破戒(1962)のレビュー・感想・評価
全10件を表示
W市川によるコンビ映画第三弾!
部落民出身であることを隠して生きる青年教師の苦悩を、市川崑監督の素晴らしい演出、市川雷蔵の素晴らしい熱演で描く文芸大作ですね‼️とにかく文芸映画は忍耐が大事‼️ちょっとでもツマらないと睡魔に襲われてしまう‼️でも市川崑監督の文芸映画、「おとうと」とか「細雪」もそうですけど、市川崑監督のユニークな映像表現と語り口でホントに面白く出来てます‼️美しい信州の雪景色をモノクロ画面の中に格調高く収録‼️まぁ宮川一夫さんのカメラの力も大きいのでしょう‼️特に後半、主人公の丑松が自分の秘密を告白、土下座して謝罪、雪原をさまよう前後からラストまでの素晴らしいシーン構成やカット割には身震いさせられます‼️そして差別というこの作品のテーマ‼️人種差別や男女差別、ジェンダー差別、そしていじめや虐待などが蔓延してる現代でこそ、この作品の存在価値が強まる気がします‼️
「実は私は部落民なのです。どうぞ私の言うことを覚えておいてください。噛んで含めるように訴えたと覚えておいてください。」
昭和37年(1962)、今から60年前の映画。先日も真宮祥太郎主演で同作が上映されたが、やはり時代時代の部落民に対する世情が色濃く反映されているなと感じた。なにより、今よりもなお、「部落」と差別されている人たちの存在が身近だったはず。物語の舞台である明治37年(1904)に少年少女だった人たちが、まだ老人世代として健在だったのだから。差別意識は廃れていたとしても、子供時代の記憶にまざまざと刻まれていたことだろうなあ。
市川雷蔵。この役者の幅の広さにつくづく敬服せざるを得ない。シュッと端正な顔立ちでありながら、まさしく部落民の苦悩を表している。かつて、容姿も蔑まれた彼ら部落民のなかにも、稀に美形の女子が生まれたという。高柳代議士の妻のように。だから、丑松が「市川雷蔵」であっても不思議ではない。それを好機と素性を隠し、悪い言い方をすれば「うまく平民に成りすました」丑松。だけど、根っからの彼の正義が、彼自身をずっと責めるのだよな。そこにもってきての、猪子に対して自分が部落民と名乗れぬつらさ、罪の意識。苦悩する「市川雷蔵」はなぜにこうも美しいのだろう。
そして、カミングアウトしたあとの丑松のすがすがしいほどの決意。ラストの決意も決別も、原作ほど不自然ではなかった。むしろ、とても現実的で希望に満ちていた。なにより、子供たちのいじらしいまなざしと、それに応える丑松の言葉が印象的だった。
映像美。
猪子が殺されるシーンが
凄まじい美しさ。
脚本も同和問題云々色々見処多いのだが、
雷蔵様の美しさと、
映像の美しさが半端なくて
他のことが全て霞んでしまう位。
それでもラスト、
畳み掛けるようなポジティブさ溢れる展開は脚本の勝利かと。
部落解放活動の前身
部落解放運動家、猪子蓮太郎(著書『懴悔録』)の心が一番わかりやすく、感情を移入しやすい。
猪子(三国連太郎)は自分は部落民の出身で 自称穢多だとし、部落解放運動の前身に入っているたくましい人だ。この人は実在かどうかは知らぬが、私感だが、水平社(1922)の前身的な運動家なわけで、当時としたら(1906)稀に見る人権革命家であったわけだ。彼の思想がもっと詳しく解説されていたら、水平社の創始者たちも藤村の破戒を紐解いたかもしれないね。 それに、懺悔に満ち溢れていた瀬川丑松は嬉しいことに何が正しいかに気づき、東京に行って、猪子のような活動家を目指すようになっている。
瀬川丑松はなぜ、教えている生徒の前で謝ったんだろ? 私は感情的にも、論理的にもよく理解できていない。生徒に部落民だということを隠していたことより、嘘をついていたということで詫びる気持ちが強かったんだろう。でも部落民だと言うことを言わないことは嘘につながるんだろうか。生徒は先生に部落民かどうか質問していないじゃないか、嘘をついてはいないんだよ。生徒は家庭で部落民の話を聞いたことがあるかもしれないが、部落民の生徒はこの学校で教育されていないだろうから。生徒にとって、大人が持っている(全員ではないが)慣習を含めた差別意識があるだろうか!親から聞いていればあるかもしれない。でも明治の先生は明らかの聖職者と同様な立場だったと思う。それに子供の理解だから丑松先生がずうと嘘をついていたとは思っていないと思うなあ。丑松の生徒の前での謝罪を完全に理解するのは難しい。
この映画、それに藤村の小説。すでに読んでいるが、瀬川丑松に全てを感情移入しにくい。明治だから、現在部落民の存在がうやむやになってしまい歴史上の事実として学んでないから? それに、かず多くの部落民地域はジェントリフィケーションでその場は都市化されてしまったようだ。そこに居住していた部落民はどこに移されたか私には知る術もない。私は以前、教材として使いたくて大阪にある部落解放運動事務所と連絡を取ったことがあるが、もうその存在ですら危ぶまれているようで、資料を集めることが日本語以外の多言語できなかったのを記憶している。天皇をトップには言うまでもないが、士農工商穢多非人の江戸時代の負の遺産である身分制度が今でも残っていようとは大釈迦様も知らなかったろう。このカースト制がまたもや学校でのカースト制として頭を持ち上げてきたようだ。人間に差をつけることにたいする問題意識を持たないと。差別は心でこの問題を解決するとができる。教員の同僚の親友土屋(長門裕之)やシホや猪子の奥さん、住職たちのようにならなければならないと思う。
同僚、土屋は頭から丑松が穢多ではないと決めつけていた。本人に確認もせず。丑松の性格や傾倒している活動家、猪子の本を読みすぎて人に誤解されていると思っていた。早がってんの性格で丑松の心の悩みに寄り添えなかった。
しかしシホの一言で丑松に対する見方が変わった。シホは穢多では無い。シホは『丑松は穢多になろうとして生まれてきたのではない。両親がそうであっても丑松とは関係ない。可哀想な丑松。丑松と一生夫婦になるつもりだ』と土屋に。土屋はシホの言葉で目が覚めた。
でも、土屋の人権意識は丑松以外の穢多非人に対しても自分と同じだと考えられるだろうか?丑松は教養があって優秀だと思っているから土屋の心は変わったのかもしれないが。ここは私にとってこの作品の謎の部分だ。
若き小学校教諭の苦悩を描く、部落差別をテーマにした明治39年原作の映画。
島崎藤村の明治39年の長編小説。部落差別をテーマとした映画。小説を最近読んだところだったので、アマゾンプライムの昭和37年の映画を見てみた。「破戒」とは、「いましめを破ること」。主人公の苦悩は自分に課せられたいましめを貫き通せるかにかかっている。
小説はとても感動したが、映画は市川崑監督とあって映像表現や重厚感あふれる演出など違う展開もあったがとても良くできた作品であった。題材はもともと重苦しいものであるが、小説には主人公のいろんな生活や表情、出来事があったが、それに比べ映画はほぼ全編重苦しい雰囲気を強く押し出したものとなっている。最初からそこに重点を置いているのだと思う。
明治の時代は現代とは大きく異なり、部落民を取り扱うこと自体難しかったのではないか。最初は自費出版として公表したと聞く。
部落民というだけですべてを否定し追い出そうとする人々。その中にあっても、それに立ち向かおうとする人、現状をしっかりと受け止めその人を支える人。主人公に希望はあるのか、ないのか。
自我の芽生えからくる"破戒"
名カメラマン宮川一夫によって撮られた画のおかげで単なる重苦しい映画ではなく素晴らしい芸術映画として成立している。
部落問題という難しい問題を真っ向から描いていて、観ていて心苦しくなる。
かといって当時の風潮が現代で無くなったわけではないし、この映画の時代に自分が生きていたとして、主人公に寄り添えたかと問われると、迷わず首を縦に振れないのが本当に情けない。
しかし最期のシーンで思わず涙してしまった。この感動を忘れずに社会と向き合っていこうと決意させてくれる強いメッセージとエネルギーを持っている名画だった。
近年日本人の間でも外国人を差別するなとむやみやたらに騒ぐ風潮があるが、それも大事だがこっちの問題をまず考える場の方が必要なのではないかと思ってしまう。
原作者の島崎藤村が、自我がいち早く芽生えた者の悲しみを主人公に託したと言われているが、なるほどと思った。
作中の部落民ではない者は肩書きなどに必要以上に執着するのは自分という軸、つまり自我が芽生えていない。自分が成熟していないので頭で考えず肩書きや風習で判断するのが楽なのだ。
しかし三國連太郎演じる部落差別撤廃に尽力する思想家や主人公、最期に主人公に理解を示す者などは自我を持っている。または自我に目覚める。
自我に目覚めなければ問題をまともに捉えることができないんだという我々にも通ずることを学んだ。
21世紀に生きる日本人の私達にもダイレクトに関係しているものだったのです
心から感動しました
名作中の名作です
宮川一夫の撮影も惚れ惚れする映像を残しています
1962年公開
物語は明治37年1904年の今の長野県飯山市を舞台にしています
島崎藤村の原作小説は1906年の発行
約60年後の映画化です
そしてその映画公開から約60年が経ちました
116年もの昔の話です
部落差別という重いテーマです
差別問題は21世紀では今や過去の話でしょうか?
今もあると聞きます
それも次第に消え去っていく問題でしょうか?
2020年コロナウイルス禍の最中、コロナ差別と言う言葉が世間を震撼させました
コロナに感染してしまった人やその家族、コロナと戦う医療従事者やその家族などが根拠もなく差別されたのです
私達人間は、すぐ差別を作り出してしまうのかも知れません
これからも新しい差別が生まれるのかも知れないのです
1962年の公開の年
米国では黒人達の公民権運動が盛り上がっていました
本作の劇中での部落差別のエピソードと全く同じことが、米国では黒人や有色人種に対して行われていたのです
アラバマ物語、グリーンブック、デトロイトなどの映画は米国の物語であって、日本人には遠いよその国の物語かと思っていたら、それは間違いだったのです
日本人の私達、21世紀に生きる日本人の私達にもダイレクトに関係しているものだったのです
人種の差別、民族の差別、同じ民族同士での部落差別、男女差別、LGBT差別、はてはコロナ差別
どこが違うのでしょう
強制して無くなるものではありません
声高に糾弾されたら却って怖くなり陰にまわっていくでしょう
人が人に優しく接すること
お互いの個性を敬意もって接すること
そうありたいものです
人間を愛するということ
泣いてしまった…。
水墨画のような画面の美しさ
そして日本人の所作、ことばの美しさ
部落差別という非人間的な理不尽に
誠実に向き合う人々…
人間を愛するということは尊いこと
ということを、再び思い起させてくれた
うつくしい映画でした。
外国人が見ると、(かつての)日本の美しさが見られて
きっと面白いと思います。もちろん今の日本人も。
部落差別の話
部落問題を描いた作品。
100年前の話だけど、差別とどう向き合うかという、
普遍的なテーマが説得的に描かれていて、古さを感じさせない名作。
ところで、この映画の登場人物は約束を全然守らない。
だけど話の流れとしては約束を反故することがむしろ正しいようだ。
タイトルはそういうことか。面白いね。
全10件を表示