「日はまた昇る」新幹線大爆破(1975) かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
日はまた昇る
3.11の大地震で都心の交通機関がすべて停止した時、いち早く動き出した交通機関は何だったのか御存知だろうか。JR東日本が莫大な予算をかけて運行管理している“新幹線”だ。ガス貯蔵タンクの火災を眺めながら「これで日本も終わりだな」と呟く人々を横目に、電気もすべて消えた真っ暗闇の中を、私が帰巣本能に従ってとぼとぼと自宅に向けて歩いていたその時である。けたたましい警笛音とともに、新幹線のへッドライトが闇を切り裂きながら鉄橋の上を猛スピードで駆け抜けていくではないか。「まだまだ日本は捨てたもんじゃない」と理由なき確信をいだいたことを今でも覚えている。鉄ちゃんでもなんでもない私なのだが、JRにはトヨタと同等の日の丸エンジニアの矜持を感じるのである
キアヌ・リーブスの出世作『スピード』やブラピ主演『ブレット・トレイン』のもとネタとも言われている本作が劇場公開されたのは1975年。同年に公開されたハリウッド映画『タワーリング・インフェルノ』と同じオールスターキャストによるクライム・ムービーである。私自身『タワーリング』を劇場で鑑賞した記憶はあるのだが、同時期に公開されていた本作のことなど知る由もなく、国内興行成績はさんざんな結果に終わったのだとか。おそらく、日本鉄道技術の粋を結集した“新幹線”を爆破するとは不届き千万、映画をエンターテインメントとして対象化できない方々の反感を買ったに違ない。
しかし、日本国内では大ゴケしたこの映画ヨーロッパで大ヒットをとばしたというからわからないものである。銀行から見捨てられた元工場経営者(高倉健)、フラフラになるまで売血して生計を立てていた出稼ぎ青年、セクト出身のアナーキスト(山本圭)たちが結託して、旧国鉄並びに日本政府を相手に丁々発止のやりとりを繰り広げる演出が、伝統的に左翼思想が根強いEUの人々に受けたとしても不思議ではないだろう。映倫的には犯人たちが決して逃げ切れないとはわかっていても、犯罪に至る高倉健をはじめとする犯人たちの背景を丁寧に描き観客の同情を引き出そうとした演出は、1975年公開の映画としては結構斬新だったのではないだろうか。
新幹線運転手の千葉真一と新幹線管制室統括宇津井健との緊張感溢れるやりとりは、『踊る大捜査線』における青島刑事と室井監理官そのもの。犯人を寸前まで追い詰めながら何度もとり逃がす警察は、なぜか“無能”に描かれることが多い邦画やTVのテンプレートにそっくりはまっている。対照的に、乗客1500人の生命を最優先にしてギリギリの攻防を繰り広げる宇津井健以下の国鉄マンが、非常に美化されて描かれている。残念なのは、新幹線に仕掛けられた爆弾除去のシークエンスよりも高倉健一味の身代金奪取に重きがおかれているため、『タワーリング』ではメインテーマになっていた人間のエゴとエゴのぶつかり合いが、隅においやられてしまったことだろう。
高度成長を牽引していた日本人も、それに見捨てられた日本人も、みな瞳をギラギラさせながら必死になって生きようとしていた昭和はまだ、宮台真司言うところの“IT”ではなく“YOU”として日本人が扱われていた時代だったのだ。代替え可能なエキストラを雇えば安くあがるものの、あえて北大路欣也や田中邦衛、志穂美悦子や多岐川裕美の主役クラスを端役でカメオ出演させた理由はいったいどこにあったのか。けっしてエリートとは言えないまでも、ニッポン株式会社を下支えする人々の“自負”こそがこの国の真の強味であることを、佐藤純彌監督が見抜いていたからではないだろうか。本作はつまり、自分たちの組織を守ることにしか関心のない官僚に牛耳られた政府や警察と、真っ向から張り合った市井の人々の物語だったのである。