「引き寄せ合う孤独。」アメリカの友人 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
引き寄せ合う孤独。
ファースト・ショットから激しい寂寥感を覚えた。そのもの哀しさは物語が進むほど増し、いたたまれなくなる。突然自分の孤独を実感し、いてもたってもいられなくなり、部屋を飛び出し人混みに飛び込んでみても、行き交う人々の誰1人とも繋がっていないことに気づき、より一層孤独感を募らせる・・・、そんな感じの映画だ。白血病で余命いくばくもない男が、家族に残す金のため殺人を請け負う。プロットだけ見るとバードボイルドな男の美学に満ち溢れているように思える。しかし実際は、死を前にした男の自己陶酔の物語だ。原作はパトリシア・ハイスミスの小説、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンが映画史に刻んだ、トム・リプリーという男が“アメリカの友人”として登場する。ヴェンダースとデニス・ホッパーによって作られた全く新しいリプリーは、本作の主人公に死神のように忍び寄る。本作の主人公ヨナタンはカッコいいヒーローではない。第三者から宣告された死をなかなか受け入れられず、医師にしつこく詰め寄ったり、金目当てで犯した殺人に怯え、危機をリプリーに救われてからはリプリーの言いなりになるだけ。ヨナタンとリプリーの関係は、決して「友情」ではなかったと思う。互いの反感から芽生えた興味、リプリーが仕掛けたゲーム。しかしそこに何らかの繋がりがあったことも確かだ。いよいよ死が近いと悟ったヨナタンは、家族の“ため”に罪を犯す。そのため、妻に大きな秘密を作ることになり、残された時間を家族といるよりも、共犯者であるアメリカの友人と過ごすことが多くなってしまう。残された家族のためという大義名分に酔って家族をかえりみなくなっていることに気付かない男・・・。妻から見れば、金よりも残された時間、手を取り合って寄り添っていられた方がなんぼかマシだったのではなかろうか?本作に漂う寂寥感は、ヨナタンとリプリーが抱える“孤独”から来ている。愛する家族がいても、秘密を持ってしまったがためにすれ違う心。大きな屋敷に1人住み、裏社会でしか生きられない男の荒んだ心。この孤独感が互いを引きよせ、果ては暴力と悲劇に突き進む。セピアがかった淀んだ映像の中で、時折ハッとさせられるほどの鮮やかな映像(青い麦畑とか、碧い海とか)が哀しみを深める。ただ1つの救いは、ヨナタンが最終的に妻の元へ戻ること。最後の一仕事を手掛ける前によくぞ妻にヨナタンを迎えに来させてくれた。ここで妻が来なければ、ヨナタンはリプリーの言いなりになったまま、精神が麻痺した状態で死んでいったかもしれない。しかし妻が登場したことによって、ヨナタンの精神は一時的にクリアーになり、リプリーにささやかな仕返しをするまでになる。残されたリプリーは、孤独に生きるしかない、彼に群がる人は今後沢山いるだろうが、誰1人として真の友人となる人は現れないのだ・・・。