「悪女は目覚めたのか」月曜日のユカ Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
悪女は目覚めたのか
『月曜日のユカ』
星の数での評価は難しい。ただ中平康監督という人は、現在のアダルトビデオやお色気映画の人たちよりも数段複雑な頭脳だったという事だったかも知れない。解説者が映画の前に実験的な事をよくする監督だなんて言っていたが、加賀まりこのユカがオープニングが終わるところで静止したウインクの状態から目をあけてスタートする時点から1964年(昭和39)の映画で既に今よりも新しい気さえした。最初から卑猥な噂話や今でいうパパ活のような愛人まがいの会話の中に人種の色についての話などがされていて、ここら辺から既に50年前から現在の間に抑制されていった思想状況が垣間見られる。と書いていたところでコマーシャルになってカラーになって驚いたが、NHKプレミアムでなくて、BS12で録画していたことを思い出して、訂正できた。危ない。嘘を書いてしまうところだった。勘違いからであるが。昭和39年当時の人々の感覚はどうだったのか、現在では70歳前後の人たちからだろうが、19歳の設定とか言ってなかったか忘れたが、タバコは吸っているし、現在のように露骨には映像にしていないが、老人と性行為をしている描写の後で、中尾彬が演じている恋人なのかなんなのかという男も出てくる。この人たちが中年以降でしか見てこなかったが、さすがに20代と思われる頃は美男美女である。企画が水ノ江滝子と出ていた。中尾の若い男は老人の存在を知っている。どういう関係なのか。老人は加藤武だが、老人とは不倫で、老人が奥さんと一緒にいる家が遠くから見えて、ガラス張りなので、そこで不倫の癖に嫉妬して当てつけのために、中尾の若い男と野外セックスしてしまう。露骨には性行為の映像はしていない。日本映画なのに、教会でマリア像が出てきて、中途半端な性愛とキリスト教の関係をみせていたりする。現在援助交際をしているバカ少女たちのじいさんばあさんの頃の映画だが、何を後世に残そうとしていたのか。ユカは性行為はするのにキスはさせないという意味不明の話もある。ホステスのような仕事だったらしい。カタログ的なつぎはぎの人生。男も取り換えられる。そんな女を魅力的にみせようとする策略はこの時代の限界で後の世界への罪悪にも思える。共同脚本の一人が北の国からと同じだが、そのドラマもフリーセックス的なところがあったと思うし、これも後世への罪悪だろう。単なる売春婦の話に近かった。紙切れのような話である。ろくな時代ではなかったために、後世も狂ったままなのだろう。だが性描写は現在ほど露骨ではない。
加賀まりこもセミヌードの範囲で性行為を想像させている映像描写ではある。ここら辺が反転していったのだろう。踊っているシーンの音楽選択は雰囲気があると思うが、踊りはただ身体をゆすっている程度のものだが、それでも雰囲気は出ていた。ここら辺が陶酔のトリックなのかも知れない。そしてなぜか教会で「本気で愛してあげるわ。神様の前だから嘘はつかない」と言って、5人の男の前で後ろむきだが全裸になり、肩から上しかみせないが、全裸を5人にみせる。男たちは集団で加賀まりこをまわさずに無言で無表情に立ち去る。ユカは「どうしたのよ」と何度も言うが、集団性行為は為されずにユカ一人残る。これはどういう思想を吹き込もうとしたのか。むしろ女が滑稽にされている。解説者はこの場面だと特定はしていないが、フランス映画的のように言っていた。このシーンはいったい現在の爺さん婆さんはどう思ったのだろうか。加藤武の「パパ」の愛人も単なる度スケベじじいに過ぎない。加賀まりこの分厚い上向いた上唇が卑猥だったのだろうが、目が力を失ったようなどんぐり眼はなぜかプリクラで写っている現在の浮遊した小娘と同じようなもので、なにかの脳の部分の作用なのかも知れない。ユカは単なるバカに過ぎないのだが。バカにバカにされるんが淫乱なのかも知れない。しかし東京オリンピック開催はこの映画の七か月後なのだそうだ。
なぜかとてもルックスが格好いいのだが、中尾彬が友達とセックスした加賀まりこを怒っている。その理由が、俺はどうして道端でセックスして友達とはホテルでしたんだという理屈なのだった。人形がキーワードとして出てくるが、ある面、セックスに軽い女性の蔑視皮肉映画にも思える。日曜にパパと歩くというと、中尾彬が日曜は家族と過ごすもんなの。と加賀まりこに怒る。それがタイトルの『月曜のユカ』となるのか。「いいわ。日曜がダメなら月曜があるわ」とまるで相手の家族を気にしない。中尾彬が怒りだして出ていってしまう。男がしっかりしていて、女が軽いバカに描かれている。
とんだバカ女をけなすためのお笑い映画だったのかも知れない。逆説的にこうやってみせないとすでに50年前からどうしようもなかったのだろうが、無駄だったようだ。ユカの母ちゃんが女は売春しても喜ばすものだというものだから、教育が悪かったからそうなったのだという風刺もあったのだろうか。実の母ちゃんなのか、ホステスの先輩なのかちょっとわからない。風俗嬢の同伴話なのだが。食料の輸出入売買と女も一緒のようなアメリカ人の会話が出てきて、これだけフリーセックス女をバカにしているのも面白いが、その通りに女はさらにひどくなっていった。やはり母娘で馬鹿親子だった。娘の不倫愛人の加藤武に喜んで会おうとした狂った母親。こんな精神分裂のような映画の監督の娘の作家は猪瀬直樹と不倫していたのだという。その娘は自殺未遂を繰り返したという。そして今もテーマとして繰り返されているが、母子家庭事情からのホステスみたいな面と、そんな汚れた女でも、中尾彬が立ちなおさせるための天使のような存在として出てくる。普通は男女逆なはずだが。中尾は俺が稼ぐから一緒になろうという。朝飯を一緒に食うことになんな。映像技術的には中尾は声だけで、その間ずっと加賀のクローズアップをさせていた。愛人パパの商売から、ユカにアメリカ人船長とセックスしてくれと頼む。「なんでも言うことを聞いてやるしパパはユカが大好きなんだと詰め寄る。」ユカは、「いうこときいたらパパはうれしい?」と聞いて、承諾するが、そのかわり10万円くれという。昭和39年当時の10万円である。いいだろうという出ていく愛人パパと、無表情のユカ。そこに中尾彬が怒って出てくる。「なんて返事した」、あたしにキスしていいわと青年にユカがいうと、青年は頬を張って出ていった。そしてユカが少女の頃に、母親が売春する場面をみたのを思い出す。神父がそれはいけないと日本語でいい。やがて英語になってしまう。この場面も揺らいでいる社会の中で何か言いたかったのだろうと思う。張られたユカは落ち込んでいた中で、青年は自殺してしまう。まるで元アイドルに不倫されて死んでしまった夫のミュージシャンと同じようだ。男のほうに貞操性、純情性を与えたところが、日本の逆転現象をみせていて、決してフェミニズムの加賀まりこのための映画ではなかった。これは現在の人間には難しい映画だろう。ユカはセックスした友人に言われて死んだ青年に初めてのキスをしたが、なぜかわからないだろうにマリア像とそのような音楽が流れる。ユカの頬に涙が伝う。その後ユカは身体な性行為するが、キスはだめだと叫びながらアメリカ人のデブな男に犯される。その間に聖書がずっと映し出されている。ここにアメリカ人への皮肉も込めている様子がある。唇をいやそうに拭うユカを助けに来たのは愛人パパだった。倒錯だらけである。船を降りて埠頭で「踊ろう」とパパに行って一緒にダンスをする。パパに頼まれたアメリカ人とのセックスだったのか。その後でパパと踊り、青年は自殺した。
しかしそこまでは長い前置きだったのだと思う。フランスやアメリカでも流行った手法らしいが、危険な構成だ。悪女。これはネタバレをあえてするが、踊りの途中でユカは愛人パパを海に突き落とす。助けてくれと叫ぶパパをしゃがんでじっとみるユカ。愛人パパは沈んでいく。歩くユカに向かってパトカーが通り過ぎる。