「恥の上塗り」田園に死す 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
恥の上塗り
自らの才能の越境性を誇示したいがために異種業参入する傲慢な態度の惨憺たる結果が本作である、ととりあえずは結論できるだろう。全編にわたって本当にしょうもなかった。
寺山修司といえば伝説的演劇集団・天井桟敷を率いた劇作家であり、他方詩人としても知られる。今でいうところのマルチクリエイターだ。演劇・詩の領域における彼の位置付けに関しては寡聞にして存じ上げない。ただ、映画監督としては非常に悪質である。
本作が褒めそやされる一番の要因はシュールレアリスティックな画面構成だろうが、決定的に瑞々しさが欠けている。理由は簡単で、画面を組成するモチベーションが寓意パズルと素朴なデペイズマンという二つの系列に分裂しているからだ。
たとえばサーカスの風船女をめぐる視覚情報はすべて性的営為に還元できる。風船女の浮気相手が風船のポンプを上下させると風船女はよがり声を上げる。一方で主人公の少年がポンプを上下させても風船は膨らまず、風船女は素っ気ない態度を取る。
或いは、主人公の部屋に立てかけられた無数の時計は、少年時代の主人公の生が現在の自分の回想によっていくらでも曖昧に捏造されうるフラジャイルなものであることの寓意だ。
他方、そこにまったく寓意を読み取れない、つまり単なるデペイズマン的な射程しか持ちえないオブジェクトも多々ある。田園に突き刺さった標識や土手を歩く稚児の群れなどがその好例だろう。
画面内に奇妙なオブジェクトが跳梁する作家といえばまず真っ先に鈴木清順の名が挙げられるが、しかし彼の場合、それらはすべて素朴な視覚的快楽を誘発するものとして配置されている。言うなればすべてが無意味である。しかしそうした表層への徹底によって彼の映画は類稀なる強度を獲得している。
一方、本作は素朴な視覚的快楽を追求するでもなく、かといって精緻な寓意パズルに徹底するでもない中途半端な様相を呈している。そうした分裂の素晴らしい成果が本作における画面の停滞ぶりだといえる。
輪をかけて酷いのは短歌やハイコントラストによってその決定的な汚点をあさましく隠匿しようとしている点だ。恥の上塗りとはまさにこのこと。短歌それ自体の出来については無学な私に言及の権利はないが、少なくとも鈴木清順『ピストルオペラ』の劇中で不意に挿入される「屍体は私だけのもの」の文言に匹敵するような衝撃は一切感じなかった。
画作りに関してはまったくもって面白味のない本作だが、物語も負けず劣らず面白くない。回想する主体と回想される客体が同水準で相互嵌入を繰り返すという物語構造に今更新鮮味はないし、「所詮これは映画なんだから」というあまりにも情けない予防線を張る軽率さも腹立たしい。賢しらぶってボルヘスなどを引用したところで、ボルヘスの簡潔さとの対比上に本作の装飾過多が浮き彫りになるだけだ。
映画を見てこれほどまでに罵詈雑言を並べ立てたくなったのは久々かもしれない。Not for meとかじゃなくてこれは明確にダメな映画だと思う。