「バブル崩壊という訳の分からない理不尽なもの それへの討ち入りだったのです」四十七人の刺客 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
バブル崩壊という訳の分からない理不尽なもの それへの討ち入りだったのです
映画とは不思議なものです
その時にはその作品の意味や意義が理解できないまま観てしてまうことが多いものです
何年も時が経って、振り返ってみるとあの時にあの作品が撮られたのは、それは必然だったのか!
あの時にあの俳優があの役で出演したことが、そんな意味を持つなんて!
そんなふうに驚くことがままあるようです
演じた俳優達にも、製作した監督やスタッフにさえ、その時には少しも思わなかった意味や意義が生まれてくることもあるのだと思います
本作もその様な作品かと思います
本作の公開は1994年10月です
その年は一体どんな年であったのでしょうか?
バブル景気が終わり、遂にバブル崩壊に本格的に突入していく、そのとば口に日本が立った年です
そして宮沢りえはどうだったのでしょうか?
彼女は1991年にヘアヌード写真集を出して爆発的な売れ行きを示し、1992年11月に貴花田と婚約して、人気も女性としての幸せも両方の絶頂にあったことを私達は知っています
ところが翌年1月には彼女の運命を劇的に変えてしまう婚約解消会見に至ってしまったことも
さらに本作公開の1ヵ月まえの1994年9月、荒んでしまったのか彼女は不倫の果てに、とうとう自殺未遂事件を起こすのです
本作の翌年の1995年、心身を病み異常な程に劇痩せして世間を心配させ、遂には1996年にはアメリカサンディエゴへ移住してしまい、一時は芸能界からも身を引いてしまうのです
21世紀の私達は彼女のこの運命を知って本作を観ています
バブル崩壊と宮沢りえ
この二つを振り返って本作を観て下さい
すると本作が違う意味を持っていたことに気づかされるのです
表面的には、本作は変化球の赤穂浪士に過ぎません
新解釈の赤穂浪士達の姿、時制を大胆に動かす構成の目新しさにしか目が行きません
手垢にまみれた赤穂浪士の物語に斬新さを求めただけの作品としか見えないと思います
それならば色々と残念な出来の作品だとなるのは当然だと思います
しかし本作公開から28年も年月が経ち、その年がどんな年であったのか、宮沢りえとはどんな女性であったのかを振り返って本作の意味を考えてみると、見えてくるものがあるのです
本作の大きな特徴は、赤穂浪士の討ち入りへのモチベーションを、主君への忠義ではなく、自らの侍としてのプライドに求めて入るところにあります
バブル崩壊はリストラの嵐が容赦なく吹き荒れました
どんな大企業も、超一流と言われる銀行まで
会社人間と揶揄されて、会社を家族のように思っていた日本人に、リストラは暴風雨のように襲いかかって、会社への忠誠心を揺るがせ、次第に喪わさせていったのです
赤穂藩の廃絶は、まるで地方の中堅優良企業が社長の財テク失敗で突然倒産したようなものです
バブル崩壊の過程でそんな企業は山ほど出ました
本作公開から、しばらくしてそんなニュースばかりになっていったのです
業績好調だったのに突然倒産したり、倒産しなくても部門ごと売却、部門廃止、工場閉鎖、店舗閉鎖、○千人を整理解雇する
そんなリストラのニュースが連日報じられるようになったのです
苦しい決算発表の記者会見である大企業の社長が膿を出し切ると言い放ったのを覚えています
リストラされる社員達は膿だというのです
今まで過労死するほどに会社のために忠誠を尽くして働いてきたのに、そんな理不尽な言い草って無いだろう!
そうです
本作は、そんな人々達の怒りの為の作品であったのではないでしょうか?
リストラした会社の社長というか、
バブル崩壊という訳の分からない理不尽なもの
それへの討ち入りだったのです
そして、宮沢りえ
私達は彼女がかって幸せの絶頂期にあったことを知っています
そしてその絶頂の僅か3ヵ月後には失意の奈落の底に叩き下ろされ、人生の悲しみの限りを舐め尽くしたことを知っています
その苦しみをこらえて明るい幸せそうな役とシーンを演じていることを知っています
本作での役と実際の彼女との大きなギャップを知っています
それはまるで、かってバブルの絶頂期を味わい、リストラが始まった時、その痛みをこらえ懸命に働いている私達の姿です
その先のさらに過酷な運命を何も知らずにいた、私達日本人の姿そのものだったのです
1994年とは、日本がバブル崩壊の奈落の底に転がり落ちて行ったことが目に見えだした年なのです
初めはゆっくりと、そんなものすぐに止められると思うほどに、落ちているのも気づかないくらいだったのです
だけど次第に勢いがまし、足がもつれだしていった、その頃だったのです
リストラの地獄の鍋の蓋が開けられたのです
既に、そのグツグツ煮え立った鍋に放り投げられた人々が出始めていました
明日は我が身だと誰しも思ったのです
そんな空気を、本作は捉えています
もしかしたら市川崑監督はそこまで構想して製作をしたのかもしれません
市川崑監督なら十分にあり得ると思ってしまいます