秋刀魚の味(1962)のレビュー・感想・評価
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厨房に入らない父と台所に立つ息子
戦後17年目、1962年(昭和37年)に公開された本作は、3世代の男たちそれぞれの生き様を台所に立つか立たないか、でみせてくれます。
高齢者代表、佐久間清太郎(東野英治郎)
元旧制中学校漢文教師という教養の持ち主だが、今は場末のラーメン屋を営む。早くに妻を亡くし、娘(杉村春子)と二人暮らし。経済的にも逼迫しており、裕福な教え子たちから施しを受ける立場になってしまう。酒に酔うと娘が結婚できなかったのは自分のせいであると自分を責め、後悔の思いを口にする。なんとも惨めな境遇の男を名優東野英治郎が快活に熱演している。生きるために厨房に立ち続けざるを得ない「なにも持たない高齢男」。
戦中派代表、平山周平(笠智衆)
戦時中は海軍の巡洋艦の艦長だったが、今では大手企業の重役に収まっている初老の男。妻を亡くし、24歳の長女路子(岩下志麻)、次男和夫(三上真一郎)との3人で都内一戸建てに暮らしている。路子は秘書として会社づとめをしながら平山家の家事を担っている。外では明るい笑顔を見せるのに家では能面の路子。彼女の抑圧された感情に鈍感な父は気づかない。ついに路子を嫁に出した晩、ガランとした台所で今後の生活を思い、呆然としてしまう父は、自分では家のことを何もしない「男子厨房に入らず」を地で行く「戦前男」。姉に晩飯を催促する甘えた次男には「台所で食え。自分のことは自分でしろ」と、自分にできないことを言ってしまう。
戦後派代表、平山幸一(佐田啓二)
周平の長男で路子と和夫の兄。結婚を機に家を離れ、近所のモダンアパートで気の強い妻秋子(岡田茉莉子)と二人暮らし。安月給のサラリーマンであり、冷蔵庫の購入費を父に無心してしまう。稼ぎが少ないことを妻に責められてもぐっと我慢し、決して暴力は振るわない。中古のゴルフクラブを買うのにも妻の顔色を伺わねばならない悲しさ。子供を作る余裕もない。共働きの妻が遅くなる日はエプロンを付けて台所に立ち自ら料理もする。心の奥に不満をためながらも妻の尻に敷かれてそこに安住してしまう情けない「新しい男」。
時代とともに、男は台所に立ったり立たなかったりする。台所に立つのか立たないのか、立ちたいのか立ちたくないのか、あるいは立たざるを得ないのか。本作は台所との関係から男の生きざまを考えさせてくれる。3人のうち誰が幸せで誰が不幸せなのか、それは単純には決められない。「男子厨房に入らず」というのは本来、夫と妻の仕事を分けることで相手に対する敬意を持続させようとした先人の知恵だったのでは。台所に立たない男は妻がいないと飯も食えない。だから妻に頭が上がらない。台所に立つ男はいざとなれば自活できる。長男の幸一はそのうち妻の不機嫌に我慢できなくなり家を出そうな気がする。男が台所に立つようになって離婚が増えたのではないだろうか。
劇中で「ひとりぼっちか…」とつぶやく周平だが、まったくひとりぼっちではない。妻はいないが子供達がいるし、中学の同級生の飲み仲間、河合と堀江がいるし、海軍時代の部下坂本芳太郎がいる。あと、バー「かおる」のマダムもいる。
妻を亡くした孤独を酒で紛らわすしかない周平。どっしりと安定した妻にしっかり支えられている河合。娘ほど年の離れた後妻にめろめろの堀江。飲み仲間3人の関係性も面白い。河合は路子の上司の設定であり、路子の孤独に気づき、父を説得しそれを救う役割を果たす。河合は本作の中でもっとも「頼れる男」であり、それはもちろん妻であるのぶ子(三宅邦子)のおかげであり、おそらく河合は台所に立たない。堀江はいつもウキウキしており、妻に先立たれてもあんなに美人で若い後妻がもらえるなんて、と観客の男性たちに「希望を与える男」。堀江は若い妻と一緒に台所に立っているかもしれない。坂本は苦労しながらも立派に自動車修理工場を繁盛させている「快活な男」。活力あふれる加東大介がはまっている。おそらく坂本は台所に立たない。台所に立たない(立てない)男は、1人残された時に粗大ごみと化してしまう。男はいつまでも飲んでばかり、女に頼るばかり、ではダメで、時代に合わせて生き方を変えていかないといけない。秋刀魚ぐらいは自分で焼け。そんなことを言われた気がしたが、果たして母と2人で暮らした小津監督自身は台所に立っていたのだろうか。
現代の女性たちは男の世話から解放されたが、代償としてわれわれは40歳以上になると介護保険料を取られるようになってしまった。当然離婚も増えた。そして男も女も自立生活が送れなくなると、施設に入れられるようになった。小津監督ももっと長生きしていたら、最期は施設でひとり寂しく亡くなっていたのかも。
バー「かおる」は戦争の傷がいまだ癒えない男たちの集う場所。彼らはここでだけは素直に胸の内を吐露できる。「もし日本が勝ってたら…」なんて未練たらしい話もできる。かおるのママはそんな男たちに強い酒を飲ませ、安楽な眠り(死)へいざなう役目であり、岸田今日子が妖しく演じている。
高度経済成長期の家族が透けて見えた
「秋刀魚の味」は初視聴。1962年の作品ということで、高度経済成長で日本が豊かになり、核家族が増えて家族関係も変わっていく時代かと。平山(笠智衆)を中心として、サラーリーマン勤めの同僚との関係、夜のお付き合い、家に同僚を招いての飲み会、女性社員との会話などが、過去の作品との違いか。そういえば、自分の父親もそんな感じだったなあと思い至った。冒頭、白と赤の工場の煙突から始まるのだが、この時代を象徴していた。
平山が妻を亡くした経緯は描かれないが、平山が駆逐艦の館長で戦地に行っていたことで、妻は子どもたちと疎開して苦労したのだろう。長女の路子は、早くから家を切り盛りしてきたせいか、気丈でしっかりしていてキツイくらい。アパート暮らしの兄は、安月給なのか妻に財布をしっかり握られ恐妻家。数年後の路子の生活なのかもしれない。女性の地位が上がってきた頃なのか、女性がはっきりとしていて、飲み屋の女店員さんの服装も変わっていく様子が見られた。そして、男のために女が犠牲になる必要はないっていうのも、この時代あたりから始まっているのではないだろうか。
平山が娘を送り出して、トリスバーに寄って妻の名残が見える女性を見つめ、軍艦マーチを聴いている様子は、妻がいた頃の若かりし頃を思い出し、その妻の代わりを娘に投影して、務めさせていたことに思い至ったいたのであろう。娘に頼れなくなって、改めて妻に立ち返ってというところか。しかし、平山のようなタイプは、若い妻をもらうタイプではなさそう。
とかく男は、妻やら娘など、家に女の人がいないとダメっていうテーマ性を感じた。戦争が終わって男尊女卑を喧伝していた軍国主義が終わって、曇りない目で見てみたら、家族にとっては女性の存在が大きいっていうのを映し出しているみたい。男が威張り散らしていただけの古き時代は終焉したのだ。そこから、現在に向けて男も家事やら育児を手伝うように変貌していくけれど、それはもっと後のお話か。
小津作品は、セリフが短く、表情の変化は少なめ、ドラマチックな展開、誇張やデフォルメ等がなく、淡々として硬質な感じで、あまり修辞がないセリフを枠に嵌めていくような趣がある。それ故に、様々な解釈が可能になるような味わいを生み出すのかもしれない。
韻を踏む様な台詞。相槌を打つ。つまり、会話を確かめ合う。
『日本は戦争負けて良かった』
『そうですかね?うーん、馬鹿なやつがえばらなくなったから良かった』
韻を踏む様な台詞。相槌を打つ。つまり、会話を確かめ合う。
それが小津安二郎監督の良い所だと思う。
映画のストーリーは昭和の男目線な古い概念で進んで行く。
ここの登場人物は、本当の貧乏人ではない。飲んでいるウィスキーが『ホワイト』。飾られているウィスキーが『オールド』。高級料亭みたいなところで飲むは『ジョニ赤』
ゴルフなんて、この頃は影も形もない時代だった。
洗濯機、冷蔵庫、掃除機が普及し始める時代で、テレビ、電話、自動車は出始めの頃だ。
つまり、この映画で描かれる家族は、中産階級以上の家族で、『秋刀魚』と言うからには目黒の高級住宅街で走る電車は、大方目蒲線か井の頭線じゃないかな。
因みに僕は江戸川区小岩。下町の出身だ。下町が全員貧乏人ではないが、我が家は、テレビのブラウン管には幕がかかっていて、仰々しく、鎮座していたのを思い出す。
ちなみにちなみに、僕が最初にハマったテレビ番組は『アラカザンの魔法』と『ハワイアン・アイ』って番組だそうである。あまり覚えていない。テレビがあるのは親父が外国のドラマが好きで、安月給で買っていたからだ。勿論、白黒テレビ。
2023年 12/26 数少ない友人から旧国営放送で『秋刀魚の味』やってるよってラインが入る。
残念ながら、我が家にはTVが無いので『もう、見たよ』とだけ答えた。でも、気になるので、もう一度見てみた。しかし、旧国営放送は冬真っ盛りの時に秋刀魚とは季節感が無い。
この所、小津安二郎監督の映画を何本か見て、思ったことは、この手法は後の『TVドラマ』に利用されていると感じた。『CASTや設定を使い回す』経費を抑えて、演出に力を入れる。小津安二郎監督だから出来る事である。しかし、高学歴だけのTVディレクター上がりが作ったドラマは、ただのマンネリですぐ飽きられる。だがしかし、日本人は忍耐力が強く、50本も同じ映画を見せられて『名作』と言わしめる。『日本は良き苦になり』じゃない 『日本は良き国なり♥』
父親のわびしさ
私が映画に興味を持ち始めたのは大体中学生位だったので、すでに小津安二郎の新作を見る機会はなくなっていた。
かなり大人になってから、フランスで小津の映画が人気があると言うことをニュースで知り、レンタルビデオで見始めた次第である。
評価の高い作品を一気にまとめてみたせいで、どれも笠智衆と原節子が出ているので、正直どれがどうだったかあまり区別がつかなかった。
ただ、この映画に関しては、原節子でなく岩下志麻だったのでよく覚えている。娘を嫁に出す笠智衆のセリフと表情に、父親のわびしさを感じる。
酒をこよなく愛する男たちの、良い意味でも悪い意味でも昭和的で、一つ一つの会話にノスタルジーを感じる。バーのシーンもいかにもセットっぽい感じなんだけれど、それが味があるんですね。
この時、笠智衆は実年齢では58歳だった。
なぜ小津は分離を描き続けたのか
小津ちゃんの遺作である本作を鑑賞した後、もしかしたら彼は自身の母との関係をずっと描いてきた人なのでは、という連想を抱きました。
生涯独身だった小津は、終生母親と暮らしていたそうです。そして本作は母親と死別後に撮った作品。トボけた味わいのあるユーモラスな雰囲気ながら、その影響はモロに出ていると感じました。
本作では、対象を喪失した悲しみよりも、強烈な孤独感が印象に残ります。「ついにひとりになってしまった!」という小津の内面に渦巻く動揺が伝わってくるようです。
主人公・智衆の恩師である東野英治郎演ずる老人ひょうたんと、杉村春子演じる中年娘との関係は、小津自身と母親が投影されているように思えました。
ある夜、ひどく酔ったため、智衆ら教え子に自宅まで送ってもらったひょうたん。ひょうたんは歳のいった娘と2人でラーメン屋を営んでいます。
送り届けた教え子たちが去った後、ぐでぐでのひょうたんと娘の2人だけになり、突如娘が涙を流すシーンは強烈です。ライトも陰鬱となり、異常なまでの暗さと惨めさが描かれていました。いずれひとりになり、じわじわと孤独と絶望を生きる運命からもう逃れられない。そしてその運命から脱するチャンスは過去にあったかもしれない。父親から離れて、自身の幸せを追うこともできたかもしれない。けれど掴めなかった。もう遅すぎる。そんな後悔の念まで感じられる、凄まじい場面でした。
ひょうたんの娘は2シーンくらいしか出てきません。役どころとしてはチョイ役ですが、ここに名人・杉村春子を配した意味があるのだと思います。
(東野英治郎と杉村春子の顔が超似てるというギャクの面もあると思われる)
小津のバイオグラフィでは、未婚であるよりも、終生母親と暮らしたことに違和感を覚えていました。そんな人が、娘の嫁入りや家族の死別等、喪失すなわち愛する対象との分離を描き続けたわけです。
(正確に言うと関係性全般がテーマですが、喪失・分離が特に目立つ印象です)
これまで、小津はなぜ分離を描き続けたのかよくわかりませんでした。しかし、本作を観て、小津自身が分離できない苦しさを抱えていたからなのでは、と思うようになりました。
表面は父と娘の物語ですが、それは分離できない母と子の翻訳なのかもしれません。
小津が体験したリアル喪失を彼がどのように乗り越えるのかは見ものですが、それが作品化されることはなく、小津は母の後を追って亡くなりました。本作が遺作になってしまったのは残念です。
演者について。岩下志麻はさすがの美しさですね。鋭い美貌。でも、歳食ってからの志麻の方が妖艶で魅力があるようにも感じます。
あと、智衆の友人の若い奥様がとても美しくて品があり、目を惹かれました。誰かと思いしらべたところ、環三千世というヅカ出身の方でした。若くして引退、しかも早逝された方のようで、wikiもないですが、小津の『小早川家の秋』にも出演されているとのことで、楽しみです。
あっ、わかってる、わかってる、しっかりおやり。幸せにな
映画「秋刀魚の味」(小津安二郎監督)から。
今更、私がわざわざ書かなくても・・と思うくらい、
驚くほどの人たちが、この作品の感想をネット上に書いている。
そしてまた、全編を通して、一度も登場しないのに、
タイトルが「秋刀魚の味」だから、その推測も多くの人が・・。(笑)
一度、「秋刀魚の味」で検索して欲しい、本当にビックリするから。
さて、私は私の方法で・・とメモした台詞を振り返って眺めていたら、
ひとつ気付いたことがある。
1回の台詞が非常に短く、NGを出すような長い台詞は無いに等しい。
それが、ひとつのリズムとなって、画面の切り替えに繋がっている。
日常生活の家族の会話って、こんなもんだよなぁ、と感じた。
最近、1人の台詞が長くて、走り書きでメモをするのに苦労するが、
この作品は、そんなことは1度もなかった。
だから今回の「気になる一言」は、あえて長い台詞を選んでみた。
岩下志麻さん扮する娘が、結婚式を前に、父親役の笠智衆さんに、
お決まりの挨拶をするシーン。
「おとうさん・・」と口にした途端、その後の彼女の台詞を遮って
「あっ、わかってる、わかってる、しっかりおやり。幸せにな」。
これが、娘を嫁にやる父親の気持ちであり、
「長い間、お世話になりました」というフレーズは耳にしたくない、
父親の本音が伝わってきた。
ニュースになるようなことは何も起こらない、
どこにでもある日常生活なのに、こんな温かい胸を打つ作品になるのは
「魔法」を使っているとしか、言いようがない。
そう「オズの魔法使い」ではなく「小津は魔法使い」です。
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