「素晴らしい余韻が残る、日本の最良の部分を残すことが同時に世界的に普遍性のある物語にまで昇華している」晩春 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
素晴らしい余韻が残る、日本の最良の部分を残すことが同時に世界的に普遍性のある物語にまで昇華している
1949年昭和24年
同年公開の黒澤明監督の野良犬、前年公開の酔いどれ天使に登場する東京とは全く違う世界が描かれています
左翼からは当時の困窮混迷した社会情勢に背を向けた鼻持ちならない極めてプチブルジョワジー的な映画だと批判されもしたようです
しかしその批判は当たらないと思います
小津監督の視線は日本の現状をしっかりと見つめており、だからこそこのような日本の最良の社会の在り方を残そうと懸命に記録しているとも言えると思うのです
序盤の横須賀線の走行シーンを長々と挿入しているのは何故でしょうか?
馴染みのある横須賀線カラーではない、昔の茶色い塗装の電車が遠景で映ります
一両だけ白い帯が横にはいった車輌が列車の真ん中にあります
グリーン車ではありません
米軍専用車輌なのです
紀子と服部が自転車で葉山から茅ヶ崎まで海岸を走るシーンでは道路標識は英語でマイル表記なのです
つまり監督は占領下の日本の行く末
その社会の構造、人間の機微
そういった日本の本当に美しいものが壊されてはなるものか
そのような強い意志をもって本作を撮影しているのだと思うのです
冒頭に茶会のシーンを置くなどだけでなく、本作のテーマそのものや、登場人物達のものの捉え方、行動、立ち振舞い
そういったものを飲み込まれてはならないものとして映画に刻みつけようとしているのだと思うのです
晩春という題名
確かに冒頭の北鎌倉は桜も終わった明るい陽光に満ち溢れています
服部が紀子を誘った東京劇場のバイオリンの演奏会は4月28日開催でした
服部が婚約者が在りながら自分を誘ったことになんとも不潔だと紀子が怖い顔で歩くシーンはその前の切れない沢庵問答の時の笑顔との落差が効いています
能の演目は杜若(かきつばた)
つまり初夏の花です
紀子が途中で三輪秋子に気付いてからみるみる不機嫌になるシーンは心に残りました
終盤の京都の清水寺には修学旅行とおぼしき女学生達が冬服で散策しています
紀子は半袖ですが、周吉はカーディガンを着ています
つまり父娘の京都旅行は初秋頃です
ラストシーンでは父周吉が独りリンゴの皮をむきますから、紀子の結婚式は晩秋から初冬だろうと思われます
では何故本作は晩春という題名なのでしょうか?
それは劇中の季節を指しているのではなく、紀子の事を指しているのだと思います
遅い春がようやく彼女にも訪れたという意味なのだと思います
上野の料理屋の多喜川の主人が西片町にお住まいの頃云々と話ます
その地名は東大前と本郷の間にありますから、周吉は東大の教授なのでしょう
京都の旅館で明日帰るという夜
父娘は布団を並べて眠ります
その時床の間の壺が意味ありげに長く撮されます
色々な解釈がされているようです
ユング的には壺は女性を象徴しています
その空洞の内部に全てを呑み込み、そして産み出す存在なのです
つまりエディプスコンプレックスを説明しています
果たして翌朝、彼女は結婚したくない、周吉といつまでも暮らしていたいと言い出すのです
この時初めて周吉は雄弁に彼女に話しかけるのです
今までになかったことです
こんなことはできない人物です
なのにこんなにも話すのです
それがラストシーンとの対比を強めているとおもいます
周吉は独りの家に戻り暗い台所でリンゴの皮をナイフで剥きはじめます
そんな事は紀子がしてくれることで、危なっかしい手つきです
彼は慟哭はしません
周吉とはそんな男ではないのです
これで良かったのだと言い聞かせているのです
結婚式に向かうシーンで杉村春子がバックを二つもって退場しようとしてまた戻って忘れ物がないかぐるりと部屋を一周してから階段を下りていくのです
素晴らしい小技で参りました
エンドマークは鎌倉の夜の海が写されます
寄せては返す波
それははるか昔から同じ光景であり
周吉と紀子のような嫁に行かせる話はその波のように太古から繰り返し繰り返し同じことがあったことなのです
素晴らしい余韻が残る、日本の最良の部分を残すことが同時に世界的に普遍性のある物語にまで昇華しています
本作の12年後小津監督の遺作秋刀魚の味が撮影されます
ほとんど本作のセルフリメイクと言える内容です
本作をより整理して父が嫁に行かせる物語により焦点を絞りこんでいます
監督の本作への再挑戦だと思います
是非合わせてご覧下さい