しとやかな獣のレビュー・感想・評価
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【人間の皮を着た不労の金に執着した獣達の騙し合いを、エレベーターのない団地の一室をメイン舞台に描いたブラックシュールな作品。優れたる脚本による今作の後半はコメディではなくホラーだと私は思います。】
■元海軍中佐の前田時造は、芸能プロで働く息子と作家の2号になった娘を操っては金を作らせていた。
芸能プロに勤める息子は金を使い込む一方、会社の会計係・三谷幸枝(若尾文子)と関係があった。
だが、幸枝は念願の旅館を開業することになり、別れたいと言いだす。
そのうち税務署の神谷が芸能プロの徴税に関与していた事で巻き込まれていく。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・前半は、”もうあんな貧乏な生活は嫌だ・・。”と思い詰めた表情で語る前田時造と妻の、文句を言いに来る芸能プロの社長や作家たちをあしらう姿が、ブラックユーモアに見える。
・だが、劇中に流れる能の音楽と登場人物達が無表情で、自身の思惑を独白するアーティストな数シーンが怖い。
人間の金へのどす黒いまでの執着を描いたホラーシーンと言っても良い。
■出演者全員が倫理観なき悪者であるが、若尾文子が演じた女の、念願である旅館を立てるために前田時造の息子、芸能プロの社長、税務署員とまで寝て金を稼いでいた事が分かるシーンはコレマタホラーである。
<ラスト、追い詰められた税務署を首になった神谷が、前田時造の家を思い詰めた表情で訪れるシーン。
激しい雨が降る中、彼は階段を上がって行く。
そして、遠方から聞こえてくるサイレン。
ベランダから下を観た前田時造の妻の表情・・。
今作が、その後幾つかの舞台劇になった事が良く分かる、新藤兼人の優れた脚本によるブラックシュールな物語である。
個人的意見だが、今作の後半はコメディではないと思う、背筋が寒くなる作品である。>
う〜ん、若尾文子!たまらん!
面白かったー!
ラストは、もっと身も蓋もないほどブラックでバシッと鮮烈になるのかと思ってたけど。
割とシリアスに当時(東京オリンピック開催に向かってイケイケ)の観客にジワリ問いかけるような終わり方。
ちょいちょい文明批判も入れつつ、流れるような悪党連中の台詞回し。
全く脚本に無駄がない。流石の新藤兼人!
そして、それを立板に水とばかり見事に演じてしまう役者たち。
小沢昭一のピノサク・パブリスタ!最高!
本当に素晴らしい。
下手したら、唐突で取ってつけたような演出になってしまいそうな内面の心理描写も、必然に見えてしまう。流石の川島雄三!
まだまだ敗戦後の混乱期、ある意味、今以上に、既存の倫理観が崩壊して行き、それゆえ、より一層タフな生き方を要求されてたかもしれないアノ時代、自分の利益しか考えない人間の欲望をブラックに描きつつ、観る側を引き込む若尾文子のアノ妖艶な色気!もう最高!
しかし最後は…
マジメ役人の虚しい悲哀が、高度成長期の東京を濡らしていく。
これぞ日本映画が世界に誇る風俗喜劇の大傑作
これぞ日本映画が世界に誇る風俗喜劇の大傑作でしょう。
久し振りに観たが、昔はこの作品の良さをまだまだ理解出来て無かったですね…いや〜、改めて見直すと凄い!そして素晴らしい。
登場人物は僅かに11人だけ。しかも、小沢昭一とミヤコ蝶々、船越英二はゲスト出演的な怪演だけに、実質的には8人と言って良いでしょう。
作品全体を占める舞台は、殆どがアパートの一室で展開される密室劇と言って良い位で、寧ろ舞台劇に近い。
新藤兼人の脚本は、“もはや戦後では無い”高度成長時代がもたらした時代の隙間を好き勝手に生き、“正直者が馬鹿を見る”弱者にだけはならない…とゆう、この時代が産み落とした《巨悪》を、一つの家族を通して炙り出す。
しばしば映し出される室外に広がる新興住宅地の風景もさる事ながら、その上空を行き来する爆撃機(セリフではそう言われている)の音にこそ、戦争の不条理さ・虚しさを表している。
出演者達の見事な演技力も在りますが、何と言っても狭いアパートの一室を逆手に取り、人間の“業”を鮮やかに炙り出す川島監督の演出力と縦横無尽のカメラアングルには、思わず「あっ!」と声を挙げてしまう程にお見事の一言です。
人工的な赤い夕日をバックにして踊る姉と弟。真っ暗な部屋で静かに祝杯をあげる夫婦。そして、それに被さるラジオから聞こえて来る、能らしい歌声の何だか知らないが迫り来る不安感。
カメラは部屋の外へ僅か数回だけ出るだけで、この部屋に行き来する出演者達のアンサンブルと、幻想的な階段を上がる若尾文子演じる悪女に、階段を下りて行く哀れな高松英夫が印象的。
でも群を抜いて素晴らしいのが、伊藤雄之助と山岡久乃の詐欺夫婦。
もう素晴らしすぎる(笑)
ラストで「もう駄目だ!」と悟る山岡久乃の、何とも言い難い表情は圧巻の極みです。
戦後日本の貧しさからの脱却
オープニングの長回しのショット。ベランダ越しの団地の一室が能舞台として提示される。不思議なもので、BGMに能の音が使われいるときは、部屋の中を忙しく動き回る夫婦の手足が能の所作を演じているようにさえ見えるのだが、音声が管弦楽に代わると、彼らの動きが途端に映画的な動きになったようにみえてくるのだ。
映画は、この能舞台に入れ替わり立ち代わり登場する人物たちの虚々実々の会話によって進んでいく。
若尾文子が、最初に出てくるときは、ほとんどが背中しか映らず、セリフもほとんどない。しかし、ほどなく玄関扉ののぞき窓にその愛らしい笑顔を覗かせたかと思うと、この騒動の一番の受益者であり、彼女の色仕掛けで周りの男どもが踊っていたことが明るみになる。次々と暴露される男との関係とそれで得た金。しかし、若尾は動じることもなくその男たちに関係の清算を通告する。
その若尾の、肝の据わった切れ者ぶりに、振り回された男どもだけでなく、若尾に息子を翻弄された親も感心すらする始末である。しかし、ここで若尾以上に強かなのは、山岡久乃演じる母親のほうであろう。勝ち目なしと判断した以上は、無駄な憎悪をたぎらせることすらしないで、ひたすら若尾を賞賛する。息子の悪事を叱らないどころか、それを手玉に取って金をせしめる女を褒め、そのくせ自分の娘には愛人稼業をさせる。そして、娘を叱るのは、せいぜいが、あけすけな性的な物言いくらいなものなのである。
娘の愛人に金の無心をするような、身も蓋もない一家にとってのモラルとは一体どんなものなのか。それがこの映画に出てくる両親の姿であろう。父親の「あんな貧乏には二度と戻りたくない。」という言葉。このセリフのシーンは、周囲の雑音が消えて、セリフのみが響き渡る。これこそが、戦後日本のほとんど唯一のモラルのようなものである。
この狭い団地の一部屋をカメラは前後上下の4つの方向からとらえている。ただ空間的にこの一家が晒し者にされているだけはなく、戦後日本の核家族の中にある歴史性や文化的な断絶が描かれている。
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