拝啓総理大臣様のレビュー・感想・評価
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映画の面白さはいろんな人間の才能が集まってこそ!
10月に開幕する予定の東京オリンピックの準備で、東京の街はあちこちで工事中。工事の騒音で会話もままならない様子がちらりと描写されます。東海道新幹線もなんとか開通し、坂本九の明日があるさが大ヒットし、テレビではひょっこりひょうたん島が放映され、時代は政治の季節から経済の季節へ移り変わっている、そんな高度経済成長期の真っ只中の昭和39年(1964年)4月29日に本作は公開されました。
元々漫才コンビを組んでいた二人の男が主人公です。一人は妻ルージュ(横山道代)と演じる時事コントが大当たりの売れっ子テレビ芸人、東京ムーラン(長門裕之)。もう一人は野犬狩りに落ちぶれている鶴川角丸(渥美清)。角丸がもう一度漫才の舞台へ上がることを決意し上京することから物語が始まります。
長門裕之演じる東京ムーランは気の強いルージュに辟易しており、若い女との浮気に走ります。そんな折り、上京してきた角丸にコンビ再結成を懇願されますが再結成のかわりに追い払うように旅芸人一座を紹介します。
杉本のり子(原千沙子)、売り子をしながら下半身不随の弟の面倒を見る健気な若い女性で、お金目当てにムーランの愛人になっています。
村瀬アヤ子(壷井文子)は黒人と日本人のハーフの女の子。その外見からどこへ行っても馬鹿にされています。実の父母を知らず、育ててくれた祖母は亡くなり、親戚である菰田うめを頼って上京します。
菰田うめ(宮城まり子)、本当はアヤ子の実の母ですが、夫の手前言い出せず、親戚とごまかしています。交通事故で脾臓を失います。
菰田三五郎(加藤嘉)、うめの夫の貧乏大工。米軍の暴力で高度の難聴、戦争の影響で重度のアル中で、いつも怒っています。交通事故で命を失います。加藤嘉の老け役はやっぱり絶品!
元相方に袖にされた角丸とどこにも居場所のないアヤ子は出会い、漫才コンビとしてドサ回りの旅芸人一座に加わります。もちろん全く受けません。
浮気が妻にバレたムーランは離婚の危機に陥り、新機軸として角丸とのコンビ再結成とテレビ出演を画策しますが、上がり症の角丸のせいで失敗に終わります。
ムーランは妻と、角丸はアヤ子と、元の鞘に収まります。角丸とアヤ子はボケと突っ込みを入れ替え、アヤ子の歌を前面にフィーチャーする舞台を演じてやっと受けを取ります。ラストはアヤ子の歌、一本独鈷→こんにちは赤ちゃんの大合唱で幕が下ります。
・社会の片隅でくすぶる男たちに色濃い戦争の影。
・差別丸出しの田舎の下卑た民衆の姿。
・弱いものがさらに弱いものを叩き笑う世相。
・米国人ハーフの子供らのさびしさ。
・売れない芸人の悲哀。
・下半身不随の若者のやりきれなさ。
・時間に追われるテレビ制作現場の冷たさ、人情味のなさ。
・ひろがる格差。
・発展する東京、置いていかれる地方。
・増える交通事故。
本作に幸せで明るいキャラは一人も出てきません。みんななにかに怒っているか、悲しんでいます。ただ、それを表面上見せるだけで、登場人物一人ひとりの心の内には踏み込みません。「テレビに馴染めない古い漫才師の悲喜劇」という大鍋に上記のような当時の社会問題を素材として投げ込んだ鍋料理ですが、味はイマイチでした。取ってつけたようなエピソードの羅列で、大きなドラマは展開しません。高度成長期の日本からこぼれ落ちていくような貧しい人たちの群像劇ですが、政治への批判や風刺はありません。渥美清&長門裕之の二人に完全におんぶにだっこの印象の映画であり、ストーリーにはカタルシスもありません。どうせなら渥美清を脇に据え、村瀬アヤ子にフォーカスを絞ったほうがよかったのかも。本作の中では最も劇的に生き方を変える女性でした。アヤ子を演じた壺井文子さんはその後どのような人生を送られたのでしょうか。ネットでも全く情報は得られませんでした。
最後に出る字幕「拝啓総理大臣様、この人々があなたを選んだのです」というのも、果たしてどうなのか。公開当時の総理大臣、池田勇人が本作を観たとしても、全くピンとこなかったのではないでしょうか。そもそも大統領制と違い、総理大臣をわれわれ一般大衆は直接選べません。本作の登場人物たちの多くはおそらく総理の名前も知らないし、政治にも興味がなかったのではないでしょうか。
「拝啓天皇陛下様」「続拝啓天皇陛下様」に続く拝啓シリーズ第三作の本作が前二作と違うところは、現代劇になったこと、本作には原作がなくオリジナル脚本であること、監督、脚本、音楽をすべて野村芳太郎が兼ねていることです。前二作が面白かっただけに、本作は残念な出来でした。映画の面白さはやはりいろんな人間の才能が集まって作られるもののようです。
第一作で情に厚い貧乏作家を演じた長門裕之は本作では金で愛人を囲う売れっ子芸人に扮しています。彼の役柄の変遷は、日本人の男が何を得て何を失ったのかを考えさせてくれます。それはおそらく「矜持」というようなものなのでしょう。日本人が矜持を捨て金に踊らされる時代が、その後もずっと続いているのかも知れません。
拝啓 野村芳太郎様
①監督・脚本が貴方と知って驚きました。キャリア初期には喜劇も撮っておられたのですね。②しかし、喜劇で始まったのに段々時代風刺のシリアス劇になって来てしまい全体としてチグハグ感は拭えませんでした。③渥美清と長門裕之とを巡る各エピソードが少しずつ重なりあった結果として現代(1960年代中期)を描写したトータルな風刺劇を目指されたように思いましたが、残念ながら各エピソードがぶつ切れ状態で散漫な印象となってしまいました。
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