「血染めの長槍」血槍富士 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
血染めの長槍
山中貞雄『人情紙風船(1937)』と川島雄三『幕末太陽傳(1957)』を彷彿とさせる「時代劇×群像劇」の隠れた名作。とにかくどこに行ってもDVDがないのではるばる渋谷のTSUTAYAまで出かける羽目になった。
本作が(というか上記の3作が)単なる出来合いのヒューマンドラマよりもよっぽどメモラブルなのは、喜劇の中に悲劇を織り込む試みを違和感なく成功させているからだろう。
本作では槍持ちの権八を中心にめいめいの人間模様が群像劇として展開されていくが、それらの基調を成すのは性善説的なヒューマニズムだ。
身寄りのない少年の動向を絶えず気にかける権八、泥棒を発見したという子供の話を疑いなく受け入れて捕物に協力する周囲の大人たち、身銭を切って他人の娘を女衒から買い戻す藤三郎、侍社会の差別的な主従関係の有り様に疑義を呈する権八の主君。
それらはモノクロの映像の中に温かな血液を感じさせてくれるようなヒューマニスティックな人間として描かれている。
しかしながら一方で『血槍富士』などという物騒なタイトルからもわかるように、この映画はただのヒューマンドラマに終始しない。
終盤、権八の主君はもう一人の家来である源太を酒屋に連れ出す。主君は差し向かいで日本酒を傾けながら先の主従関係論を開陳する。
するとそこにいかにもガラの悪い侍たちが三々五々連れ立ってやってくる。侍の一人が源太に向かって「下僕の分際で主君と酒を交わすなど」と悪意を吐き散らす。案の定喧嘩が勃発し、2人は侍たちに切り捨てられてしまう。
川辺にいた権八は主君の窮地に急いで馳せ参じるも、時すでに遅し。彼は復讐の鬼となり5〜6人の侍たちを長槍一本で圧倒する。
結局、権八の行為は主君の敵討ちという名目で処罰を免れたが、彼の表情には以前のような人情味はもうなかった。坂道の稜線に向かって一度たりとも振り返ることなく、一人ぼっちで歩いていく彼の背中。それを冷酷な俯瞰構図で捉え続けるカメラ。このとき、我々は喜劇の内側に徐々に織り込まれていた悲劇をアクチュアルに体感する。
喜劇というとっつきやすい間口から針のように細く鋭い悲劇へのシームレスな転換。しかしそれはジャンプスケアのように唐突なものではなく、むしろ初めから埋め込まれていたものだ。
我々はとりとめもない喜劇に乗っていたつもりで、実はシリアスな社会問題や人間哲学を踏んづけていたのだ。それは「起きた」のではなく「あった」のだ。それに気がついたとき、笑いは実感覚を伴った深い反省へと変わっていく。それも、笑ったぶんだけ。(これは言わずもがな、上述の『人情紙風船』と『幕末太陽傳』にも共通している)。
そういえばコッポラ『地獄の黙示録』もTHE・ハリウッド!といった感じのド派手なアクションスリラーに始まるものの、ベトナムの川を遡上していくにつれて問題意識が徐々に内向的・思弁的な領域へと沈み込んでいく、という不思議な転換を遂げる映画だった。
とはいえ『血槍富士』は『黙示録』ほど受け手を置き去りにはしない。ラストシーン、浮浪児の少年は槍持ちの権八に「ぼくも連れてってよ」と懇願する。しかし権八は「槍持ちなんかになっちゃいかん」と少年を峻厳に諭す。
少年は去りゆく権八の背中に向かって棒切れ(=少年にとっての「長槍」)を投げ捨て「バカヤロー!」と叫び、泣き散らす。
少年には権八の胸中に巻き起こったカタストロフィが、ひいてはこの映画が喜劇であることをやめ、明確な悲劇へと転換してしまったことをうまく理解できない。だからそのような態度に出ざるを得なかったのではないか。
我々は少年の「裏切られた」という素朴な悲しみにまず共鳴する。そこから画面に大写しにされた道を目で辿り、その稜線に消え去った権八の背中に、そしてその胸中にも想いを巡らせる。このように「段階を踏ませてあげる」的な優しさが本作にはある。そこがいい。
また、終盤の殺陣シーンは所々チープな箇所はあれど、きわめて迫力に溢れている。黒澤明『七人の侍』やペキンパー『ワイルドバンチ』のような、恐怖と躊躇と覚悟がグチャグチャに混じり合った泥臭さ。まあ、公開年次を鑑みるにおそらく『七人の侍』からインスピレーションを得たのだとは思う。