「見所はふたつ ひとつめは円谷英二が大映で特撮映画を撮っていること ふたつめは、水の江瀧子が出演していることです」透明人間現わる あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
見所はふたつ ひとつめは円谷英二が大映で特撮映画を撮っていること ふたつめは、水の江瀧子が出演していることです
昭和24年1949年公開、大映作品、白黒映画
日本初の特撮SF映画です
見所はふたつです
ひとつめは円谷英二が大映で特撮を担当していること
彼は1948年3月に東宝を依願退職していていました
彼が正式に東宝に戻るのは1952年2月のことで、都合4年間東宝から離れていました
なので本作は大映作品なのです
というのもその当時東宝の労働争議が激化して仕事どころでなくなり嫌気が差していたとろに、GHQから公職追放の指定を受けた為です
東宝退職後、彼はいろいろな映画会社の特撮の仕事を手がけて糊口をしのいでいます
といっても敗戦後は戦時中に撮っていたような戦闘機が飛び回るような派手な特撮はもう撮れませんから、特撮の仕事といっても天変地異ぐらいなものです
忍術ものとかなら特撮映画を撮れそうなものですが、GHQから仇討ち要素のある剣戟映画は禁止されていたのです
地味で短いものばかりなのでクレジットもでない仕事も多くあったようで困窮したようです
そもそもGHQに公職追放された人ですからスタッフロールに名前をだすのは映画会社にしても遠慮するものがあったのだと思います
日本はまだ占領下だったのですから
大映は円谷英二が、戦時中に東宝から出向して撮影の仕事をしたことがあり、その縁で円谷英二ならでは企画を用意してもらえたということかも知れません
円谷も大映で職を得たいということもあったと思います
本編監督と脚本は安達伸生
本作が監督デビュー2作目
詳しいことはわかりません
おそらく円谷英二より10歳は下の若い監督かと思います
撮影監督の石本秀雄は、円谷英二と同じくもともとは撮影技師でした
年齢は円谷英二の5歳下です
彼は1934年に日活京都撮影所、1941年に大映京都撮影所と渡り歩いていました
円谷英二も戦前の東宝に入る前の1924年から10年間京都にいました
円谷英二は1928年に松竹下加茂撮影所、1932年11月には日活京都撮影所に入社しています
京都を離れて東京に戻ってきたのは、上層部と対立して日活京都撮影所を退社した1934年のことでした
つまりこの二人は戦前の同時期に何年間も京都にいたのです
しかも1934年には二人は日活京都撮影所で僅かの期間同僚だったか、入れ違いだったのです
円谷が33歳、石本は28歳
京都の太秦辺りの映画業界関係者でカメラマン同士ですから間違いなく顔見知りだったと思います
ちょうど最初の「キングコング」や最初の「透明人間」が日本で公開されたころです
円谷英二は当時「キングコング」のフィルムを独自に取り寄せて一コマづつ分析していたそうです
「透明人間」の公開はその数ヶ月あとのこと
戦後にこの二人が再会したなら、
きっと「キングコング」を日本で撮るのはまだ無理でも、「透明人間」の日本版ならやれる、俺達二人で撮ろうや!と大いに盛り上がったに違いありません
特撮の円谷英二の名前は戦時中の「ハワイ・マレー沖海戦」で既に日本中に鳴り響いていましたから大映の幹部も大喜びで、あの円谷英二の戦後本格的復帰作品として企画を通したのでしょう
もしかしたら大映にそのまま居てくれたらと願っていたはずです
だから堂々と冒頭のスタッフロールに円谷英二の名前をデカデカと出したのだと思います
もしそうなっていたら?
ゴジラは生まれていたでしょうか?
ウルトラマンは生まれていたでしょうか?
大いなる特撮の歴史のifです
結局、大映では「虹男」と他2本を撮っているだけで終わります
見所の二つめ
水の江瀧子が映画女優として出演していること
ヒロインのはずの博士のお嬢さんが完全に霞んでしまっています
透明人間の妹の役で、宝塚歌劇団ならぬタカラ歌劇団のスター役です
役柄もあって素晴らしい衣装を常に身にまとっています
昭和24年当時では有り得ないほどの異次元のファションセンスです
しかも男と変わらない高身長です
調べてみると167センチ程度なのですが、戦後直ぐの当時のことですから今の感覚だとプラス10センチの高さに匹敵していたはずです
彼女は1915年生まれ、本作出演当時34歳
正に女盛り、大人の女性の魅力が爆発しています
レビュウショーのシーンは素晴らしいもので白黒なのにカラーを感じます
彼女は戦前は宝塚少女歌劇団に並ぶほどの人気があった松竹歌劇団の第一期生
男装のトップスターで、1930年代は国民的な大スターでした
愛称はターキー
ただあまり舞台が忙しかったのか戦前に映画に主演したのはただの1本だけでした
つまり円谷英二と本編監督の石本秀雄がまだ京都でくすぶっていた当時、絶頂期で映画にもでないスーパースターだったのです
円谷と石本はこの水の江瀧子を迎えていつかは自分で彼女が主演の映画を撮りたいものだと、若かりし15年前に酒を飲み交わしては話していたに違いないのです
本格的特撮映画と憧れのトップ女優を撮る!
若かりし日の夢が叶った訳です
因みに彼女の初登場の劇場のシーン
その神戸の劇場の看板には、「グランドレビュウ・花くらべ狸御殿」とあります
どちらも大映の映画の作品名で前者は1946年、後者は1949年4月の公開作品です
これがあったからついでにという感じで無名監督の映画、それもいわばゲテモノ映画にでてもらえたのでしょう
彼女は戦争直前1年近い米国滞在経験があるのでオリジナルの「透明人間」のコンテンツの価値を知っていたのかも知れません
彼女はその後日活のプロデューサーとなり、石原裕次郎を発掘したりして映画界に多大な貢献をしていくのはご存知の通りです
舞台は1949年現在の神戸
神戸は、洋館のお屋敷とか、宝石店、口髭の悪役というバタ臭いものが似合う街です
関西訛りの登場人物はアパートの管理人だけです
サイドカー
車は無人で走っても驚きの効果が今ひとつでません
バイクでは特撮が難しい
サイドカーなら無人で走る異常さが演出でき特撮も簡単だということなのでしょう
でも1933年のオリジナルの「透明人間」では自転車がスムーズに無人で走って見せていました
この点が円谷英二には悔しかったのだと思います
東宝に復帰してゴジラの次の作品として「透明人間」を選んでいます
その作品ではスクーターを無人で走らせています
蛇足
ラストの透明人間が苦しみだすのは、オリジナル版の透明薬の副作用からの由来だと思われます