「「幻想的な生」と「現実的な死」」ツィゴイネルワイゼン つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
「幻想的な生」と「現実的な死」
鈴木清順監督はもちろん有名だが作品は観た記憶がない。もしかしたら初めての鑑賞かもしれない。なので清順ワールドとか言われてもまだちょっと分からない。
それでも注意しなければならない部分はすぐに分かった。
一つ目はものすごく展開が早いこと。キャラクターの心情変化が一瞬なので見逃すとわけが分からなくなりそうだ。ゆったりしている作品のようで全くゆったりしていない。隙間がなくびっしり詰め込まれていたように感じた。
二つ目に、見えている映像の多くが現実ではないことだ。現実から幻想に入る境目がなく、実に惑わせてくれる。この惑わされる感覚が面白味なのだが分かりにくさもまた抜群なのだ。
これらが鈴木清順監督の特徴なのか判断出来ないけれど、そこらの、物語を紡ぐだけの映画監督とは違うなとは感じた。「映画監督」として有名になるだけはある。
まあ一般的な娯楽作を好む人には不評そうたが。
さて内容についてたが、まずは印象的なことから書こう。
まず、赤い色。レトロな雰囲気の中に表れる赤は嫌でも目につく。
赤は血の色。血が骨に染み込んでピンク色になる話からも「死」を連想させる。
次に、何かを食べているシーンが多いこと。食べるというのは「生」を表すメタファーとして使われることが多い。
このことから「死」と「生」が対になった物語であると分かる。「死」は中砂、「生」は青地。
他の登場人物と比べて中砂の「食べる」場面が極端に少ない、もしかしたらなかったのも印象的。「死」を象徴する中砂は食べないのだ。
一方で青地はよく食べる。過剰なほどに。生きることに対する強い執着を感じる。
中砂は自由奔放に生きる。そのことを青地は少なからず羨んでいるようにみえる。
そのせいか青地はいくつかの妄想を抱くことになる。
ツィゴイネルワイゼンのレコードを聞き取ろうとした中砂が現実の音を求めるのに対して、青地はありもしない出来事、ありもしない音を聞こうとしている。ここでもまた中砂と青地は対になる。
現実的な死を体現する中砂と幻想的な生を体現する青地。
「死」は「生」がなければ存在できないし「生」があればいつかは「死」が訪れる。
中砂と青地はコインの表と裏のように二人で一人であるかのようだ。
そしてラストシークエンスを見てみると、この作品は最初からずっと死の間際に見た青地の幻覚だったのかもしれないと思える。
幻想に生きる青地に訪れた現実的な死は、中砂と交わした「骨をやる」という約束が果たされ、交換によって一つになったのかもしれない。