「日本映画最大の危機の時代」仁義なき戦い keithKHさんの映画レビュー(感想・評価)
日本映画最大の危機の時代
決して楽観は出来ませんが、徐々に日常が戻りつつある中で、諸処の不便や制約はありつつも映画館も漸く営業を再開してきました。
まだ通常のロードショー公開ではなく旧作も交えながらの変則的興行ですが、東映本社1Fにある直営館・丸の内TOEIでは、何と『仁義なき戦い』全5部作を二回興行に亘り一挙上映してくれました。さすが東映です。
実に40数年ぶりに映画館で観賞しましたが、改めてその異様な熱気と圧倒的迫力に震撼し堪能しました。間違いなく日本映画史上に永遠に残る傑作であることを確信します。
大映が倒産、日活が経営大幅縮小と一気に不況業種と化した日本映画界にとっての波瀾と激動に晒された1970年代初頭。一世を風靡した任侠映画が一気に色褪せてしまった東映も極限状態に追い込まれ、窮余の一策として制作されたのが本作シリーズです。
本作の大ヒットで息を吹き返した東映は、新たに、事実に基づく暴力と欲望渦巻く群像ドラマである“実録ヤクザ映画”路線を確立し、多くの暴力的な作品を作り出しました。
現在に至るも、映画やTVで暴力描写やヤクザを描く際には、大なり小なり本作の描写や表現がプロトタイプ化して用いられており、公開から約半世紀を経ても、その影響力の大きさを実感します。
その魅力は、先ずはスジ=脚本の高い完成度です。
実際に広島を舞台にして対立組同士の間で繰り広げられた血みどろの抗争を元に、利害だけを目当てに恫喝、脅迫、暴力、殺人が日常茶飯事のように横行する筋書き、報復が報復を呼んで暴力が遠心的に増幅し白昼深夜を問わず殺戮と暴行が連鎖し、更にそこに内部の権力闘争、裏切り、寝返り、下克上、成上りが、無情に且つ狡猾に彼方此方で繰り返される、情や恩など欠片もなく金と暴力と色欲のみで動く、将に野獣たちの強欲で醜悪な世界が赤裸々に鮮烈に描かれます。
各組の組長、組員たちの群像ドラマとして構成していながら、複雑過ぎることが無きよう、適度に対立構図を単純化しつつ、登場するキャラクター群、皆が皆、悉くアクの強い特徴ある個性を有し臭気溢れる魅力に満ちています。戦後の混沌たる世情の中、生きる意義を見失い社会からはみ出したアウトローの若者たちが暴力のみに夢と生きがいを見出し、ある者は虫けらのように惨めに抹殺され、ある者は腕力と度胸で伸し上がるという青春社会ドラマという側面もあります。
そして何より、あの広島弁の荒々しく野卑て毒々しい啖呵や罵声の応酬が、実際の広島ヤクザを彷彿させ怖れ戦かせる、異常な緊張感と殺伐さを作品全体に充満させています。本作によって、良くも悪くも広島弁がメジャー化し広く人口に膾炙したのは事実でしょうし、映画やTVでヤクザ者が使う言葉の原型の一つにもなったのは周知の通りです。
次にヌケ=映像効果では、それまでの常識を逸脱した手持ちカメラによる、眩暈を起こさせるように常時揺れ動き、照度や焦点も不明瞭になっていた映像に尽きるでしょう。時に襲撃者の目線、時に襲われる側の目線に目まぐるしく入れ替わり、観客を恰もドキュメンタリーフィルムでも見せられているような感覚にさせ、眼前で事実が報道されているかのような印象を与え、不安感を高め恐怖感を強めさせます。
寄せのカットでは多くの場合、人物を舐めつくすようにローアングルからの仰角で撮られており、今にも噛みつかれそうな圧迫感に終始苛まれます。
スタジオのセットでなく殆どロケで撮影されたことも、その効果を格段に高めています。駅頭や商店街、路上での襲撃・殺人シーンは、無許可で隠し撮りされており、事件の周りの人たちの驚愕の表情は、演技でなく実際に殺人事件に遭遇した人の反応が撮られているようで、その迫力、その臨場感は言うまでもありません。
映像と共に挙げられるのがBGMです。本作の主題歌は、その後、現在でもヤクザ絡みのシーンでは流用されるほどの津島利章氏の名曲です。何度も繰り返されるあの独特のフレーズ、人を苛立たせ、神経を逆撫でし、不安感を掻き立てる旋律は、頭にこびり付くように付き纏ってきます。
最後にドウサ=役者の演技です。
主役の菅原文太が5部作通じて演じた広能昌三の、野性的で暴力的、短気な荒々しさ、ほんの少し人情的な面も塗した、殺気立った演技は、厳つく睨みの効いた強面の菅原文太像を確立したといえます。
菅原文太と並び5作通じて出演している金子信雄の演じた山守組組長も、彼にとって面目躍如の役でした。悪役しかいない本作でも飛び抜けてあくどく、小心なのに虚勢を張り傍若無人の野卑で強欲で傲慢な言動は、ヤクザの醜悪な姿の一つの原型を作り上げたと思います。
5部作の群像ドラマだけに出演者も多く、列挙していくと枚挙に遑がないのですが、第二作『広島死闘編』のみに出演した千葉真一、あの下品で野蛮で粗野な、野獣そのものの大友勝利役は、強烈過ぎるほどの衝撃的存在感をアピールしていました。当時の彼は、寧ろ二枚目主役スターとして人気が定着していた頃だけに、そのギャップの大きさには愕然としてしまいます。
唯一5部作通じて異なる役で3回出演している松方弘樹、時に菅原文太を凌ぐ凄味ある迫真の演技を熟し、見事に3回とも派手に殺される、その殺されぶりも各々に見応えありました。彼も本作で役者の地位を確立したと言えるでしょう。
第二作『広島死闘編』第五作『完結編』に出演した北大路欣也は、やはり『広島死闘編』の暗く荒んで乾ききった心を持つ暗殺者・山中正治役の孤独と絶望の演技が出色でした。5部作通じて唯一の看板女優の梶芽衣子演ずる、山中の義理ある親分の縁戚者とのロマンスも、シリーズでは珍しい心和ませる情景だったと思います。
小林旭演じる重厚な残虐さ、成田三樹夫演じるインテリ風の冷徹な冷酷さ、梅宮辰夫演じる押しの強い不敵なふてぶてしさ、加藤武演じる気弱で狭量な小市民さ、田中邦衛演じる損得のみで生きる無節操さ、山城新吾演じる無責任な信念の無さ、どれも憎々しい存在感に満ちており、鳥肌が立つほどに魅力的でした。
とりわけ本シリーズでは、大部屋俳優が演じたその他大勢のチンピラや鉄砲玉役の面々が、各々ここぞとばかりに自らのアイデンティティをアピールし、作品を通じて成長していったことも特徴でしょう。その後「ピラニア軍団」として名を成した川谷拓三、室田日出男、志賀勝等が、一瞬光る独特の存在感を示しました。特に『広島死闘編』の川谷拓三演じるチンピラの簀巻きにされ嬲殺しにされる際立った惨めさは異常な迫力がありました。
今や主役を張る小林稔侍も、その一人としてほんのチョイ役で出ています。
役者連各々の迫真の演技は、皆が其々に追い込まれ切羽詰まった閉塞的状況からの起死回生を狙い、自ら運命の糸を手繰り寄せようとする貪欲さと切実さが反映していた、その賜物だったと思います。
脚本・「スジ」、映像効果・「ヌケ」、演技・「ドウサ」という映画の三要素全てが完璧に調和した奇跡的作品であり、当時の時代背景、そして東映の置かれた極限状況があってこそ成しえた、日本映画史上に永遠に残る偉大なるモニュメント作品といえるでしょう。