夏時間の大人たちのレビュー・感想・評価
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逆上がりの狂気
逆上がりを子供と大人の分水嶺と見做すことは本当に短絡的だ。逆上がりができたからといって大人になれるわけもないし、できないからといって子供というわけでもない。私もたかし少年同様、逆上がりを強要してくる体育教師が嫌で嫌でたまらなかった。
とはいえ「だったら大人と子供の分水嶺とは何だ?大人とは何だ?子供とは何だ?」などと詰められたら、それもそれで答えに窮してしまう。それは時代やコミュニティによって大きく差異があるのであって…その…ゴニョゴニョ…明確な答えなどそもそもないんじゃないでしょうか…たぶん…
この曖昧な見解を補強するかのように、本作では大人と子供の間にあるはずの境界線が意図的にぼやかされている。たかしの父親や従姉妹の夏子は、見た目や地位こそ「大人」だが、その行動原理は一般的な「大人」のそれから大きく逸脱している。一方でクラスメイトのともこは逆上がりさえできない「子供」であるはずなのに、大人顔負けの風格を備えている。
果たして何が「大人」で「子供」なのか?
したがって逆説的に、逆上がりが便宜的な分水嶺として機能してしまうのだろう。何もかもが曖昧な世界では、理性の代わりに声がデカくて力が強い原始生物が跋扈する。それゆえ誰もが「逆上がり=子供/大人の分水嶺」という狂った定式を振りかざす体育教師の横暴を制止することができない。
さて、本作は概してそのような「逆上がりの狂気」を批判するものであるのだが、とはいえ真っ向からそれに挑みかかるような戦法は取らない。むしろ本作は「逆上がりの狂気」を際限なく加速させる。すなわち徹底的なアイロニー。この戦法は中島哲也の以降の作品でも採用されている。それが『嫌われ松子の一生』まで来ると、冷笑によっても決して毀損されることのない愛を描き出すという影絵芝居のような芸当さえやってのけるのだから見事としか言いようがない。
閑話休題。
物語のところどころに挿入されるたかし少年の脳内寸劇がアイロニー徹底戦法の好例だ。大人チックな舞台設定にもかかわらず、そこでは逆上がりが唯一の価値として絶対化されている。色っぽい美女が「アタシ、逆上がりできない男なんか嫌いなんだよね」、脂汗の日本兵が「逆上がりもできない者はここで死ね!」などなど。どれもシュールきわまりない光景だが、これこそがまさに「逆上がりの狂気」の辿り着く先なのだ。
さて、いよいよ憔悴しきったたかしは、逆上がり発表会の最中に、逆上がりのできなかったともこと一緒に学校を飛び出してしまう。自分は逆上がりができたにもかかわらず(いや、できたからこそ)だ。
たかしはともこが自分と同様の違和感を抱いていたのではないかと気持ちを高揚させるが、ともこの反応は冷淡なものだった。ともこはたかしを「足遅い」と突き飛ばし、どこかへ去っていってしまう。
夏休み、たかしはようやく逆上がりを成功させたともこを校庭の隅から見つめていた。それから自分の背が3センチ伸びることと、ともこの胸が大きくなることを願うのであった。
このラストシーンをどう解釈すべきかは未だにわかりかねるが、とりあえず彼が逆上がりという他者から押しつけられた規範ではなく、身長の高低や胸の大小といったパーソナルな規範によってものごとを判断することができるようになったことの示唆なのではないかと、とりあえずは信じることにする。
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