砂の器のレビュー・感想・評価
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経費で遠出するのにワクワク感が隠せない丹波哲郎がいい
時間ができたので、ちゃんと観たことがなかった名作を観てみました。
結構脚本には無理があるなあ。汽車の中から、シャツを紙吹雪のように捨てる女、それに偶然居合わせた記者、その記事を偶然読んだ若い刑事、とか。う〜ん。
丹波哲郎が演じた今西刑事が好感。遠出するのが好き、経費で行くとソワソワする、手柄たてたい、でも独り占めはしない、涙もろい。。。めちゃくちゃ人臭いキャラ。これをクールな二枚目イメージの丹波哲郎が演じたからこそ、そこにギャップが生まれ、好感のもてる登場人物が出来上がった。
しかし、凄い役者達が出ていたんだなあ。
丹波哲郎、加藤剛、渥美清、緒方拳、加藤嘉、島田陽子、森田健作、、、。亡くなった元駐在さんが緒方拳だった時にはその豪勢さに驚いた。
クライマックスシーンが秀逸。
加藤剛の演奏シーンに合わせ、幼い頃から現在に至るまでの描写が展開される。音楽の盛り上がりと場面がシンクロする。斬新だ。
※島田陽子美しい。
※渥美清が演じる映画館の支配人は、寅さんに見えて仕方がない(笑
もろく崩れさるもの
長く重く複雑な砂の器の映像化は難産で、ウィキにいくつかの逸話が記されていたが、なかんずく山田洋次の回想が興味深かった。
橋本忍とともに脚本を担当した山田洋次は──、
『「最初にあの膨大な原作を橋本さんから「これ、ちょっと研究してみろよ」と渡されて、ぼくはとっても無理だと思ったんです。それで橋本さんに「ぼく、とてもこれは映画になると思いません」と言ったんですよ。そうしたら「そうなんだよ。難しいんだよね。ただね、ここのところが何とかなんないかな」と言って、付箋の貼ってあるページを開けて、赤鉛筆で線が引いてあるんです。「この部分なんだ」と言うんです。「ここのところ、小説に書かれてない、親子にしかわからない場面がイメージをそそらないか」と橋本さんは言うんですよ。「親子の浮浪者が日本中をあちこち遍路する。そこをポイントに出来ないか。無理なエピソードは省いていいんだよ」ということで、それから構成を練って、書き出したのかな」』
(ウィキペディア「砂の器」より)
──と語ったそうだ。
言説どおり、映画砂の器は父子の浮浪者のイメージが常につきまとう映画になった。
病におかされた本浦千代吉(加藤嘉)が子を連れて行脚の旅に出る。当時ハンセン病は不治の病とされ、徹底した隔離・排除がなされていたので、行脚には世捨てと祈りの両義があったと思われる。
映画内では乞食という古い呼称が使われる父子は、文字通り行く先々でおめぐみに頼りながら、ぼろぼろになって津々浦々をあてもなくさまよい歩く。
薬や治療が確立されていなかった時代、ハンセン病は外見の変貌が人々から怖れられた。皮疹をもたらし兎眼から角膜障害へいたり激痛、脱毛、潰瘍、手指と足指は摩滅するかのように変形していく。
それは創作のなかでタタラ場の病者や大谷吉継のように描かれてきたが、ハンセン病の言語化可視化の原始は広く認知された砂の器と映画砂の器であったにちがいない。
その暗いハンセン病のイメージがつきまとうことで映画砂の器は推理ものでありながら深く黒々とした暗渠を見つめるような禁忌的重々しさをともなった。
また物語においてハンセン病はそれを差別しなかった者の善や正義を表象する機能を併せ持つ。タタラ場の病者を保護したのはエボシ御前であり大谷吉継を庇ったのは石田三成であり千代吉ら父子に慈悲をもって接したのは三木謙一(緒方拳)であった。
ただしハンセン病や行脚の父子がでてくるのは半ば過ぎからで、前半はずっと「カメダ」の謎を追う丹波哲郎が描かれる。
砂の器の推理の中枢は方言であり、方言が主役のドラマと言っていい。
松本清張が砂の器の着想としたと思しいエッセイがウィキに紹介されていた。
『雑誌『旅』1955年4月号に掲載されたエッセイ「ひとり旅」で、著者は以下のように記している。「備後落合というところに泊った(中略)。朝の一番で木次線で行くという五十歳ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に眼が醒めた。笑い声一つ交えず、めんめんと朝まで語りつづけている」。この経験が、のちに本作の着想に生かされたと推定されている。』
(ウィキペディア「砂の器」より)
筋が豊富かつ複合的で、推理が主知的で、ストーリーが独創的で、登場人物が多彩で、そこにハンセン病というトラウマチックな重みが加わり、こういうのを書ける人が今いるのだろうかと思わせる松本清張の凄みを感じる映画だった。
その凄みを色づけをせずに仕上げた野村芳太郎もさることながら、わざわざプロダクションをつくって書いた橋本忍の執念の映像化だったと思う。
ただし後半の演奏会描写がくどかった。
「宿命」は砂の器のために予算を投じて書き下ろした楽曲なので、大フューチャーしたい理屈はわかるが、加藤剛が演じるピアノ兼指揮者とオーケストラが、まさにオーケストラルな盛り上がりを構成するのは、大仰さと古さを感じた。悲愴な楽曲をバックに、悲劇的回想がフラッシュバックされるのも、今見ると大時代的だった。IMDB7.3。
日本の心
山や海などの日本人の原風景が映し出された長い回想シーンとテーマ曲が観客の感情を揺さぶる様に制作されていて、これが日本人の心を鷲掴みにしたのだと思います。制作側は策士ですね。
日本人は、何故だか苦労話が大好き。人生とは理不尽であり苦しみが絶えないもの。でもその苦しみに耐え忍ぶのを美徳とするのが日本の心なのです。欧州や欧米の作品であれば、もっとストレートに“おいコラ、ハンセン病患者を差別してんじゃねえぞ”ともなりそうですが、日本人は本作みたいな表現が合うのかな。
本作の理不尽はハンセン病と貧しさでしたが、公開時の観客は戦争体験者も多くいたと思います。あの第二次世界大戦・太平洋戦争は、ほとんどの日本人にとって、理不尽極まりないことです。被爆者、戦争孤児、沖縄や在日の方への差別や偏見も多くあったと想像します。観客は登場人物の人生に自らの理不尽な戦争体験を重ねて鑑賞し、多くの共感を呼んだのだと思いました。
「宿命」に集約される情感的作品
丸の内TOEIで開催中の『昭和100年映画祭 あの感動をもう一度』企画の3本目。本作は配信で観たことがあるものの、劇場では初めての鑑賞でした。
一応刑事物、推理物に分類されるものの、主題は犯人である和賀英良(加藤剛)の人生そのもの。そして彼が作曲した「宿命」という曲が、自らのピアノとオーケストラで演奏される調べに乗って流れる回想シーンこそが見所中の見所でした。「宿命」は、本作の中心に常に存在しており、やはり劇場で味わうにひと味もふた味も違いました。
一方、推理物として観ると、前半部の今西刑事(丹波哲郎)らによる日本中を歩き回る捜査は中々結実せず、後半になって犯人が特定されて逮捕状が発行されて行く過程はかなり省略されている感がありました。捜査会議で和賀英良の人生を振り返り涙する今西刑事の姿は、こちらにも涙を誘うものであり、またこの演出により、映画としてのテンポは担保されているものの、推理物としてはちょっと不完全燃焼に思えなくもありませんでした。
それにしても俳優陣は超豪華であり、また野村芳太郎監督、橋本忍と山田洋治の脚本、さらには原作が松本清張と、隅から隅までオールスターで作られており、ややもすれば船頭多くしてとなるところを、きちんと統合された作品に仕上げた野村監督の手腕は流石と感じざるを得ませんでした。
あとちょっと気になったのが、終盤の捜査会議で、刑事部長らしい人が「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と読んだこと。ん?これって誤読じゃないのかしらと思ってググったところ、この「じゅんぷうまんぽ」問題は結構有名なようで、いろいろなコメントが確認できました。結論とすると、映画制作当時は「じゅんぷうまんぽ」という読みも容認されていたようで、「じゅんぷうまんぱん」が正しいとされるようになったのは最近のことであるらしいとのことでした。これは意外なお話でした。
そんな訳で、本作の評価は★4.6とします。
砂で造ったもののように儚い
序盤に 警部補の今西栄太郎(丹波哲郎)と 巡査の𠮷村弘(森田健作)の二人が 出張(という名目の旅)をしているシーンがあり、終盤に 本浦千代吉(加藤嘉)と 本浦秀夫(春田和秀)の二人が、とある理由で(それは核心に迫る話なので ここでは秘密だが)旅をしている。
旅で始まり 旅で終わる作品なのだ。せっかく遠くまで行っても無駄だったり、結果的に残らない砂で造ったもののように、人生のひと時の幸せと儚さが描かれている。
本浦親子の旅が、コンサート会場で組曲「宿命」を演奏している者と捜査会議に出席している者たちの回想または想像のように見せるクライマックスの演出が秀逸である。
今となっては、現代パートも過去パートも ノスタルジックで味がある。
くりかえし くりかえし、くりかえし くりかえし・・・
殺人を犯してまで隠したい過去
1974年作品。
原作・松本清張。
監督・野村芳太郎。脚本・橋本忍と山田洋次。
社会派ミステリーの傑作です。
ピアニストの和賀(加藤剛)の殺人の動機・・・それは生い立ちにあった。
父親(加藤嘉)が、ハンセン病の患者だった過去。
今では感染しないと証明されていますが当時は忌み嫌われた病でした。
父親と幼い和賀は巡礼の汚れた白装束に身を包み、
放浪の日々、物乞いをする乞食のようにして生きてきた。
父は衰えた腕を杖に頼り、幼ない和賀はいつも腹を減らしていた。
そして成人してピロアニス・作曲家として有名になり、
良家の娘を婚約をしていた。
《ストーリー》
ある日、見知らぬ男から、懐かしい、成功されて嬉しいとの電話が来る。
その男は人の良い刑事だった。
和賀は過去を知るその男の存在を、受け入れることは不可能で、
ただただ抹殺したい・・・それしか考え付かなかった。
そして彼は用意周到な完全犯罪を目論むのです。
過去や隠したい秘密・・・松本清張の小説では、隠したいことが、
殺人の動機になります。
「ゼロの焦点」も「波の塔」も「点と線」もそうです。
過去は変えられないから、消すしかない?
殺人者は思い込みます。
ラストでは、和賀のキャリアの絶頂期と言えるピアノ協奏曲「運命」を、
和賀が自らピアノ演奏する姿に、
父と息子が海辺を放浪する巡礼のシーン、
過去の回想シーンが、オーケストラとピアノ演奏の美しさと対照して
それに被さる親子のみすぼらしさ、哀れさが、
津波のように覆いかさぶってくるのです。
鮮烈で心揺さぶられます。
主演の加藤剛(日本人の良心のような人の犯罪者役、)
父親役の加藤嘉(惨めさを演じたら、右に出る人はいない、)
ペテラン刑事の丹波哲郎、新米刑事の森田健作。
原作・監督・脚本・俳優
全てが最高の役割を果たした傑作です。
またジャケット写真の美しさは比類ない。
原作が良い、緒方拳が良い、加藤嘉が良い、がチカラの伝わらない作りは残念。
物語の設定は昭和初頭から中期。
撮影は1970年初め頃と随所に昭和感がある。
やはり原作の松本清張ありきで
綴られる物語の内容は深い。
主演よりも後半登場する緒方拳・加藤嘉が良い。
どちらも善人・悪人を演じられる優れた俳優で
この映画の中でも「その人」を演じている。
その他の登場人物も本当に多彩・豪華で
ほとんどワンシーン・ワンカット登場が多く
彼らだけで後何本も映画の撮れるほどだ。
しかし残念なのは犯人の薄さ、意図のなさ
人間としての「その人不在」は悲しくなる。
また音と演奏の動きの合っていないピアニスト
その姿には残念以外に思い当たる言葉はない。
プロならもっと練習して挑んでほしく
プロならOKを出してはいけない、
レベルは低い、と厳しく思う。
その中で救いは緒方拳・加藤嘉の演技
そして今はもう無い昭和の風景だった。
※
0076 そんな奴はしらん!ウッウッ
1974年公開
プログラムピクチャー全盛の日本では対応不可能だった
1年越しの撮影期間。
監督、カメラマンが納得するまで待ち続けて捉えた
映像の深さ。それによって表現される日本の四季。
ジャニタレ、CG全盛では生まれない美の大作。
原作目線では成功者の過去を知っている知人を殺害、
という推理小説の1パターンの元祖で
原作は原作で味があるが脚本の橋本忍は
あれはミステリーとしては全然面白くない。
親子の宿命の話にする、と。
コンサート会場から奏でられる「宿命」素晴らしい!
バックでは迫害される親子が日本の四季を旅する。
オープニングの砂の器が壊れていく様も印象深い。
初鑑賞は高一でしたが泣けましたね。
話を最後に統括する丹波哲郎も板についています。
あー45年後に亀嵩駅行きましたよ
90点
初鑑賞1977年2月23日 梅田コマゴールド
◆友人が映画解説動画始めたのでよかったら見てくださいね
第一弾は「砂の器」です。
「mocの細かすぎて伝わらない映画の話」で検索
ここまで主張性を含めたいならドキュメンタリーでやった方が良いのでは?
個人的にミステリーに関しては、島田荘司や綾辻行人由来の新本格嗜好なので、松本清張に代表されるような所謂「社会派」はあまり好きになれない。
「差別問題」や「偏見」に対する異議申し立てとしての意味合いは分かるものの、あまりにもテーマが重々し過ぎて、ミステリーやサスペンスとしてのエンタメ要素や謎解きのカタルシスはまったくない。そう言う意味で、あえてこのテーマを「推理もの」というジャンルで扱わなくてはならない必然性が分からない。ここまで主張性を含めたいならドキュメンタリーでやった方が早い。むしろ、こういう形でハンセン氏病を扱う事に疑問が残る。
入手した情報による点と線の結び方も強引で、論理的な推理部分はほとんど無い。
それ以外は旅先の風景の叙情性でもっているようなもの。無駄に時間が長いのも辛い。
過酷な運命が紡ぐ壮大な人間ドラマ
かなり大昔に劇場鑑賞した作品だが、今でも鑑賞した時の衝撃ははっきり覚えている。
冒頭シーン。波打ち際に作られた砂の造形物が、波が打ち寄せる度に少しずつ崩れていく様を憂いを込めて描く。作品タイトルとリンクしていて、作品世界に観客を誘うプロローグであり、凄い作品を観るんだなという予感がした。
JR蒲田駅近くで発生した殺人事件。犯人に結び付く手がかりは少なく、捜査は難航する。しかし、捜査を担当した二人の刑事は、わずかな手がかりをもとに、執拗に、粘り強く、執念の刑事魂で、犯人に迫っていく。
本作は、単なる犯人捜し物語ではない。壮大な人間ドラマである。
犯人の犯行動機が、あまりにも切な過ぎる。
犯人の子供の頃の回想シーン、差別を受けて父子で日本各地を放浪するシーンが、感動的で美しく、哀しく切ない。日本の美しすぎる四季の風景と、壮大で優美な音楽が相まって、いつ果てるともない放浪を続ける父子の姿に感涙必至。繰り返し挿入される、このシーンが作品の背景色的な役割を担っている。作品の雰囲気を作り出している。
父子がようやく辿り着いた安息の地での出会いが、後の過酷な運命につながっていく・・・。
差別、運命、宿命、生きること、愛すること、栄光、悲劇、等々、様々な要素を巧みに盛り込んでいる。それらの要素について深く考えさせられる作品である。長尺作品であるが、作品世界に入り込んで、この壮大な物語を鑑賞、否、体験することができる。正しく映像体験することができる。
観終わって、場内が明るくなっても、席から離れられなかった。暫く観終わったという充足感と、圧倒的な感動の余韻に浸っていた。
こんな作品を後何本観られるだろうか。
こんな作品に出逢えることを信じて、映画生活を続けていきたい。
生き地獄
松本清張作品、初めて。
松本清張の原作は昔読んでいたが、映画は初鑑賞。140分によくまとめ...
当時の時代背景ほかを知らないとやや解釈が難しい
今年38本目(合計1,130本目/今月(2024年1月度)38本目)。
(ひとつ前の作品は「ゴジラ-1.0/C」、次の作品は「燈火(ネオン)は消えず」)
ミニシアターで、当該監督さんの特集がありその一環でみてきました。
原作小説や元の(リマスター前の)映画があるので、それを超えることはできないかな、といったところです。
戸籍うんぬんについては、やや行政書士の資格持ちの立場からは微妙なところがあるのですが、戦後の混乱期においてこのような行為が行われていたということは容易に推知・推測が付く範囲だし、それほど突飛な設定ではないかな、といったところです。また、映画が古いためややハンセン病ほかいわゆる「病気」の差別についての配慮がない点については、2023~2024年で「復刻上映で見るという観点では」気にはなりましたが(断り書きなどはなし)、まぁそれも許容範囲の一つなのだろうと思います。
ミステリーものとして見る場合、時代背景がいまから70年前といった事情や法律の取締り(特に戸籍関係)という違いもあるため、やや「当てにくいかな」という部分はあります(それらしい発言からある程度推測はできますが)。ただその分、この映画はそういった事情よりも戦後間もない時代に取られた映画で戦後の混乱期にどのような混乱が生じていたのかという点を含むところに鑑賞意義(知識を吸収する意義)があると思います。
採点上特に気になる点はないのでフルスコア切り上げにしています。
なお、VODなどでは最初の30秒くらいは見られるしVODでも見られるようなので(ただしリマスター版ではないらしい)、放映されている映画館の少なさという観点ではVODもやむなしかなというところです。
ノスタルジアを喚起する悲劇のシーンの数々
日本では社会批判を良しとする文学観が長く続き、太宰治は芥川賞を獲れなかったし、村上春樹も芥川賞選考委員から蹴られた。その代わりに、今や読者が限られてきた社会派の石川達三や松本清張が芥川賞を獲っていた。
その松本の代表作の映画化が本作らしい。小生は『点と線』くらいしか読んでいないので知らなかったが、内容は完全な社会批判である。
日本では「ライ病」ないしは「ハンセン病」と呼ばれる皮膚病に対する隔離政策が1931年から取られたが、後日、その措置が適切だったかどうかの議論が起こっていく。
病気による差別と、それに起因した親子をはじめとする人間関係の悲劇を描くことによって、社会の是正を訴える――本映画はそんなテーマだったのだろう。
ハンセン病は現在、治癒できるとされており、らい予防法は1996年に廃止された。ハンセン病政策の転換遅れの責任を追及する国賠訴訟も提起され、2001年に元患者側の勝訴が確定している。
そうした時代の変遷を経て、現在、本映画を観るに「ああ、昔は大変だったんだろう」という感慨は湧いてくるのだが、それ以上の感情はちょっと持ちようがないというのが正直なところだ。社会批判をテーマとする作品は、社会的問題が変われば存在意義がなくなる。そんな印象を否定できない。
…いや、ちょっと違うのではないか。本作にはそれだけで片付けてしまえないものがある。
例えば、丹波哲郎をはじめとする昭和の名優たちの演技の見事さ、彼らが動き回る舞台のリアルさはどうだ。昭和の暑苦しい夏に汗を拭きながら歩き回る刑事たちの姿はどうだ、緑濃い山村の景色はどうだ。一か所に定住できず裏日本の海岸伝いにさ迷い歩くライ病の父子の哀れな放浪生活はどうだ…。
そうしたノスタルジアを喚起する諸々のシーンが、今や葬り去られた悲劇の代わりに浮上してくるのである。監督はひょっとしたら、こうした時代の変遷を見越して、古き良き昭和を映像に定着させたのではないか、とさえ思われる。見事としか言いようがない。
芥川也寸志さん
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を聴いて、久しぶりに「砂の器」の音楽を聴きたくなり、録画済みの本編の捜査会議場面から見始めました。
封切り当時、映画館で観て、その後 何度も何度も観てきた映画なのに、今回初めて気付いたことがありました。
ご存知の方には「今さら」の話題かと思いますが、最後の演奏会が始まる直前の楽屋の控室の場面に、なんと音楽監督の芥川也寸志さんが登場しているではありませんか!
打ち合わせテーブルの端に座って、ほんの数秒間ですが、一瞬カメラに顔を向けられます。
私の母校の校歌を作曲してくださった方なので、以前から勝手に親近感を持っていましたが、こんなところでお目にかかるとは…。
改めて驚きました。
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