ツィゴイネルワイゼンのレビュー・感想・評価
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【”さあ、約束通り御骨を頂きましょう。参りましょう・・。”耽美幽玄、幻想優美なる極彩色溢れるエロティシズムに魅入られる幽霊譚。凄い監督が日本にはいたのであるなあ。嗚呼、クラクラします。】
ー 今作のフライヤーは、”鈴木清順生誕100年記念”として4Kデジタル版が上映された時に手に入れていたが、観賞機会を逃していた。
不覚である。-
■士官学校の教授・青地豊二郎(藤田敏八)と、元同僚で無頼の友人・中砂糺(原田芳雄)は、旅先の宿で弟の葬式帰りだという芸者・小稲(大谷直子)と出会う。
1年後、結婚したという中砂の家を訪ねた青地は、新妻の園(大谷直子)を見て驚く。
彼女はかつて旅先で呼んだ芸者・小稲と瓜二つだった。
だが、園は中砂糺が持ち込んだスペイン風邪により死に、その後窯に小稲が入るのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・粗筋は上記の通りだが、この作品はストーリー展開よりはその屹立した唯一無二の世界感を味わうものだと思う。
・真っ赤な蟹が、劇中大写しになったり、青地の妻周子(大楠道代)が、中砂糺の眼の中に入った塵を下で舐めとるシーンや、周子が腐りかけの水蜜桃を手を濡らしながら食べるシーンなど、観ていてクラクラする。
・ここからは、推測だが無頼の中砂糺は、青地の妻周子と関係を持っていたのだと思う。でなければ、最後半彼の日粒種の幼き豊子が亡き中砂糺と会話し、それを聞いた小稲が、中砂糺が青地に貸していた難解なドイツの本を何度も取りに来る理由が付かない。
・だが、今作は後半に進むにつれ、生と死の境界が曖昧になっていく。誰が生者で誰が死者なのか。
・随所で描かれる、盲目の3人男女の姿もインパクト大である。彼らの姿からも生と死が伝わって来るからである。
<今作は、難解ではあるが観ていて、とても面白い。それはストーリーを凌駕する画の構成と、色彩と濃密な人間関係が様々な事を観る側に想起させるからであると思う。>
大正美学の時空間を舞台に描かれた生の快楽とその果ての死者が生者を左右していく奇怪な世界
1 原案小説『サラサーテの盤』のストーリー
内田百閒は漱石全集の校閲者であり、現代日本語の基礎作りに携わったエラい人として知られるが、晩年、芸術院会員に推薦されそうになると「イヤダカラ、イヤダ」とメモに書いて断わったひねくれ者でもある。映画界のひねくれ者、鈴木清順が監督復帰第2作として百閒の短編を原案にした作品を撮ったのも、似た者同士の親近感を抱いたためだろうか。
百閒作品はエッセイが有名な一方、小説では幻想恐怖小説を得意とし、『サラサーテの盤』は意味がよく分からないくせに怖いという奇妙な読後感を残す。
友人の中砂が亡くなった後、その後妻おふさが何度も夜遅くに語り手宅を訪れ、生前貸していた本やレコードを返却するよう催促にくる。それは先妻の遺した幼い娘が半醒半睡のまま、しきりに亡き夫と話をして、それを伝えてくるからだという。
サラサーテ自奏『ツィゴイネルワイゼン』のSP盤を返しにおふさ宅を訪ねると、彼女は中砂が先妻に入れ込んだままあの世に行ってしまい、自分はほったらかしだと奇妙な不満を口にする。そして、せめて娘だけは夫に渡さないと言う。
返されたレコードをかけ、やがて流れてきたサラサーテの声に、おふさは激しく拒絶の言葉を述べ、娘を隠そうと慌てて探す。
作品の核は死者が常に現世に目を光らせ、口出しして左右さえしている不気味さにあると言えるだろう。(文学的にはモダニズムの実験的小説という評価もあるが、それは脇に置いておく)
2 映画作品について
(1) 原案小説との相違
原案小説には旅芸人の話とか、語り手と中砂の夫婦交換紛いの話や、骨がどうとかは出て来ない。映画は、例えば狐に化かされる『短夜』等の他の作品も交えて、これをかなり膨らませていることがわかる。
とはいえストーリーの中軸は、死者が死んだ後も生者を操っている不気味さにある点で同じ。むしろそれを強調するために、中砂のキャラクターを社会常識の枠内に収まり切れないエキセントリックなものとしている。
また、原案ではかすかに匂わせているだけの語り手・青地の妻と中砂との不倫関係を前面に出して、友人夫婦同士で夫婦交換紛いの関係に陥らせてしまったり、さらに中砂の娘の実の父親は青地だと仄めかしたりしている。これにより主人公は死後の中砂の非難の視線を浴び、余計に恐ろしくなるという仕掛けである。
(2) 映像と世界観に見る清順の意図
ヌーベルバーグの一人に数えられる清順の作品でストーリーを云々するのはあまり意味がない。それは単なる枠組みに過ぎず、描かれた核心は別のところにあるからだ。
では、清順の意図は何か? 小生は、映像的には「レトロで贅を尽くした大正美学に包まれた時空間を創造すること」、観念的には「この世は食欲と性欲の快楽を追い求める人に満ち、男女関係に起因する諍いも絶えないが、実はあの世と境界が曖昧で死者が生者を操っている――そんな世界観を描くこと」にあると受け止めた。
①レトロで贅を尽くした大正美学に包まれた世界
本作はSPレコードに蓄音機の針を落とし、雑音だらけの『ツィゴイネルワイゼン』を聴く場面から始まる。場所は中砂邸の書斎、中砂は和服、青地はツイードのスーツで、コニャックを啜り、テーブルの前には洋書をぞんざいに並べた書棚がある。それらの落ち着いた色調と、大道具、小道具の趣味の良さ。
青地邸も見事な洒落た洋館で、壁には絵画が飾られ、妻周子はモガ風の服と帽子を身に纏う。中砂の妻園は対照的に和服で通し、この和洋混在がそこはかとなく大正モダニズムのレトロな雰囲気を醸し出す。
社会の上層部ではこうした贅を限りの生活を営んでいるのに対し、最下層の盲目の旅芸人3人組は垢と脂に塗れた身体にボロボロの和服を着て、琵琶を奏でながら門付けして歩く。歌うのは直近の日露戦争時の『戦友』を替え歌にした春歌で、若い女芸人は下着も履かない下半身を、歌に合わせて開脚して局部を見せつつ生計を維持している。彼らも大正の大衆社会における、最も淫靡で下世話な美学を纏っているのである。
これら全体で「大正美学」の時空間を創出し、これを映像として定着させること。それが清順の第一のテーマだったのではないかと思う。
②食欲と性欲の快楽を追求するなか、三角関係に起因する男女の諍いが絶えないこの世
冒頭のサラサーテのSP演奏後、映画は電車内の旅芸人たちの食事シーンに移る。彼らはお握りを喰らい、青地はウイスキーを呑んでいる。
その後すぐに鰻の蒲焼を肴に日本酒を呑む青地と中砂。そこに小稲が加わる。
次いで割烹料理屋の一室の青地と周子にフラッシュバック。朱塗の上品な小鉢が大きな食卓に夥しく並び、それらに盛られた様々な料理に盛んに箸を運ぶ健啖家の青地夫妻。
中砂の結婚後は、ぐつぐつ煮立つ牛鍋と山盛りの千切り蒟蒻を囲む中砂夫婦と青地。
露天の長椅子に置かれた天婦羅蕎麦をぞんざいにたぐりながら日本酒を呑む青地と中砂。
腐りかけの水蜜桃を啜る周子…。
他方、周子の妹は不治の病で入院しているが、生に執着するかのように「兄さま、鱈の子お食べになりましたか」と問いかけながら死んでいく。中砂の前妻園の最後の言葉も「引き出しの千切り蒟蒻を青地さんに差し上げて」だった。
これらは生の快楽を食欲によって描いているシーンである。
生の快楽の別の側面は性欲である。本作では男女の関係は、つねに男2人女1人の不安定さを孕む三角関係として描かれている。
初めに登場する三角関係は門付けして歩く旅芸人だ。一見老爺と子2人かと思いきや、実は老人と若い女が夫婦で、若い弟子の男は冷遇されている。ところが門付けして歩く道々、力関係が変化してしまい、若い男女が夫婦になり、老爺は除け者にされるようになる。その行き着く先は戦いか妥協か――という三角関係の基本テーマが彼らで提示される。
次に描かれるのは中砂の妻園と青地の不倫だ。
中砂に相手にされない園は心を病んだ挙句、訪れた青地をキツネが穴に誘い込むように自宅に引き入れて、キツネが化かす如く青地と肉体関係を結んでしまう。清順の性的表現は官能的ではないが、意外性や美しいシーンの積み重ねで面白いものとなっている。
中砂と青地の妻周子との不倫はキツネの化かし合いではなく、子供の追いかけっこを洋館中で繰り広げた挙句に、花粉アレルギーに病んだ身体を抱くという独特の面白い性的シーンになっている。
こうしてスワッピング状態になったことを中砂はいち早く感づいており、だから園の生んだ娘に青地の名前から一字取って「豊子」と名付ける。それは彼の弱みを握っているという暗黙の威迫であり、やがてその弱みに付け込んで「取っ換えっこしようか」と持ちかけるのである。それは夫婦交換のこととも骨の交換とも、さらに両方とも受け取れるが、弱みを握られた青地ははっきりした拒絶ができず曖昧なまま受け入れてしまう。
前半部分はこうして食欲と性欲の追求と、それに伴う三角関係の懊悩が描かれた、いわば「この世パート」とでもいうべきものだろう。
③この世とあの世の曖昧な境目
「この世パート」の半ば、園と青地はアーチ橋の上で花火を見物する人々を目撃する。これはもちろん「我々の生のような花火」と登場人物の呟く芥川龍之介『舞踏会』の引用である。この世は花火のような一瞬の煌めきに過ぎないと言っている。中砂、周子、青地、園の4人が夜中に節分の豆撒きをするシーンも同じ意味合いに違いない。
映画は、砂丘で身体じゅうを縄で縛られた中砂のシーンから、後半の「あの世パート」に移行する。縄で縛られているのは、彼のように本能のまま生きる男にとって、この世はルールで雁字搦めの棲み難いものだからだ。
中砂の死後、後には後妻の小稲と豊子が残されるのだが、何故か小稲はしばしば夜に青地邸を訪問して、中砂の貸していたドイツ語辞典や語学の参考書を返せ、レコードを返せと取り立てに来るようになる。この辺はほぼ小説の通りであり、いわば死んだ中砂が娘を通じて小稲を操るという不気味な成り行きである。
そして最後、『ツィゴイネルワイゼン』のSPからサラサーテと思しき人物の声が聴こえるや、小稲は激しく動転して娘を死者から隠そうとする。しかし、豊子はもはや中砂の使者と化しており、あの世へと青地を誘っていく。
この世とあの世の境目ははっきりせず、死者は生者を見つめ、左右さえしているのだ――そうした不気味な世界観が描かれているのである。
その根底に死者の権威で虎の威を借りる左右の政治勢力や、自分を冷遇した映画界の各方面への皮肉がある…と言ってはこじつけに過ぎるだろうかw
「幻想的な生」と「現実的な死」
鈴木清順監督はもちろん有名だが作品は観た記憶がない。もしかしたら初めての鑑賞かもしれない。なので清順ワールドとか言われてもまだちょっと分からない。
それでも注意しなければならない部分はすぐに分かった。
一つ目はものすごく展開が早いこと。キャラクターの心情変化が一瞬なので見逃すとわけが分からなくなりそうだ。ゆったりしている作品のようで全くゆったりしていない。隙間がなくびっしり詰め込まれていたように感じた。
二つ目に、見えている映像の多くが現実ではないことだ。現実から幻想に入る境目がなく、実に惑わせてくれる。この惑わされる感覚が面白味なのだが分かりにくさもまた抜群なのだ。
これらが鈴木清順監督の特徴なのか判断出来ないけれど、そこらの、物語を紡ぐだけの映画監督とは違うなとは感じた。「映画監督」として有名になるだけはある。
まあ一般的な娯楽作を好む人には不評そうたが。
さて内容についてたが、まずは印象的なことから書こう。
まず、赤い色。レトロな雰囲気の中に表れる赤は嫌でも目につく。
赤は血の色。血が骨に染み込んでピンク色になる話からも「死」を連想させる。
次に、何かを食べているシーンが多いこと。食べるというのは「生」を表すメタファーとして使われることが多い。
このことから「死」と「生」が対になった物語であると分かる。「死」は中砂、「生」は青地。
他の登場人物と比べて中砂の「食べる」場面が極端に少ない、もしかしたらなかったのも印象的。「死」を象徴する中砂は食べないのだ。
一方で青地はよく食べる。過剰なほどに。生きることに対する強い執着を感じる。
中砂は自由奔放に生きる。そのことを青地は少なからず羨んでいるようにみえる。
そのせいか青地はいくつかの妄想を抱くことになる。
ツィゴイネルワイゼンのレコードを聞き取ろうとした中砂が現実の音を求めるのに対して、青地はありもしない出来事、ありもしない音を聞こうとしている。ここでもまた中砂と青地は対になる。
現実的な死を体現する中砂と幻想的な生を体現する青地。
「死」は「生」がなければ存在できないし「生」があればいつかは「死」が訪れる。
中砂と青地はコインの表と裏のように二人で一人であるかのようだ。
そしてラストシークエンスを見てみると、この作品は最初からずっと死の間際に見た青地の幻覚だったのかもしれないと思える。
幻想に生きる青地に訪れた現実的な死は、中砂と交わした「骨をやる」という約束が果たされ、交換によって一つになったのかもしれない。
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