HOUSE ハウスのレビュー・感想・評価
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お祭りのお化け屋敷
大林監督の商業作品デビュー作。
公開当時中学生だった自分にとってはとても印象深い作品でした。
大場久美子や池上季実子をはじめとする通称HOUSEガールズがピエール・カルダンのおしゃれな衣装に身を包み、南田洋子演じるおばちゃまの屋敷で夏休みを過ごすが…彼女たちに怪現象が起こり…というファンタジーホラー。
夏休みのお祭りでのお化け屋敷に騒ぎながら進んていくような感じ…外に出ると空いっぱいの夕焼けが目に映って今日も楽しい一日だったなって気分にさせてくれます。
皆さんのレビューにあるように演出は書き割りの背景とか、セリフもよく聴き取れなかったりでチープな感じは否めないけど、とにかく色が素晴らしく大場久美子が襲われるシーンの夕焼けは息を呑む美しさでした。それから、雰囲気を盛り上げるゴダイゴの音楽も思春期の自分には刺さりメインテーマ「ハウスのテーマ」はお気に入りの一曲になりました。サントラを何度繰り返し聴いたことか…!
それにしても屋敷の井戸や布団やピアノや電燈の笠などが人を襲うなんて…そんな発想·演出がヤバすぎました。ちなみに、大場久美子が襲われたシーンでみんなに助けを求めるシーンで「どうしたの?泥だらけじゃないの」「泥だらけの純情?」ってセリフがあって、公開当時同時上映が百恵友和の「泥だらけの純情」だったり、反対に「泥だらけの純情」のなかでは「HOUSE」のTシャツ着てる人が出たり面白い仕掛けがありました。
よかった
大林監督が亡くなって作品を見返そうと思い2回目。画面の加工がすごいという印象があったのだけどやっぱりすごい。狂ってる。池上季実子と6人の同級生が出て、あだ名がいちいち恥ずかしい。誰か最後まで生き残る人にスポット当てて描いていけばいいのに、そんなこともないのであまり個に思い入れることなく一人ずつ死んでいく。登場人物はそれぞれシンプルな個性で紋切り型。
後の作品を見る際の軸となる感じだ。
遊び心満点の大林初期作品。
オシャレ以下、ファンタ(大場)、ガリ(松原)、クンフー(神保美喜)、マック(佐藤美恵子)、スウィート(宮子昌代)、メロディー(田中エリ子)の7人が羽臼家へと向かう。最初は、イタリア映画の音楽家である父(笹沢佐保)とともに軽井沢の別荘に行く予定だったオシャレは、父が新しいママ(鰐淵晴子)を紹介したために別荘行きを断念する。ファンタたちは憧れの東郷先生(尾崎紀世彦)と合宿(何の合宿だかさっぱりわからん)が中止になった・・・などという、どうでもいいプロローグがあったりする。
ホラーだとかコメディだとかジャンル分けされる今作であるが、カルト映画、実験映画、アイドル映画と言った方がわかりやすい。そんな中、当時流行っていたゴダイゴの歌やカメオを織り交ぜ、監督自身も別れ際の恋人という役で大林恭子とカメオ(すぐにわかるぞ!奥さんは初めて見た)。その他、脚本家の桂千穂も出ているらしい。
最初に井戸にスイカを冷やしに行ったマックがいなくなる。食ったおばちゃまは車いすで移動していたのに、若さを取り戻して飛び跳ねたりする。徐々に恐怖を覚えるファンタ。やがてスウィートが時計に食べられ、メロディはピアノに食べられてしまう・・・
CGの無い時代にここまでしっちゃかめっちゃか特殊撮影とフィルム合成を繰り返し、目も疲れてくるんだけど、それが楽しいのだ。何しろ、タンクトップにショートパンツのクンフーが大活躍。未だに神保美喜のファンサイトまで存在するくらいの人気ぶり。彼女のアクションも編集のおかげでかなりカッコよく見えるのだ。ただ、目が光ったり、ピアノの上に星形の光だけはいただけない!結構面白い映像があるのに、やっぱりやり過ぎなんだろうなぁ。
ストーリーはどうでもいいくらいなんだけど、戦死した恋人(三浦友和)を永遠に思い続けるというテーマなんてのが大林ならでは。実の娘(当時12歳)の原案をここまでにするのも大変だろうというか、ばかばかしすぎ・・・
ヌード:池上、松原
斬新
TSUTAYAのアイラインでジャケ借りしてしまった。
映像技術が未発達すぎて興醒めはするが、やり取りの古めかしさとか、回想シーンにコメントが入るとか、新しさは感じた。
クンフーの破天荒さには驚愕。最強かよ笑
嫉妬と変態は頭が壊れ犠牲者は無垢な女
<嫉妬と変態で頭が壊れ犠牲者は無垢な女>
日本映画専門チャンネルで大林宣彦監督の特集の時に録画。デ
ビュー作品との事。ウィキペディアで調べると、大林監督はCM監督から、映画の助監督経験なしで監督をして悶着があったらしい。ファンタジーコメディーホラーとの事だが、どうしてこんな作品が作られてしまうのか私は理解していないほうである。ファンタジーだろうがなんだろうがホラーはみたくはなかった。だが、選んでしまった。私は50歳だが、出演者の女子高生役が池上季実子とか大場久美子とか、10歳近く年長の、思春期には一線のアイドルや女優として活躍していた世代の人たちである。これを書いている時点では60歳くらいの人たちである。映像の遊び感覚みたいなところはあるが、どうして女子高生たちが家に食べられていくしかなかったのだろうか。戦争でフィアンセ(三浦友和だ)と死別しなければならなかった南田洋子扮するおばさまの生霊としての怨念だからか、としても、なぜ若い女子高生に向けられるのかも意味はわからない。嫉妬する対象が違っている気もする。7人の女生徒が出て来るが、池上、大場の他にも、神保美喜(この作品でのエロ度は出されている。パンティーみたいな緑のパンツでずっといる。)もメジャーになったし、松原愛もなんとなく名前だけはくらいだったが、私としては、最初に食われたマックという女生徒が一番アイドル系だと思った。ポッチャリ型ではあるが、ルックスは池上、大場以上のような気もしたが有名にならなかった。しかしこんなのを思春期にみていたら、(私が10歳だと思春期少し前か?)頭がおかしくなっていたかも知れない。(変わらないか)。大林監督なら、『時をかける少女』のタイムトラベルの場面のような画面の不安定なんかはノスタルジックな気さえするのだが、ホラーにしてしまうと、ノスタルジーも無いではないか。懐かしいおばさん女優になってしまった人の若い頃という興味はあるかも知れない。それとか『さみしんぼう』とか、心情に訴えるような面と映像の不思議さが合っているなら大林作品は良いと思うのだが。デビュー作ではあるが。1977年という時代もどうだったのか。いい加減でひどい時代でもあったのだろう。今の時代もただ除菌された振りをしているだけか。『時をかける少女』とか、一部分の作品だけ見てしまうと、大林氏はすごい人格的な人なのかと勘違いしてしまうが、この作品をみると、大した人でもないんだからと軽く思えるメリットはあるのかも知れない。どうして好きなピアノに食われるしかないのか。まるで意味がわからない。どういう深層心理を得たいのだろう。変態養成なのか。分裂的イメージに何の意味があるかわからない。少し映像にキレイだと思う面も感じると自分も怖い。ただ現在のCGの発展以前の和製映像技術としてのほうの意味があったのか。尾崎紀世彦などが出ているナンセンスな所も一体なんだろうか。意味なく面白いという。分裂している。背景の音楽のオルゴールのチクタクもなんだか気持ちがいいのだが、映像はホラーだが、怖いというのではなく、変態。何をこの変態エロスで訴えたかったのだろうか。家という強力に思えた構造と新しい女性たちの戦いという社会的な深層心理も含ませているのだろうか。だが、家がそんなに女性たちを苦しめてきただろうか。家というしっかり構築させてきた構造を破壊しようという衝動が若い女性たちが食われるという未遂として構成されたのか。女性の身体をバラバラにしてヌードでみせるという場面。白い結婚装束から大量の赤い血が流れだす場面。
これは女性の心理的な従来の構造からの脱出だとみなすのか、しかし女性蔑視になるに過ぎないか。カメラのシャッターかなにかか違うか、何かに原爆の映像が合わされた場面もある。戦争からの異常心理の名残を見せたかったか。女生徒たちが死んでいくならば、哀惜の念で辛い映画なはずなのに、ホラー性で全然悲しくもなく、オールヌードで水中で溶けていったのはどの女優かわからない。大場久美子がマゾヒスティックな役柄で痛めつけられる。たしかに美少女ではあった。
なぜか乳首を出した池上に抱かれて安心している大場。熟女にまではいかないが、池上とのコンプレックスがあった、池上の父親の後妻の鰐淵晴子が色気ポーズで人食い屋敷になぜか訪ねてくる。確執していた池上と会うが、池上の目からの火炎光線で焼かれてしまう。こうした親へのコンプレックス、南野の戦争でフィアンセが失われたコンプレックス、そんなところか?最後にシャンプーのコマーシャルに出てきそうな清純池上季実子の映像で、南田洋子だろうか、ナレーションが入る。肉体は滅びても大事なのは愛だとかなんだとか、よくわからないことを言う。何人かは有名になる寸前だったらしいが、最後にゴダイゴなのかなんなのか、英語らしい音楽で終わる。この映画から40年。日本の性の在り方は分裂し、わけがわからない状態のままだった。こうした変態作品を、のちに気落ちいいファンタジーを作ったこともある大林はなぜ始めに作らなければならなかったのか。わからない。ああ、わからない。国家が狂っていたら、明るい女生徒たちも食い殺されてしまうという風刺か。
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