劇場公開日 1951年10月3日

「家族のサイクル」麦秋 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5家族のサイクル

2025年2月6日
PCから投稿

紀子(原節子)は兄幸一(笠智衆)が世話した良縁を蹴って秋田へ赴任する医師との結婚を独断で決めてしまう。──というだけの話だが、昔の結婚観や世代間対立と家族の思いが絡み合って、しみじみとやるせない家族風景を描き出す。ちなみに原節子が紀子という役名で出ている紀子三部作の二個目。(晩春・麦秋・東京物語)

じぶんはレビューを書くために食指があまりうごかない映画を謂わばムリして見ることがある。見たくないとまではいかないがあまり見る気がしない映画をレビューのために見る。ばかなことだと思われるだろうしばかなことだとじぶんでも思うが、映画を見てレビューを書くと多少気分がよくなるので謂わば趣味の範疇といえる。

きょうびVODには様々なコンテンツが百花繚乱と咲き乱れ、ネットフリックスにいいのがなかったらアマゾンプライムやディズニープラスを巡ってみることもできる。そこには刺激や奇想や色気や戦慄などのコンテンツが山とある。なにを好き好んで一人娘の結婚に気を揉む大時代の家族風景を見なければならないだろう。小津安二郎に限ったことではないが、昔の映画を見る人、あるいは見ておかなければならないような気がしてとくに見たいわけではない映画を見る人は結構なおたくだと思う。

かんがみてマンガ・アニメなどの愛好家はおたくと称してそれを自負する人々が文化を形成しているが、独りで誰も見ていない映画を見ているような映画おたくと比べると、マンガ・アニメおたくは「同じような嗜好をもった人」や「好きに対して無邪気な人」の総称であって、とあるキャラクターについて知っている事象でつながることが可能な世界観があるのだが、映画のばあい、あなた/わたしがとある晩に人知れず見た映画が世界や他者となんの関係があるのか、という話である。まして公開中の人気映画やネトフリランキング内映画ならいざしらず、独りで何十年も昔の映画を見て誰にあてるともなく感想を書く──いったいこの非生産的行為はなんなのか、という話である。

そんなわけで現代、小津安二郎の映画を見るには「よし小津安二郎の映画を見るぞ」と決心する必要がある。そして結局そこにある時代性に苦戦する。言いたいことは解りすぎるほど解るが、現代人の感覚が、小津安二郎の世界に同化・併走することができないことに気づく。

一人娘を嫁にやるのが寂しいのは普遍的な親の感覚にちがいないが今と昔では家族の有り様がちがう。家父長制がなく結婚には経路があり自由と不自由が混在する未来があり、そして孤独だ。
パートナーや友人がほしいと思って孤独と言っているのではない。独りのままがいいし孤独死に不服はない。むしろ孤独死させてください。そういう孤独ではなく、ここで言う「孤独」とは──

I Think We're Alone Now(孤独なふりした世界で、2018)で身長132㎝のピーターディンクレイジはエルファニングの「世界の終わりに孤独を感じたか」の問いにこう答える。
「俺が──」
「俺が孤独を感じたのは、この街に1600人の人間がいたときだ。ひどく孤独だったよ」

孤独とは人がまわりにいるから。そしてまわりの人々があなた/わたしをやんわりと拒絶しているから。あなた/わたしが他者をやんわりと拒絶しているように。
無人島で独りで生きていたらむしろ気が楽なのに億の人間達に囲まれていてその人間達が一様に鬱蒼としているから孤独なのだ。

そんな現代的孤独下で生きている人はまず麦秋の序盤の家族生活の温かいリズムに鼻白むだろう。
序盤は世代間対立が表面化せず、朝子どもが顔洗ってきなさいといわれたけれど洗ってこなかったり、鉄道ゲージを買ってほしいとねだったり、おばあちゃんの肩叩きをしたり、あるいは紀子の通勤風景や兄幸一(笠智衆)の忙しい様子や、大人達が夜ケーキを食べていて子どもがおしっこに起きてくるとケーキを隠したりとか、友人役の宮口精二と碁をうつ様子など、総じて牧歌的でユーモアのあるシーンが積み重ねられる。

のんきな人々だと感じるだろう。しかしかれらはのんきなわけではない。むしろわたしよりはるかに実直で人生と将来についてまじめに考えている。
今の人が昔の人に比べて賢くなったわけでもない。スマホをもっているから、いろいろなことを知っているわけでもない。
それでもやはり時代性を痛感するだろう。わたしたちの現代社会はもう完全にちがうフェーズにある、と思ってしまうだろう。
だから客観的に見てどうかということになる。客観的に見てしまうならぜんぶ解る。不同意なところはひとつもない。ぜんぶそのとおりだと思う。

『小津自身は、本作において「ストーリーそのものより、もっと深い《輪廻》というか《無常》というか、そういうものを描きたいと思った」と発言しており、小津とともに脚本を担当した野田高梧は「彼女(紀子)を中心にして家族全体の動きを書きたかった。あの老夫婦もかつては若く生きていた。(中略)今に子供たちにもこんな時代がめぐって来るだろう。そういう人生輪廻みたいなものが漫然とでも感じられればいいと思った」と語っている。』
(ウィキペディア「麦秋」より)

麦秋はまさに小津安二郎が言ったとおりの世界になっている。だが、混濁した現代はもはや小津安二郎の描く家族が規矩準縄たりえる世界ではない。
となると、どういうことがおこるかというと、麦秋が語る輪廻や無情よりも、過ぎ去った1951年の日本にノスタルジーを感じる。ということがおこる。
小津安二郎の映画に限らず、昔の映画の感想はその内容如何ではなく「いい時代だった」というような過去への追慕によって形成されるきらいがないわけではない。
ところが「いい時代だった」とは過去を知らない者や過去にいい時をすごした者や過去に羽振りのよかった者が予定調和や年長者マウントを取るために言う構文であって、過去がいい時代だったのか、今がわるい時代なのかそんなことはだれにも解らない。
過ぎ去った時間の容赦のなさを感じながら、小津映画の中の家族や友人などの社会的つながりと、じぶんのそれを比較してみると情けなくて哀しくなる。

『公開後、キネマ旬報ベストテン第1位など数々の賞を受けるとともに、『晩春』に続いて起用された原と小津との結婚説が芸能ニュースを賑わせた。』
(ウィキペディア「麦秋」より)

しかし映画人の実生活は孤独ではなかったのかと考えたとき、名監督も大女優もカメラのこっち側とあっち側で対峙しながら、どちらも一生涯独身を貫いた。小津安二郎も原節子も映画内ではさんざん結婚の啓発活動をしておきながら独りのほうがよかったわけである。

英題Early Summer、imdb8.1、RottenTomatoes100%と92%。

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津次郎