「人情なんて所詮…。」人情紙風船 TRINITY:The Righthanded Devilさんの映画レビュー(感想・評価)
人情なんて所詮…。
舞台は江戸時代。うらぶれた長屋に奉行所の役人が岡っ引きを連れてやって来る。住人だった浪人の自殺(首吊り)を取り調べるためだ。
商い日和に木戸を閉められ、ほかの住人はみな迷惑顔。同じ長屋で暮らしていたにしては薄情だが、元髪結いの新三だけは「せめて通夜だけでも盛大に」と家主に掛け合い男気を示す。
とはいえ、本当の目的は酒と肴。ドンチャン騒ぎになった通夜を同じ長屋に暮らす浪人・海野又十郎が羨ましそうに覗き込む。
その又十郎は仕官のため父の知己だった家老の毛利を頼るが相手にされない。
毛利が訪れた質屋の大店・白子屋にまで付いて行った際には、白子屋が雇った町の顔役・弥太五郎源七一家に手痛い目に合わされる始末。
源七一家は今度は髪結いでは稼げなくなった新三が無断で賭場を開いたことに因縁を付け、彼も袋叩きにする。
追い詰められてやむなく髪結い道具を換金しようと白子屋に持ち込んだ新三は体よく追い払われるが、後日雨宿りで立ち往生していた白子屋の箱入り娘お駒を見かけたことから…と物語は主要人物をリンクさせながら展開していく。
28歳で戦地に散った早熟の天才映画人山中貞雄。
現存しないものも含め、20以上の監督作品と多数の脚本を遺した彼の遺作がこの『人情紙風船』。歌舞伎の演目(通称『髪結新三』)を元にした本作は場面ごとに異なる雰囲気を見せる。
長屋の浪人の死が湿っぽい話にならず通夜が大騒ぎになるくだりは古典落語の『らくだ』そっくり。
住人の按摩・藪市は横取りされた自分の料理を取り返すし、銀細工の煙管が誰に盗られたか分かっていながら相手が羅宇屋に修繕に出すまで待つなど、見えないくせに目端が利くところはまるで後年の座頭市。
営業マンのように腰が低い侍や大資本に頭があがらないヤクザ、出世のために商家に日参する家老など、中盤は風刺劇の様相。
終盤、新三と源七一家の立ち回りで活劇の要素を見せながら、最後はネオレアリズモを先取りしたような結末。ストーリーがループするかのように又十郎の死を噂する長屋の住人の場面で映画は幕を閉じる。
見たことはなくとも名前は知ってた『人情紙風船』。
題名だけで勝手にTV時代劇『ぶらり信兵衛道場破り』(山本周五郎の原作小説のタイトルが『人情裏長屋』)のテイストを想像してたらとんだ勘違い。
撮影中に日中戦争が勃発し軍国の風潮色濃くなる中、国威発揚とかけ離れた本作を監督した山中は映画の公開初日に徴兵されて翌年戦没。
彼の戦死の予備知識が断片的だったので、映画を観終わって真っ先に脳裏をよぎったのは、奇しくも同じ京都文化博物館で今年開催された『シュルレアリスム100年宣言展』で初めて目にした浜松小源太(1911~1945)の『世紀の系図』。
抽象絵画にも関わらずひと目で反戦・反軍国主義の寓意が読み取れる作品を戦時中に発表したことで、岡本太郎と同年生まれの前衛画家は短命が決定付けられたようなもの。
山中の死は浜松ほど作為的ではなかったにせよ、国家の無謀な拡大政策で有為な才能の芽が摘まれた点では同じ。山中の遺言とされる「『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ」の言葉に彼のどんな想いが込められていたのだろうか。
作品の印象は又十郎の妻たきによる無理心中を予感させる最終盤で一変する。
亭主がかどわかしに関わったことを知った彼女を凶行へと向かわせたのは武家の矜持、もののふの誇りという旧い価値観。
一方の又十郎は武士ながらどれほど辱められても刃傷沙汰に及ばず堪え忍ぶ、権威主義や横暴とはほど遠い人格。
果たして妻から「成敗」されるほどの瑕疵があったのかという価値観の錯綜が観賞後の気持ちに暗い影を投げ掛ける。
作品の時代背景は明確には示されないが、歌舞伎の『髪結新三』はいわゆる大岡政談(時代的には江戸中期)。元ネタの新三は現役の髪結いだが、職にあぶれた本作の新三からは戦時中同様、贅沢が禁じられた天保の改革を連想させる。
武士なのに切腹でなく縊死で果てた浪人や剃刀での無理心中で絶命した又十郎らの不条理も製作当時の暗い世相を反映したものだろうか。
長屋の場面で多用される狭い路地のどぶ板を挟んだシンメトリーの無機質感や、最後に水路に転げ落ちるたきが手内職した紙風船の儚さが印象的。
作品タイトルの『人情紙風船』とは、「人情なんて所詮、紙風船のようなもの」ということか。
第16回京都ヒストリカ国際映画祭にて観賞。
会場となった京都文化博物館(三条高倉)は、山中貞雄が産声をあげた高倉通松原下ルからは徒歩圏内。
これをもって山中の里帰り上映なんて言ったらチト大袈裟か?!