「ソープランド・自由の女神」てなもんやコネクション 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
ソープランド・自由の女神
ひょんなことから日本旅行にやってきた香港人の九扇と彼をガイドする自称旅行会社職員のクミ。しかし行き先は西成だの浅草だのといった貧乏臭い下町ばかり。特に西成の描写はこれでもかというくらいたっぷりで、カメラに追い回される被写体も演者などではなくホンモノの西成区民だ。
「撮らんといてーや」と恥ずかしそうに笑うオッサン、昼から酒をかっ喰らうオッサン、手を叩いて陽気に歌い出すオッサン、西成労働福祉センターに長蛇の列を作るオッサン。幻想的に誇張されたジャポニズムと下町的リアリズムがカオスに入り混じり、水と湯を交互にぶっかけられているかのようなトランス感覚に陥る。
そうかと思えば今度はクミが香港に渡る。クミはしばら水上の無法地帯に浮かぶ九扇のバラックハウスで悠々自適の生活を送るが、日本人実業家の矢崎という男がやってきて彼らに立退を要求する。
水道もガスも止められたバラックハウスが少しずつ朽ちていくシーンはとても印象的だ。映し出される家具や道具をよく見てみると、ナショナルとかディズニーとかいった先進諸国の刻印が記されている。しかしそれらは今や腐り落ち、廃液を垂れ流している。ふだんは問題なく使えていたはずの先進諸国の諸製品が、本当の危機にあってはまったく役に立っていない。
九扇一家をめぐるこうした状況は、そのまま西成や浅草を取り巻く状況とも符合する。西成も浅草も巨大資本による区画開発でダンボールハウスや旧来の露店が追い払われかけている。ふだんあれだけ大きな顔をして街を席巻するマクドナルドやディズニーランドは、こうした状況に対してはダンマリを決め込んでいる。
言わずもがな、九扇一家は歴史に翻弄される香港そのものだ。大国に奪われ、そうかと思えば譲渡され、常に主導権を持つことを封じられてきた香港。つまり本作において西成(浅草)と香港は被虐者という共通項を得て密接に結ばれ合うわけだ。
西成や浅草を経たうえで香港へと平行移動する迂回的なストーリー構成はかなり巧いと思う。というのも本作が邦画である以上、香港という遠く隔たれた国の現況について直接的に連帯することは難しいからだ。そこで、西成や浅草といったナショナルな問題圏を経由したうえで香港へ到達する。そうすることで我々は香港をめぐる情勢をアクチュアルな自分ごととして捉えることができる。
いっときは自宅を売却しかける九扇一家だったが、心機一転してどうにか矢崎から自宅を守り抜こうと奮闘を開始する。不条理を不条理で跳ね返せるのがフィクションの醍醐味だと言わんばかりに妙策・妙案が飛び交い、その結果矢崎は九扇一家の土地から身を引かざるを得なくなった。5歳くらいのガキが矢崎たちの口座をコンピューターハックするあたりのくだりは本当に笑えた。
とはい物語は完全に荒唐無稽な夢物語に終わらない。終盤の矢崎とその付き人の龍さんのやりとりはかなり深刻だ。飼っていた鳥を空へと放ったと言う矢崎。しかし龍さんは、長らく人の手で飼われていた鳥は野生で生きていくことができないのだと言う。2022年、香港は今なお危機的状況にある。中国の香港国家安全保護法に反対する人々が銃で撃たれたり逮捕されたりしている。二人の何気ない会話はこうして現実の歴史に暗い影を落としているのだ。
自由の女神と摩天楼が聳え立つニューヨークのイラストの上が下品なネオンサインまみれの大阪チックな落書きが施されるラストショットはまさに完璧としか言いようがなかった。こういう映画はそうそう拝めるものではない。
ファッキンアメリカ。俺たちはここにいる。