「それでもお母ちゃんはやってない」証人の椅子 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
それでもお母ちゃんはやってない
社会派の名匠・山本薩夫1965年の作品。
1953年に起きた冤罪事件“徳島ラジオ商殺し事件”を映画化。
作品が公開された1965年は再審請求中。
作り手側の事件への並々ならぬ訴えを感じる。
国内でも有名な冤罪事件らしいが、恥ずかしながら全く知らなかったので概要を整理してみると…
1953年、徳島でラジオ商店主が殺害される。
警察は当初外部の犯行として捜査を進めるも特定出来ず、内部の犯行と捜査の方向を変え、店員であった二人の少年を逮捕。
さらにその少年らの証言で、妻・洋子を犯人として逮捕。
洋子は無罪を訴えるも、一審・二審共に有罪。
最高裁に上告するも突然取り下げ、13年の刑が確定してしまう…。
洋子が突然上告を取り下げた理由。それは…
金銭面の問題。体力的にも精神的にも疲れ果て限界。
しかしそれら以上に、法が信用出来ない。
私はやってない。
こんなにも訴えているのに、法は有罪を下す。
ならば、いったん自分がやったと認め、刑を終えて釈放された後、自分の手で夫の敵である犯人を探す…。
この時の奈良岡朋子の演技には鬼気迫るものがあった。
洋子の苦悩の末の決断は分からんでもないが、そこで認めてしまったら終わりなのだ…。
ある時、自分が犯人だと言う男が名乗り出る。
警察はその男の自供には信憑性が薄いとするが、これを機に親族が再審に向けて動き出す。
さらに、元店員の少年の一人が、証言は嘘だったと告白する。
それによって浮かび上がるのは、検察・警察の権力…。
ずさんな捜査。
署名したらすぐ帰れる。
脅し、威圧。
連日長時間の取り調べ。
再審に向けて動き出した時、何者かの力によって心強い協力者が外される…。
同じく映画にもなった袴田巌さんの冤罪事件を思い出した。
これが、国の法の番人のする事なのか。
彼らにとって、法や真実とは何なのか。
人一人の人生を奪っておいて、何も感じないのだろうか。
事件の風向きが変わり始めた時、担当検察官が左遷させられる。
少なからず悲哀を感じさせるが、それで国家権力のあくどさが帳消しになる筈も無い。
権力という横暴・暴力に翻弄された側の苦しみはそれ以上…。
作品は、彼らの闘いはまだまだ続く…という所で終わる。
仮釈放が認められたのは、翌1966年。
そして1980年、無罪である事が確定。ようやく真実を勝ち取った。
しかし、洋子がそれを知る事は出来なかった。
彼女は前1979年に病死した…。