることを覚悟していたと思います。なので、父親の渾身の説得を受け止め、観念できたのだと思います。観念できたってのは、成長ですからね。
とはいえ、この強制的な分離はトラウマ体験にもなり得るので、新郎の熊太郎さんが良い人でないと紀子のメンタルはブレイクダウンして毒親化し、世代を超えて呪いが引き継がれていくでしょう。
…やっぱり野蛮でヤバいですね。しかも小津は独身だったので、強制されるのは女性のみだったのかも。うーん。
作風としては、元祖オフビートギャグが面白くて、結構笑えました。杉村春子が財布を拾ってネコババしようとしたときに警察が見切れてくるとか、ニヤリとしました。笠智衆のリフレインギャグもなかなか。この辺はジムジャーっぽさを感じました(小津ちゃんが影響を与えてるんだけどね)。
原節子のバタくさい美しさには絶句。すっかりファンになりました。
気になったのは、終幕近くで笠智衆に対して月丘夢路が「遊びに行くわ、チュっ☆」みたいなシーンがあり、なんか中年男のドリームって感じがして本作の中でも浮いているように思いました。もしかすると21世紀ハーレムアニメの源流も小津ちゃんにあるのか、なんて邪知してます。
揺れる気持ちの後で
小津安二郎映画の別のも考えたが、そちらは、貧困で人妻が身体を売るという話で、(私は当然否定する立場だが)今朝の気分では重い感じがして、『晩春』のほうにした。映画も2時間前後あったりするので、休日に1本観ようとするのも、他の事も計画しているとなると、大変な贅沢でもある。早朝5時すぎから7時には観終えようと観始めた。ネット時代でもあるし、調べて書くか、調べないで書くかというので違っても来るのだが、昭和24年というと、戦争終結後4年。このタイミングの時代はどういう感じだったのか。オープニングは多くの女性たちが集まっての茶会で、穏やかな雰囲気で進行している。流れている音楽が現在の映画ではあり得ないだろうという感覚である。DVDで観始めたが、どうも一度観てはいたかも知れない。だが、ほとんど忘れてしまっている。鎌倉が舞台のモノクロ。たしか下から撮るのも特徴だったか。父の威厳はあるのだがソフトである。家族制度は今より当然しっかりしていた時代だろうが、決して父が威張り散らしていただけの家庭では無かったのは記録されているだろう。だいたい家族制度を悪く言う人は、その人の両親とうまく愛情関係が持てなかった個別の体験を復讐のように社会に浴びせるようなものだと私は思っている。愛情ある家庭は喧嘩はあるにせよ、誰かが誰かを看取るまで続くし、そのほうが人間らしいに決まっている。(こうなった時代からは介護施設との関係という問題もあるが)◆やはり一度観てはいる。忘れていたのだが、薄っすらと場面場面がほんの少しずつ想起はされる。しかしどう終えるのかもまったく覚えていない。おじさんと語るシーンがあるが、おじさんの再婚を、笑いながらもなんだか不潔だわと言うような、主人公の女性の感性が、現在の女性にはわからなくなった貞操観なのだろう。ここに現在の問題へのヒントがあるはずだ。主人公、紀子は父娘の家庭らしい。おそらく父は妻に先立たれている。作家らしい。(調べたら大学教授だったか)◆昭和24年当時は親子親戚の関係がしっかりしていた事もあり、紀子の叔母さんだろう、見合いの一歩前のような話を持ち出すが、紀子の懸念は父が一人暮らしになってしまうのではないかという危惧だった。現在の女性たちとは結婚に迷う気持ちの選択面から違っている。紀子は再婚が汚いと考える貞操観があるくらいなので、父親に叔母からの再婚話があると複雑な心境になる。とても不器用な時代教育の生んだ感性だが、一面凛とした女性というのはこういう感性で作られていたのではないか。男性にも妾を作っているような男性ばかりでは無かった。誠実な父娘である。なぜ揺らぎ乱れた家族出身者の言論のほうが優位に立たせた時代推移をしたのだろう。◆(ただ原作者の広津和郎は何人も愛人や妻を替えた人物だったらしく、小津安二郎は結婚しなかったようなのだが、そこら辺の原作者と映画監督の境遇、思考からのせめぎ合いがあったか。もちろん、私が観ているのは映画のほうだから、小津の感性のほうに変えられているほうがインプットされているはずだ。◆現在の女性達が結婚しないのと、この映画で紀子が父親が心配だからという理由と、どこが違うのかもヒントか。映画では、父が再婚すると語ったために、紀子がショックを受ける。(紀子を嫁に行かせたい父の噓だったのか?)現在では、母娘との癒着を指摘する話は幾つか出ているようだが、現在風のこの視点は一体何か?美的には、父娘とのコンプレックスのほうが、母娘とのコンプレックスよりも美的な気はする。◆いずれにせよ、心配してくれて見合いを持ってくるおじおばのような関係性も貴重だった。◆ただ、紀子もいざ見合いをしてみると、心理が急転して、相手に対して悪くもない印象を親戚で同級生なのか、その女性に語る。その女性が語るには、もじもじして好きな人に告白も出来ないあなたみたいな人は見合いが似合ってんのよ。みたいなセリフがある。見合いという選択は大事だったのだ。恋愛結婚至上主義のような偏りが現在の不幸を生んでいる。婚活にしても恋愛色が強い方法だ。ピンポイントで紹介で覚悟を持っている感じが大切だと思う。◆父娘家庭ゆえだが、父娘とで一緒の寝室で寝ているシーンがあるが、ここが現在の人達にはわからなくなった面だとも思う。俗に言うツッコミどころというわけだろう。ここを考察するところにヒントがあるかも知れない。(これは、娘の結婚を機に、記念に父娘と京都に旅行に行ったシーンか)◆これはマザーコンプレックスに対するファザーコンプレックスとだけ科学のように単純化してしまうと考えにならない。◆笠智衆さんが演じた父親はこの時56歳。「結婚してすぐ幸福にはならない。幸福を作り上げていくところに結婚の幸福が生まれる。そしてはじめて本当の夫婦になれるんだよ。」◆なぜこの映画が作られた昭和24年から、家庭を家族を夫婦を日本は壊す方向を取っていったのだろうか。◆紀子が嫁いでから、痩せ我慢していた父親の寂しい気持ちが描写されて映画が終わる。
お父さんは58歳であれだけ老けていて先行きも長くないのか
総合60点 ( ストーリー:60点|キャスト:65点|演出:55点|ビジュアル:65点|音楽:60点 )
趣味に合わないと感じてもう小津作品はいいやと思っていたが、原節子の若い頃はどうなのだろうかと気になって観てみる気になった。
相変わらず科白はかぶらないように交互に喋り、小津作品らしいゆったりとした雰囲気で家族模様の話が進んでいく。古き日本の美しい情景ではあるものの、やはりこの演出が古くて退屈に感じる。
戦後間もない時期を背景にして実際にその時期に制作されている。だから日本人の多くが食べ物にも困るようなかなりの貧乏人であったかもしれないが、そんなことも気にしないほどのんびりとした平和な生活を観ていると、裕福で幸せな人たちだと思う。百貨店で買い物したり喫茶店でお茶したり能を鑑賞したりなんて、この時代はきっと普通の人は出来ないよな。そして生活に困窮する話などは出ないまま、親子の結婚の話がどうなるのかという本題に入っていく。
だけどこの時代としてはいい歳なのに何故そこまでひたすらに結婚を否定して父親と一緒にいたがるのかが描かれていないのが気になった。娘の結婚が主題なのだから、そこを教えてくれないと彼女がただの融通のきかないだけの人に思える。結婚を急かされて反発する彼女の内面を教えて欲しい。
監督の意向なのかもしれないが、名優と言われる笠智衆でも科白のいかにも科白です的な不自然な言い方は好きになれない。ただし44歳で58歳の父親役を演じているのはすごい。それにしても当時の58歳は随分と老けて見える。ずっと安定した感情を保ちながら最後の孤独さを表す場面は良かった。
原節子は異国風の堀の深い顔立ちがやはり目立つ。この時代は逆にそういう日本人離れしたところが受けたのだろうか。落ち着いた雰囲気の中で感情の変化がある役どころであったのが印象に残った。
父親の立場でもないのに共感…
小津監督の映画まともに見たことなかったのですが、BSでしてたので視聴
娘をおくりだす父の気持ちがなんとなくわかるような…
それにしても、白黒なのに映像が美しく見えたのはすごい
ところどころにはいる日本的な要素の能や塔はすごく印象的
小津監督って塔が好きなのでしょうか?塔というより京都?
よくでてくるような…
ラストシーンは父が号泣する演技に、と監督は指示したそうですが
あのシーンの方が味があってよかった
今の時代、結婚してもしょっちゅう実家に遊びに?帰ったりするのもあたりまえですが、
昔って一回女性が家を出るともう、ちょっとやそっとじゃ戻らない、戻らせない覚悟みたいなのがあったんでしょうか
でもそのわりに娘の親友は出戻っているけれど
古い価値観と新しい価値観のはざまで…という感じがした
よく議論されている、父と娘が並んで眠る壺のシーンもみましたが、
映画全体からみたら、ただ風景をうつすシーンのように見えてしまった
確かに意味深だけど、
母親不在という少し一般と違う状況で、
結婚前の父と娘が並んで眠っている状況だからあーだこーだ議論されているのかな、と思ったりしました
哀悼と発見
原節子さんの訃報を耳にした。松竹120周年ということで、偶然にも東劇にて「晩春」「東京物語」を上映とのことで、とりもなおさず銀座へ向かった。
「晩春」はよくよく見ると、なかなかおかしな映画である。主題である主人公・紀子の結婚の、肝心のその相手は全く顔を出さない。登場人物たちの口を借りてそのプロフィールが語られるのみである。
映画の焦点はあくまでも結婚における、父と娘との別離、その通過儀礼に絞り込まれている。恋愛結婚に懐疑的な作品の多い小津らしさが強く出ている。
ところが、「晩春」の11年後のカラー作品である「秋日和」では、結婚して家を出る娘の司葉子に、わざわざ恋愛をさせているのだ。しかも今度はその結婚相手に佐多啓二という二枚目まで登場させる。なぜこれがわざわざの恋愛かというと、司はさきに佐分利信から佐多の紹介をされているのだが、これは写真や履歴を見る前に断っているのだ。にもかかわらず、司は会社の同僚から同じ人物の紹介を受け、今度は交際を始めるのだ。「秋日和」のシナリオはこのように、娘が恋愛をするということに非常に重要な意味を持たせている。
「晩春」の終盤はやはり映画としては不出来な終わり方である。娘が結婚して親から離れることの道理を、思いのたけ、笠にセリフで語らせてしまっている。小津はこの映画としての不合理を、「秋日和」では恋愛という当時の新潮流によって押し流すほかなかったのだろうか。
「秋日和」は、「晩春」とほとんど同じような筋立てで、原節子が今度は娘を嫁に出す寡婦を演じる。「晩春」でのやもめの笠智衆の役を、その娘であった原が演じるのだ。このような配役をこなす原もすごいが、「秋日和」で佐分利信の重役室へ司を案内する事務員が岩下志麻で、この司と岩下は6年後、「紀ノ川」でこれまた母娘を演じることになる。いやはや、仕事の幅の広い方々に敬服するばかりである。
原節子さんのご冥福をお祈りいたします。
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