秋刀魚の味(1962)のレビュー・感想・評価
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秋刀魚はどこに存在する?
小津安二郎監督作品。傑作です。
今までみてきた小津作品の中で一番好きかも。遺作であるし、映画美の極致をいった作品のように思う。
構図や場面の反復によって、同じく現れるものは、人間の普遍的な営みとして昇華され、差異は人の感情の移ろいや不在を見事に描いている。
最後のシーンがとても胸にくる。長女の路子(岩下志麻)を嫁がせた父の周平は、酔っぱらって一人寂しく家に帰る。そして酔い冷ましに台所で水を飲むのである。周平はかつて次男の和夫にいった。これからは一人でなんでもしなくてはいけないと。そして現在、周平は路子が不在の家で、これから一人でなんでもしなくてはいけないのである。この不在の描き方と嫁がせた父の孤独はひどく胸に刺さる。
まだまだ映画の細部に目が届いていない。これからも何度も観たい作品である。
元祖メロドラマ
小津安二郎は1963年12月12日、誕生日とおなじ日にがんのため60歳で亡くなり、1962年製作の本作が遺作となりました。
おなじみのテーマである父娘の別れ──娘の嫁入りをあつかったドラマですが、より通俗的にユーモラスに描いています。乱暴に言うと晩春を格調高いとするならその格調低いバージョンが秋刀魚の味です。そんな風に見えるのはこの映画が典型的な家庭メロドラマのシチュエーションで構成されているからですが、おそらく家庭ドラマというものの発明第一号が秋刀魚の味なので、秋刀魚の味からこんにちに至るまでのもろもろをわたしたちが見て知っているゆえに、発明第一号が通俗的に見えてしまう、という現象によって秋刀魚の味は通俗的なのだろうと思います。
カラーなので小津安二郎の画面構成となるレイヤー細工がよりにぎやかに見えます。マグカップ、ウィスキー、ビール、ショットグラス、灰皿、テーブル上のさまざまな食器、ランプシェード、掃除機、家具や団居、洋服や着物。飲み屋街の看板、家や塀、煙突、森永地球儀ネオン。それらのショットがめまぐるしく変わりながら、彩り豊かに画面をにぎやかします。が、カメラは110分間、1ミリも動きません。役者たちも劇的な演技をしません。腰位置にカメラを据え、セリフを言う毎にカットが変わる、この世にふたつとない映画手法で語られる小津映画の集大成といえる映画になっていると思います。
父である周平(笠智衆)が娘の路子(岩下志麻)を嫁がせるために腐心するという話です。
周平が路子を嫁にやることに躍起になったのは「ひょうたん」とあだ名されている恩師(東野英治郎)の言葉に感化されたからです。
ひょうたんは厳しい漢文教師でしたが、40年ぶりに同窓会をやってみると、下町で娘と燕来軒というラーメン屋をやっていることが判明します。それがいかにも凋落したように描かれていて、いつもピシッとしたスーツを着ている周平らと比べ、薄汚れた前掛けをかけていることに加え、師であったにもかかわらずかつて生徒だった周平らに対して、下男のような言葉づかいで接します。
そんなひょうたんが酔ったとき「娘を便利につかってしまった」という悔恨を吐露します。小津映画で、いつもはちゃきちゃきしている杉村春子が、ここでは父の燕来軒を手伝っている行き遅れた娘を演じています。ひょうたんの悔恨は、娘が嫁にいかないのをいいことに店を手伝わせた結果、娘を「いかずごけ」にしてしまった、彼女の人生を不幸にしてしまった──というものです。
現代は多様性の時代なので、いかずごけは不幸とイコールになりませんし、公人がそんなことを言ったら直ぐに炎上しますが、やはり男も女もはやく結婚して子供をつくって結婚生活を長くつづけるのが、いちばん真っ当な人生だと思います。
多様性軽視になるので言わないだけで、一般的にもそういうものだと思います。わたしは離婚しており子供もいません。そういう人間が、ごく一般的な社会でどういうポジションを得られるか、考えるまでもなく解りきった話です。時代が進歩しようとも、男女がつがいになって生きるという人類の営みのプリミティブな要件は変質しようがないわけです。
したがってこの映画が伝えている父の焦りも全人類に解る気持ちです。じっさいにIMDB8.0、RottenTomatoes95%と91%で、外国人も高い評価で「秋刀魚の味」のペーソスに共感しています。
英題はAn Autumn Afternoon。「秋の昼下がり」という英題にしては珍しい独自タイトルですが『the taste of saury』と言うわけにもいかなかったのでしょう。
われわれにしたって「秋刀魚の味」ってなんなんという感じですが、この題は、娘を嫁にやって悲しむ父の話ではあるが、それは秋刀魚の味のように日常的なことだ──という意味を込めたものだと思われます。小津安二郎が次回作として構想をすすめていた映画の題が「大根と人参」だそうですので、日々接する食材のようなことを描いているのですよ、と小津安二郎は言いたいのでしょう。
確かに日常的な食材のようによく解る話ですが、まっとうな人ほど刺さる映画だと思います。周平のように娘を嫁がせた経験者ならなおさらです。逆にいけずごけであったり、人生に失敗した人にとっては、これが家庭メロドラマ第一号であることを考慮しても出来すぎのドラマです。
また、ひょうたんの描写はやや残酷に感じます。漢文教師が退職してラーメン屋をやっているのは、むしろポジティブな行動力ですが、映画でひょうたんはおちぶれた者のように扱われています。誤解をおそれずに言うと、ひょうたんの描写は、中産以上の階級が飲食業を見下した描写になっています。総じて小津映画の登場人物が比較的裕福かつホワイトカラーなので、ブルーカラーがやや卑しく描かれるきらいがあると思います。
そうは言っても、この映画の時代は日本の戦後高度成長期のど真ん中です。
佐田啓二が冷蔵庫を買うから金(5万円)を貸してほしいと周平に頼む場面や、トマトを借りにお隣を訪れた岡田茉莉子が掃除機を見て「どう掃除機、具合いい?」とたずねる場面や、お隣の主婦が(冷蔵庫を買うと言った岡田茉莉子に)「でもあんなの早く買うと損ね、あとからどんどんいいのができるから」と応える場面などがあり、時代性をうかがい知ることができます。
一方この映画ほど戦争がのんきに語られている映画もありません。周平は戦時中海軍で駆逐艦朝風の艦長をやっていました。燕来軒で朝風の乗組員だった坂本という男(加東大介)と偶然に出会い、岸田今日子がママをやっているトリスバーで飲み直します。
坂本『ねえ艦長どうして日本負けたんですかねえ』
周平『んん、ねえ』
坂本『おかげで苦労しましたよ帰ってみると家はやけてるし食い物はねえしそれに物価はどんどん上がりやがるしねえ』
(中略)
坂本『けど艦長これでもし日本が勝ってたらどうなってますかね。おいこれトリス、瓶ごともってこい瓶ごと。勝ったら艦長、今ごろあなたもあたしもニューヨークだよニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ、ほんとのニューヨーク、アメリカの』
周平『そうかね』
坂本『そうですよ、負けたからこそね、今の若え奴ら、向こうのまねしやがって、レコードかけてケツ振って踊ってやすけどね、これが勝っててごらんなさい勝ってて。目玉の青い奴が、丸まげかなんかやっちゃって、チューインガム噛み噛み、しゃみせん弾いてますよ、ざまあみろってんだい』
周平『けど、負けてよかったじゃないか』
坂本『そうですかね、うん、そうかもしんねえな、バカな野郎が威張らなくなっただけでもね、艦長あんたのこっちゃありませんよ、あんたは別だ』
「バカな野郎が威張らなくなっただけでも(よかった)」とは実際に戦地を転々とした小津安二郎の実感ではなかったかと思います。一兵卒にとってみれば戦争とはたんにバカな野郎が威張っていただけのイベントだったのかもしれません。
余談ですが画家、映画監督、小説家など、顔を見ることが後になるタイプの職業があり、じぶんが好きだったそのクリエイターの顔をはじめて見たときの印象というものがあります。で、いい仕事をするクリエイターは、おうおうにしていい顔をしているものです。そうではありませんか。わたしは面相をよめるわけではありませんが、小津安二郎の顔をはじめてみたとき、ああやはりいい顔をしている、と思ったのです。
岩下志麻さんの白無垢姿が見られます
昭和のお家という雰囲気。
父が笠智衆さん、
長男で結婚して別世帯をしている兄が佐田啓司さんでその妻が岡田茉莉子さん、真ん中長女路子が岩下志麻さん、
父の同窓会で恩師のヒョータンというあだ名の教師に東野英治郎さん、親友河合たち。
父家族と長男夫婦の生活が描かれ、
河合の会社に勤めている路子に父を通じて縁談の話。
笠智衆さんが教え子なのに、恩師の東野英治郎さんより
三歳年上。
路子役岩下志麻さん、正統派の美人。役では24歳ですが、当時21歳とか。スラっとスタイル良くて大人びた雰囲気。目力があり、ハキハキしっかりした様子。
佐田啓二さん、正面からはあまり似ていないが、
左横顔で首を傾げたところ、中井貴一さんにそっくり。
立ち姿もよく似てられる。
妻の秋子役岡田茉莉子さんに、ポンポン言われ通しの
優しい?夫。
笠智衆さん、他作品でも会話相手に頷いたり、復唱したりで多くを喋るシーンは少ないが、優しく穏やかな存在感バッチリ。
路子の縁談がまとまり式当日、白無垢姿が本当に美しい。
式後、河合の家に寄っても、心に穴が空いた気がするのか、亡妻の面影を持つママがいるバーへ。
岸田今日子さんだけど、笠智衆さんの服を見てお葬式の帰り?と聞く。ネクタイが縞々なのにおかしいし、
ふむ、と返事する笠智衆さんも。
娘の結婚式はお葬式か⁉️
帰宅しても長男夫婦が帰りかけると寂しくて、
一人酒を飲むのだ。
秋刀魚の味
秋刀魚の味、とあるが、本作に秋刀魚は出てこない。小津安二郎の作品には、お茶漬けの味という作品があるが、こちらにはお茶漬けを食べるシーンがさかんに登場する。秋刀魚のわたは、ほろ苦い味がするため、笠智衆の娘を嫁にやる独身親父の心情を表題で表現したものと思われます。また、この映画は老いた人間の孤独もテーマになっているが、老いた人間の孤独は62年経った今も変わらぬ普遍のテーマである。まさに小津安二郎の遺作に相応しい映画である。また、本作、何度観ても不思議と飽きない。おそらくこの作品には全く違和感のない日常が存在するから、ついつい魅入ってしまうのだと思う。人は映画のようにそうそう激情を表したりはしない、彼の映画はいつも普通なのである、その普通さが未だに人を引き付けて止まないのである。これがオズの魔法使いたる所以なんだろう。
好みでなかった
なりや社会的地位こそそれなりだが精神年齢的には離乳以前みたいなおっさんらがホモソーシャルのりの会話を繰り広げ、家父長制丸出しで娘を品評しあい「嫁に出す」までを描いている。娘が“行き遅れ”になることがいちばん怖いんだとさ。今の感覚だと、インドやイスラム圏の文化での女性の地位について告発する映画を観ているようである。そういう価値観は死にゆくのだ、という批評性もあるのかもしれないけど、結局おっさんの哀愁に回収されちゃううじゃなあ。/嫁にやるとかなんとかあたり、英語版でどう訳されてんのかな。
「あぁ、一人ぼっちか」
物語の最後、主人公の周平はこう呟いてから軍艦マーチを口ずさむ。
社会的地位があり、酒を酌み交わす学生時代からの友人達もいる。長男は独立しているが近くにおり、その妻は時々様子を見に来てくれるという。同居する学生の次男は明日の朝ご飯を炊いてくれるという。妻を早くに亡くし、娘を嫁に送り出したとはいえ、孤独とは言えない様に思う。
それでも強かに酒を飲んだ周平は、一人ぼっちだと呟く。そして娘のいなくなった2階へと続く階段を見上げた後、台所でわずかにふらつきながら自分で湯冷ましを注いで飲む。
まだこの心境を私は理解できない。ただ感じるのは、周りに急かされるように進めた娘の結婚が、果たして本人にとって良かったのかという自信のなさ。長男だけでなく娘のことすらも理解できていなかったという自覚。それらは、妻は自分と結婚して幸せだったのかという疑問に繋がっていく気がする。そうだとすればとても辛いし、とても孤独だ。最後に口ずさむ軍艦マーチは、「艦長時代も孤独だったじゃないか、明日からも大丈夫だ」と自分に言い聞かせていたのかもしれない。
様々なこだわりを感じる画作りは素晴らしいが、それ以上に娘を送り出す所からラストまでの流れの計算高さは恐ろしい。
…
この作品と対称的なエンディングとして思い出したのは、『花嫁の父』というアメリカの映画。岩下志麻とエリザベス・テイラー、どちらも娘の花嫁姿が言葉にならないほど美しいという点では共通している。
小津安二郎は、難しい。
ひどく平易な言葉と絵作りが徹底されているのに、小津を本当に理解するのは結構むずかしい。
まずショットレベルで難しい。あのオープニングクレジット明けの1枚目。ただの工場の煙突群なのに、映画という映画を見てきた観客なら、見た瞬間にノックアウトされる。逆に言えばこの絵にノックアウトされないなら、まだ小津を見る準備は整っていない。そして晴れた日の東急池上線のプラットホーム、若い男女が並んで電車を待つシーン。これも見てすぐ「ああ、これは容易ならない映画だ」と思い知ることができなければならない。
そして話の作りも、小市民的な外観は表層だけで、実はどろどろした現実がそのまま参照されている。この作品も台詞をきちんときいている観客には、社会低層に転落したかつての権威・ぶざまに負けた戦争・若い男女の避妊・後妻との夜の生活…がストレートに語られていることに気づくはず。笠 智衆ののんきな台詞回しに気を取られていては、これは分からない。
そして執拗に反復される、あの正面正対のきりかえしショット。これを撮るために、どれほどの手間と技術がそそがれているか。そして木造家屋の廊下、オフィスビルの通路、料亭の土間…を世間の設計図のように撮るための厳密な視線。
世界の映画史でも小津を本当に特別な存在にしているのは、これらの異様な技術的達成と、物語に組み込まれた意味の多様さ。
残酷で優しい、ひどく精密に撮られた映画史上の傑作。
小気味いい会話劇と、娘を送る父の哀愁
小気味いい会話劇と、哀愁漂う娘を送り出す父親。
台詞で表現されてるわけではないが、孤独と悲しみが伝わるのは何故だろう。
人の感情を表現するのが素晴らしい映画だ。
当時の価値観と現代はかなり違うのではあり、娘が父の世話をするために婚期を逃すというのも珍しいとは思うが、父と娘の関係性でいえば今も変わらない気もする。
名作だから面白いというのではなく、自分は見ていて全部面白かった。1秒たりともつまらない部分がない。日常描写だけしかなくかなり淡々としているんだけど、テンポよく小気味良い会話劇であっという間に終わった感じ。また他の小津安二郎の映画が見たくなるほど、作品が好きになった。
岩下志麻さんの若い頃の作品だけど、すごく美人ですね。この人の魅力でもこの映画の価値を上げてる気がする。
父親役の笠智衆もいいよねぇ。
配役みんないい。味わい深すぎる。今だからこそ見ていて新鮮な気持ちになる。
ちなみに、タイトルの秋刀魚の味。本編に全く秋刀魚出てこんやん。一体どういう意味なのか。。。
劇中に食事シーンやお酒飲むシーンが多いけど、見てたら食べたくなったり飲みたくなってくる。。。
厨房に入らない父と台所に立つ息子
戦後17年目、1962年(昭和37年)に公開された本作は、3世代の男たちそれぞれの生き様を台所に立つか立たないか、でみせてくれます。
高齢者代表、佐久間清太郎(東野英治郎)
元旧制中学校漢文教師という教養の持ち主だが、今は場末のラーメン屋を営む。早くに妻を亡くし、娘(杉村春子)と二人暮らし。経済的にも逼迫しており、裕福な教え子たちから施しを受ける立場になってしまう。酒に酔うと娘が結婚できなかったのは自分のせいであると自分を責め、後悔の思いを口にする。なんとも惨めな境遇の男を名優東野英治郎が快活に熱演している。生きるために厨房に立ち続けざるを得ない「なにも持たない高齢男」。
戦中派代表、平山周平(笠智衆)
戦時中は海軍の巡洋艦の艦長だったが、今では大手企業の重役に収まっている初老の男。妻を亡くし、24歳の長女路子(岩下志麻)、次男和夫(三上真一郎)との3人で都内一戸建てに暮らしている。路子は秘書として会社づとめをしながら平山家の家事を担っている。外では明るい笑顔を見せるのに家では能面の路子。彼女の抑圧された感情に鈍感な父は気づかない。ついに路子を嫁に出した晩、ガランとした台所で今後の生活を思い、呆然としてしまう父は、自分では家のことを何もしない「男子厨房に入らず」を地で行く「戦前男」。姉に晩飯を催促する甘えた次男には「台所で食え。自分のことは自分でしろ」と、自分にできないことを言ってしまう。
戦後派代表、平山幸一(佐田啓二)
周平の長男で路子と和夫の兄。結婚を機に家を離れ、近所のモダンアパートで気の強い妻秋子(岡田茉莉子)と二人暮らし。安月給のサラリーマンであり、冷蔵庫の購入費を父に無心してしまう。稼ぎが少ないことを妻に責められてもぐっと我慢し、決して暴力は振るわない。中古のゴルフクラブを買うのにも妻の顔色を伺わねばならない悲しさ。子供を作る余裕もない。共働きの妻が遅くなる日はエプロンを付けて台所に立ち自ら料理もする。心の奥に不満をためながらも妻の尻に敷かれてそこに安住してしまう情けない「新しい男」。
時代とともに、男は台所に立ったり立たなかったりする。台所に立つのか立たないのか、立ちたいのか立ちたくないのか、あるいは立たざるを得ないのか。本作は台所との関係から男の生きざまを考えさせてくれる。3人のうち誰が幸せで誰が不幸せなのか、それは単純には決められない。「男子厨房に入らず」というのは本来、夫と妻の仕事を分けることで相手に対する敬意を持続させようとした先人の知恵だったのでは。台所に立たない男は妻がいないと飯も食えない。だから妻に頭が上がらない。台所に立つ男はいざとなれば自活できる。長男の幸一はそのうち妻の不機嫌に我慢できなくなり家を出そうな気がする。男が台所に立つようになって離婚が増えたのではないだろうか。
劇中で「ひとりぼっちか…」とつぶやく周平だが、まったくひとりぼっちではない。妻はいないが子供達がいるし、中学の同級生の飲み仲間、河合と堀江がいるし、海軍時代の部下坂本芳太郎がいる。あと、バー「かおる」のマダムもいる。
妻を亡くした孤独を酒で紛らわすしかない周平。どっしりと安定した妻にしっかり支えられている河合。娘ほど年の離れた後妻にめろめろの堀江。飲み仲間3人の関係性も面白い。河合は路子の上司の設定であり、路子の孤独に気づき、父を説得しそれを救う役割を果たす。河合は本作の中でもっとも「頼れる男」であり、それはもちろん妻であるのぶ子(三宅邦子)のおかげであり、おそらく河合は台所に立たない。堀江はいつもウキウキしており、妻に先立たれてもあんなに美人で若い後妻がもらえるなんて、と観客の男性たちに「希望を与える男」。堀江は若い妻と一緒に台所に立っているかもしれない。坂本は苦労しながらも立派に自動車修理工場を繁盛させている「快活な男」。活力あふれる加東大介がはまっている。おそらく坂本は台所に立たない。台所に立たない(立てない)男は、1人残された時に粗大ごみと化してしまう。男はいつまでも飲んでばかり、女に頼るばかり、ではダメで、時代に合わせて生き方を変えていかないといけない。秋刀魚ぐらいは自分で焼け。そんなことを言われた気がしたが、果たして母と2人で暮らした小津監督自身は台所に立っていたのだろうか。
現代の女性たちは男の世話から解放されたが、代償としてわれわれは40歳以上になると介護保険料を取られるようになってしまった。当然離婚も増えた。そして男も女も自立生活が送れなくなると、施設に入れられるようになった。小津監督ももっと長生きしていたら、最期は施設でひとり寂しく亡くなっていたのかも。
バー「かおる」は戦争の傷がいまだ癒えない男たちの集う場所。彼らはここでだけは素直に胸の内を吐露できる。「もし日本が勝ってたら…」なんて未練たらしい話もできる。かおるのママはそんな男たちに強い酒を飲ませ、安楽な眠り(死)へいざなう役目であり、岸田今日子が妖しく演じている。
秋刀魚は出てこない
主人公が、手に入れた幸せがいつの間にか減っていく
そんなことを思ってしまった瞬間を切り取った作品なのだと思います
日頃生活していても不意にくる淋しさはどうしようもなく、遠くを見つめたりため息が出てしまうものです
日常のほんの一コマ、歳を重ねる不安は何かで忘れるしかない
そのことばかり考えたって漠然とした不安はどうもならないもの
私もそんな歳にさしかかって来てます
若くて無鉄砲で脂が乗り切っていた頃はそんな不安などみじんも感じなかったのにいつの間にか着実にやって来る
子供の歳を声に出して言った時愕然とした時のことを思い出します
思わず
「嘘だろ〜」
と呟いてしまった
そして自分がどれほど歳を取ったのか身に染みるのです
幸い私には幾つかの道楽がある
歳をとっても出来ることばかりの
悲しみを忘れさせてくれる
道楽は良いものです、趣味と言い換えればカッコがつくし
まだ引っ込むには早すぎる!
僕のベスト1映画
人生が、いかに滑稽で
哀しくて切なくて
儚いかを、詩情豊かに
描いてくれる。
この映画を観るたびに、
人は必ず死ぬんだよなぁ、
としみじみ思うのです。
杉村春子の慟哭、
東野英次郎の酔態、
笠智衆の独語、
ユーモアの中に浮かび上がる
血がにじむような孤独、哀切。
うん、人生って瞬く間に
過ぎるよな、と、年を重ねるごとに
心に染み入る映画です。
高度経済成長期の家族が透けて見えた
「秋刀魚の味」は初視聴。1962年の作品ということで、高度経済成長で日本が豊かになり、核家族が増えて家族関係も変わっていく時代かと。平山(笠智衆)を中心として、サラーリーマン勤めの同僚との関係、夜のお付き合い、家に同僚を招いての飲み会、女性社員との会話などが、過去の作品との違いか。そういえば、自分の父親もそんな感じだったなあと思い至った。冒頭、白と赤の工場の煙突から始まるのだが、この時代を象徴していた。
平山が妻を亡くした経緯は描かれないが、平山が駆逐艦の館長で戦地に行っていたことで、妻は子どもたちと疎開して苦労したのだろう。長女の路子は、早くから家を切り盛りしてきたせいか、気丈でしっかりしていてキツイくらい。アパート暮らしの兄は、安月給なのか妻に財布をしっかり握られ恐妻家。数年後の路子の生活なのかもしれない。女性の地位が上がってきた頃なのか、女性がはっきりとしていて、飲み屋の女店員さんの服装も変わっていく様子が見られた。そして、男のために女が犠牲になる必要はないっていうのも、この時代あたりから始まっているのではないだろうか。
平山が娘を送り出して、トリスバーに寄って妻の名残が見える女性を見つめ、軍艦マーチを聴いている様子は、妻がいた頃の若かりし頃を思い出し、その妻の代わりを娘に投影して、務めさせていたことに思い至ったいたのであろう。娘に頼れなくなって、改めて妻に立ち返ってというところか。しかし、平山のようなタイプは、若い妻をもらうタイプではなさそう。
とかく男は、妻やら娘など、家に女の人がいないとダメっていうテーマ性を感じた。戦争が終わって男尊女卑を喧伝していた軍国主義が終わって、曇りない目で見てみたら、家族にとっては女性の存在が大きいっていうのを映し出しているみたい。男が威張り散らしていただけの古き時代は終焉したのだ。そこから、現在に向けて男も家事やら育児を手伝うように変貌していくけれど、それはもっと後のお話か。
小津作品は、セリフが短く、表情の変化は少なめ、ドラマチックな展開、誇張やデフォルメ等がなく、淡々として硬質な感じで、あまり修辞がないセリフを枠に嵌めていくような趣がある。それ故に、様々な解釈が可能になるような味わいを生み出すのかもしれない。
サンマはいいだろう。 しかし、亡き妻の遺影・仏壇が結局一度も出てこないことの拭えない違和感
敵を作らない人畜無害な男=笠智衆。
上映当時の小津監督や世の男性はこういう男に魅力を感じたのだろうか?
何も起こらない小津映画の典型として、宇宙人の映画でも見るような気分でこの「秋刀魚の味」を観、
ちょっとため息をついてしまった。
笠智衆にとっては、彼にとっての「改革」といえば、敗戦後の無気力さから立ち直ることも出来ずに、フラフラと今夜も岸田今日子のトリスバーに通うことだけなのか。
あの ひょうたん先生の東野英治郎が、小汚い中華料理店の主人として灰塵から再出発し、かつての戦艦の乗組員加藤大介は自動車修理工として笑顔で油にまみれ、
息子佐田啓二は恐妻家でありつつも共働きの妻の帰りを待って、エプロンをかけて台所で甲斐甲斐しくおかずを作り、
次男は早起きして老父のために朝食の準備をするというのに。
すべてにおいて暖簾に腕押しの笠智衆。
鴨居には仏像の額がかかっていて、悟りを開いているのか、あるいは死んでいるのか。この男は。
小津安二郎は、
独特の撮影技法や台詞の言い回し、そして無言のシーンや静物に多くを語らせる ユニークな作風の監督なのだが、
あまりたくさん観るとこちらまで無気力な痴ほう状態になりそうで、そら恐ろしいのだ。
これが集大成にして最後の作品というから、なおさら小津安二郎の精神状態には懸念を覚える。
ベトナム帰還兵のPTSD様のものが、もしやかつての海軍の平山艦長にはあったのではないかと、
それはもちろんまったく触れられてはいないし、こちらの読み込みが過ぎるかも知れないが、「戦争ブラブラ病の患者」の末路の様相を、静かに見つめて描いているのだとすれば
これはひとつの反戦映画ではある。
軍艦マーチは執拗に流れ、泥酔した平山の口からもそれはこぼれ漏れる。
そして、
表題にも書いたのだが、
娘路子の婚期にこだわっているのか、関心が薄いのか。
また、平山の亡き妻は彼の中に生きているのか不在なのか、
「失敬するよ」とすぐに人前からいなくなる平山の、人間関係の希薄さ。そこに彼の風貌も加わり、いささか不可解で、不気味で、オカルトなものを感じてしまった。
・・・・・・・・・・・・・
追記
他の方のレビューで知りました。小津安二郎は生涯独身であったとのこと。
家庭を描いているふうでありながら、家庭人のようには見えない笠智衆という人物が、実は「小津の生立ちの自己投影」を担っているのかなァ・・と思うに至りました。
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【おまけ】
しおらしく父親の言いなりになって嫁に出された長女路子ちゃん=岩下志麻 (当時21歳)。
あの岩下志麻が嫁いだ先でのちに「極道の妻」に変身しちゃうとは誰が予想をしただろうか(笑)
芸人の清水ミチコが、ほんの数秒の短い形態模写をやっているので、ご興味のある方はどうぞ
YouTube
清水ミチコ映画『極道の妻たち』の岩下志麻の凄い電話の出かた
日本が誇る映画界の巨匠 小津安二郎監督の遺作であり名作中の名作
当時21歳の岩下志麻さんが若くて可愛かった、涼やかで凛とした雰囲気がすごく魅力的でした
他界した母親の代わりに家事や父親のめんどうを背負い一生懸命やっている姿がけなげだった
そんな娘が家族のせいで恋愛もできず、婚期も逃してしまう危うさに気づき、娘の結婚を考え始める父親を笠智衆さんが哀愁漂う演技で魅せます
いつ観ても笠さんの酒をチビチビやる演技は最高、自分もすごく呑みたくなります
一番印象に残ったシーンは、笠智衆さん、加藤大介さん、BARのママを演じる岸田今日子さんが軍艦マーチをバックに敬礼するくだり、岸田さんの敬礼している絵面がすごく色っぽくて魅力的でした
小津作品の中でもカラーでテーマも割りと解りやすいため、入門編としては最適ではないでしょうか、オススメです
完成された映画とはこれ!
小津安二郎は同じホームドラマを何度も繰り返しているだけで、面白みがない、革新的じゃない。……当時はそのように言われていたようだ。
確かに過激な内容ではないし、いわゆるドラマチックな展開が用意されているわけではない。なのだが、父と娘の結婚を巡る話ではあるものの、今回は一番下の弟以外家族全員働いているという「結婚前の娘だから家にいる」習俗から外れた現状を反映した設定になっている。
小津の映画は保守的といわれるが、そこに映し出される風景や風俗は当時の最新のものが積極的に取り入れられている(森永チョコレート、トリスバー、横浜トヨペット、キノエネ醤油、サッポロビール…風景に現れるブランド名のなんと多いことか。同年公開の松竹映画『切腹』のポスターまで登場)。飲み屋にテレビがあるのも当時としては新しいものだっただろう。家の中では小型テレビまである。長男夫婦が団地に住んでいるというのも、新しい生活様式だった。
家の中での妻も、ただ夫に唯々諾々と従う存在ではなく、ズバズバと夫に意見を言う姿が、夫の対応も含めて観てる男側としては辛いものがあるものの楽しい。本当に男っていつになっても子供なのだなぁと。
この映画の特に好きなところは、主人公の旧友たちとのやりとりだ。こんなに面白くてしかもオチまで付ける会話が他にあるだろうか。
いざ娘の結婚が決まっても、良かったねですまさず、想像の余地を残している。父が結婚式の後寂しげなのは、娘が家からいなくなったからだけではなく、自分が娘に注意を向けなかったばかりに、意に沿わない結果を押し付けてしまったのではないか、と後悔しているようにみえる。
小津の映画は何度も観てきたが、日本家屋の中で映像を構築する上で小津がよく使うローアングルは、人物が背景から浮き上がって見える効果を得ている。狭い空間で障子・襖・窓ガラス・家具などの造形を立体的に見せるための考えられた手法なのだと、改めて思った。
ザ・昭和
どの役者さんも若く、美しい。セリフ回しがプチプチ切れる(言い切る)中に、当時の話し方を見たような気がした。
令和の価値観ではあり得ない事ばかりで、時代の変化を見せつけられた。
今は娘の方が、絶対良いですからねぇ^_^
【人と人との確かなる絆を描いた作品。ロウアングルでの固定描写が品性ある趣を醸し出している作品。世界の多くの監督に多大なる影響を与えていると言われる小津監督の人間賛歌に溢れた作品である。】
■平山(笠智衆)は、妻に先立たれてから一切の家事を美しき娘の路子(岩下志麻)に頼っていた。
ある日、中学時代の同窓会に出席した平山は酩酊した恩師(東野英治郎)を送っていくことに。
そこで零落した恩師の世話に追われて婚期を逃した娘(杉村春子)と出会う。
それから平山は、路子の縁談について真剣に考えるようになる。
◆感想
・恥ずかしながらの初鑑賞である。小津安二郎監督の作品は、配信で数作鑑賞していたが、総て原節子さん出演作である。
・今作を観て思ったのは、人間関係の優しさに溢れた濃密さである。
冒頭に描かれる中学時代の恩師”瓢箪”を囲む平山を含めた教え子の姿である。零落した恩師に酒を注ぎ、酔った恩師をキチンとタクシーで送る姿。勿論、その後恩師に対しての辛辣な言葉も出るが、基本的には彼らは恩師を慕っているのである。
・そして、恩師の娘の姿を見て平山は路子に頼り過ぎている自らの姿に気付くのである。
■それにしても、年代的に今作に出演している俳優さんの殆んどは亡き人である。だが、彼らは今作の中では活き活きと生きているのである。
何だか、感慨深い想いに耽ってしまう・・。
・岩下志麻さんは、今でも驚異的なお美しさを誇っているが(羨ましくはないが、中尾彬さん、大切にするよーに。(上から目線)当時の圧倒的な美しさには圧倒される。(ホント、スイマセン・・。)
<今作が不惑を越え、娘、息子が結婚適齢期になった男に響くのは、笠智衆さん演じる平山が娘の幸せを考え、彼女の結婚を進めるシーンであろう。
今ではこの考えは時代遅れと思われても仕方がない気がするが、自分の子供の幸せを望む姿は、矢張り心に響くのである。
”世界の小津”と今でも言われ、多くの海外の映画製作者たち(敢えて言えば、アキ・カウリスマキ監督、アッバス・キアロスミス監督、若手で言えばコゴナダ監督。)に多大なる影響を与えていると言われる監督の人間賛歌に溢れた作品である。>
失われた東京の風景と、その時代の空気を閉じ込めた。
小津監督の描いた、その時代の苦さ。
笠智衆の父、 岩下志麻の娘。
東野英治郎の父、 杉村春子の娘。
観客は淡々と進む物語に溶け込み、
そこに生きる人々の姿を見守るだけ。
そして監督の決めた画角に人間を感じるだけ。
バーのマダム役の岸田今日子がいい。
娘の居ない部屋、その風景と父がいい。
※
無常ということ
世界に誇る巨匠小津安二郎の遺作。
結婚をめぐり、父が娘を家族と思う作品。寂しさと1人ぼっちという哀愁と切なさ。常はなく明るい一家団欒も時とともになくなっていく様。
カット割、音楽共に美しい。これぞ日本の映画だとしみじみと思った。平成生まれの僕からしたらやはり価値観として相容れないシーンも多々あった。例えば、演壇など男だけで進んでいくところや恩師への態度である。
戦争が終わり一つの時代が終わり、威張ったやつらは皆いなくなった。それは、この時代の価値観共にである。大量消費時代に突入し、核家族化し、古きものは新しきものにとって変わられる。
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