月曜日のユカのレビュー・感想・評価
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ユカの姿の耽美さ
<映画のことば>
「日曜ってのはね、家族サービスの日なんだ。家族と歩くから、日曜は楽しいんだ。お前とじゃあ、日曜はダメさ。」
「あたしとでも、日曜はダメなの。」
「日曜は、家族と過ごすものなの。」
「いいわ。日曜がダメなら、あたしは月曜日。」
クラブ「サンフランシスコ」の客同士の間柄ということで、ユカとパパとが、どんなきっかけで付き合うようになったのかは、本作が詳しく描くところではなかったと思いますけれども。
港町(横浜)、外国船も入港、世界の文化・文物に触れることのできる土地柄、その「浜っ子」としてのユカの開明的・開放的な性格も、下地にはあったのかも知れないと思いました。
評論子は。
しかし、いかに「パパ」とはいえ、本当の父親ではなく、しょせんはクラブの客同士の間柄。
商取引の成功のためには、簡単にユカを「供出する」ような挙に出ることからも、それは明らかというべきでしょう。
反面、ベッドを共にすることは差し支えないけれども、子どもの時分に牧師から固く止められたから、キスは絶対にダメというユカの考え方も、面白いとは思いました。評論
子は。
牧師の戒めは、たぶん(夫婦の間柄になるのでなければ異性と)キス以上の関係を許してはいけないということだったのだろうとは思いますけれども。
ユカ自身も、パパとの間では得られないことはアタマでは理解しながらも、やはり人間的な関係性を築くことのできる「誰か」を模索していたー。
あたかも暗がりの中で見失ってしまった何かを手探りで捜すように。
(上記の牧師の諌めも、その言葉・字面どおりそのものに受け止めている、その素直さということも含めて。)
パパとの関係を維持しながらも、なお修とも関係性を模索していたのも、そう考えると、彼女の心情としては、納得がいくようにも思われます。
会社を経営し、それなりに富裕であった「パパ」との関係も、年齢的には近しい(それ故に価値観も近しかったであろう)との関係も、ユカには、どちらも捨て難かったのだろうと思いました。
評論子は。
そう受け止めてみると、評論子には、本作は、哀れな(?)ユカの心情が、とてもとても心に痛い一本で、充分に佳作としての評価に値するものでもあったと思います。
(追記)
本作は、モノクロ映像の作品なのですけれども。
モノクロで撮影されているからこそ、馴染みの中年客とベッドを共にする時のユカの下着姿が、いっそう鮮やかです。
おそらく、暗赤色なのではなく、そのものズバリ黒のビキニの下着だったのだろうと、密かに推測しました。評論子は。
この時代に、こんなに耽美的(?)な作品が撮られていたことに、驚きと敬意とを感じます。評論子は。
(追記)
この当時から、水商売の女性が男女の関係を結んだら客は「パパ」だったのですね。
元々は「パトローネ」が語源のようですけれども。
(追記)
「日曜日は家族サービスデー」なんて言われても、もはや「死語」なんじゃあないでしょうか。それは。
「モーレツ社員」(これも死語?)のサラリーマンが、夜討ち朝駆けで働いていた、高度経済成長期のお話しで、ワーク・ライフ・バランスの昨今は、「家族サービスデー」何て言うと、むしろ「家族で利用すれば料金が割引になるサービスデー」という意味に、今日日では受け取られてしまうのではないでしょうか。
時代の流れを感じます。評論子は。
【”パパは日曜日は家族と、月曜日はアタシと遊ぶの。”コケティッシュな美貌際立つ、若き加賀まりこさんの魅力全開作。ジャパニーズ・ヌーベルバーグ・ムービーでもある。】
ー 噂には聞いていた作品だが、1964年にこのような先鋭的な邦画が製作されていたとはビックリである。-
■横浜の上流クラブ”サンフランシスコ”で人気を集める18歳のユカ(加賀まりこ)は、平気で男と寝るがキスは絶対にさせず、教会にも通う、コケティッシュな女の子。
ユカには修(中尾彬)というボーイフレンドと、船荷会社の社長である初老の“パパ”(加藤武)がいる。
パパが日曜日に娘に人形を買ってあげる姿を見たユカ。そして、ユカは月曜日に着飾って出かけるが、パパから或るお願いをされる。
◆感想
・序盤の、パパがお得意先の外国人船長フランクを”サンフランシスコ”でもてなすときの、奇術師の男が披露するマジックのシーンから、この映画は邦画ではなく、ヨーロッパのヌーベルバーグムービーの装いを帯びている。
・加賀まりこさん演じるユカは、童女のようでありながら、男達の前で妖しく全裸になる淫らさも見せるが、全く嫌らしくなく、加賀まりこさんの美しい背中のラインが印象に残る。
・ユカの母を演じた北林谷栄さんが、相当若かった筈なのに、既にお婆さんの様な雰囲気を漂わせているのも凄い。
<パパの願いで、外国人船長フランクと寝る事になったユカが、幼き時にキスシーンを見て、牧師さんから”アレだけはイケナイ‼”と言われた事が脳裏に激しく残っていたために、フランクのキスを激しく拒絶し、外で待っていたパパと船のデッキの上で一緒に踊り、弾みで海に落ち海中に沈んで行く”パパ”を膝小僧を抱えながら、助ける訳でもなく見ているユカのあどけない表情。
そして、彼女は一人軽やかに、町の中を歩いて行くラストシーンも、正にヨーロッパのヌーベルバーグムービーの様である。
何だか、凄い先鋭的な邦画である。>
何が撮りたいのか分からん
「加賀まりこ」のドッアップだけが印象に残る映画ただそれだけ、コメディでは無い恋愛でも無いただただ無軌道、舞台は横浜何だけどお洒落と言うより只の場末の街に見えるはっきり言って全てが朧、焦点のボケた印象だけが残ったコレは「加賀まりこ」の為の映画だしそれだけで終わった映画だと感じた。
掴めないもの
1964年頃の横浜が舞台。元町や山下埠頭、ホテル・ニューグランドなど当時の街並みが楽しめました。オシャレな雰囲気と音楽はいいのですが、物語や主人公に共感するところはほぼありませんでした(汗;)。多くの男性に引っ張りだこのユカ(加賀まりこ)が無償の愛を連発するところが虚しく感じられるのですが、当人があっけらかんと屈託がないのが救いなのでしょうか。男を喜ばせることが女の生きがいというような台詞に隔世の感をいだきましたが、エンディングまでみると、アンチテーゼ的な部分もあったのかもしれません。私にとっては、なかなか掴みどころのない作品でした。
刷り込み
奔放という言葉がしっくり来るユカ、とても可愛く魅力的なれど、ママ(北林谷栄!)の影響か一般的な価値観を持てない環境で育った様で周りとは常に軋轢ができてしまう。その反面、幼い頃に神父さんに言われた言葉を大切に守る。明るく軽く見せつつ、美しいのに残念な女。中平康、斎藤耕一、倉本聰。
加賀まりこの魅力が半端ない仏ヌーベルバーグ風のとてもお洒落な映画
中平康 監督による1964年製作(93分)の日本映画。配給:日活、白黒映画。
舞台はお洒落な横浜。加賀まりこ(1943年生まれ)が若い頃、こんなにお洒落で小悪魔的魅力満開であったとは驚き。
貿易商でお金持ちのパパ(加藤武)がいて、誰とも寝るがキスは許さず教会に真面目に通い、男を悦ばせるのを生き甲斐とするという主人公ユカの設定も、かなりぶっ飛んでいる。しかし、斎藤浩一・倉本聰脚本(今思えば何とも豪華!)と中平康演出がそれにリアリティを与え、彼女の可愛さ・美しさ・生真面目さを、上手く引き出していた。
パパの存在承知でユカと付き合っていて生真面目で結婚を申し込む青年役が中尾彬。彼には普通に独占欲が有るが、ユカにはそれが全く理解出来ない模様。それには北林谷栄演ずるユカの母の存在がある様で、愛人となっていた米軍兵士相手にいかに尽くしたかを娘に熱心に教授するケッタイな母親。
物語進行はかなり仏ヌーベルバーグ調で、恋人中尾彰もパパの加藤武も、事故で亡くなってしまうが、動揺もせず何事もなかった様に歩いて行くユカ加賀まりこの映像で映画は終わる。未来が開けている若き美しい彼女にとっては束の間の出来事ということか。
加賀まりこの髪型(ヘップバーンに似せた)がとても素敵だったが、撮影所の美容師ではできないために、自分で苦労してセットしたらしい。また衣装や毛皮も、めちゃお洒落に思えた。黛敏郎によるジャズっぽい音楽もお洒落なこの映画と良く合っていて、印象に残った。
監督中平康、脚色斎藤耕一、 倉本聰、原作安川実、企画水の江瀧子、撮影山崎善弘、美術大鶴泰弘、音楽黛敏郎、録音橋本文雄、照明森年男、編集辻井正則、スチル斎藤耕一、衣装レイ落合、毛皮提供 築地・斉藤毛皮店。
出演
加賀まりこユカ、北林谷栄ユカの母、中尾彬修、加藤武パパ、波多野憲奇術師、ウィリアム・バッソン船長、牧師ハロルド・コンウェイ、梅野泰靖、日野道夫、フランク・スミス、
榎木兵衛、堺美紀子、谷隼人、山本陽子。
どうして月曜日なーのー
もうすぐ80歳を迎える加賀まりこさんの20歳のときの作品。
今のイメージが強いので、若い頃はどんなだったのー?と、写真は見たことあったけど、演技してる動画は見たことなかったので、初めて拝見しましたら、まー可愛い。これ日本人なの?マジ?
ってなくらい、60年代の女優 加賀まりこさんは素敵でした。
ただ、昔の映画って、セリフが、The!セリフ!って感じだし、そもそもこの映画自体が何を意味してるのかがいまいち私のようなヘーボンな女にはなかなか理解するのが難しくてですね。この映画でかなり評価されたとのことですが、私にはそのあたりはよくわかりません。
中尾彬さんも、イケメンやったんですね。
彼もこの頃22歳くらいで、ヒャーってなくらいカッコイイです。
映画の内容は、体を売りながら、男性を喜ばせることが幸せだと信じている18歳のユカの物語なんですがね。
まー、加賀まりこさんの可愛さ以外にどこがポイントなのかしらと、最初から最後まで分かりませんでした。
とりあえず。タイトルの月曜日ってのは、週末は家族サービスするパトロンのパパにとって、ユカは週末じゃない日に会える彼女だからってことは理解できたのでよかったわ😅
モノクロの映画ってやはりそれだけでオシャレに見えるんだけど、そこへきて、加賀まりこさんのオシャンティなファッションやらメイクやら。昔の人だけでなく、今の若い子にもウケるやろーなーって。
しっかりして!
ポップでキュートみたいなイメージだったのでパパの気持ちわるさにげんなり。他人の評価軸で生きるのは大変よ。中尾彬がまっすぐな若者を好演。
脚本は倉本聰、音楽は黛敏郎。劇伴口ずさんでた。
ヌーベルバーグの影響って言われればそうなのかなと思った。
加賀まりこの魅力。お洒落でかわいく、パリ街角風なラブコメディー映画
中平康監督の昭和39年(1964年)加賀まりこ主演で撮影した映画。
不倫を続ける中、別の男性とも。しかし、ラブコメディーとしてうら寂しさはない。
この映画の良さは、加賀まりこの愛くるしい魅力に尽きる。小悪魔的なかわいらしさ、お洒落なファッション、粋な音楽と撮影シーン。
冒頭の出演者紹介のイントロのシーンやラストシーンの薄明りの中の街並みの遠景は、フランス映画を見ているようだった。
可愛くお洒落なレトロ映画!
加賀まりこさん観たさに鑑賞。
レンタルショップを何件も回っても取り扱いがなく、やっと観れました!
とにかく若き日の加賀まりこが可愛い。
あどけない表情や少女っぽさが良い…!
愛だの恋だのよく分かっていなさそうな地に足がついてない掴み所のない、ふわふわした少女だったユカが映画の最後には少し大人びたように観えました。
「体の関係は許すけど本当に好きな相手としかキスしない」という夜のお仕事関係の話はたまに聞きますが、この物語のユカはどちらかという過去の神父の一言で『キス=イケナイもの。聖書にバイブルに反する破廉恥な行為』という印象になってしまっていたのではないかと思います。
キスをされそうになり「ノー」とユカが叫ぶシーンでは、聖書が画面に写っていてアーティスティックだなと感じました。
喜劇風な描写などもあり、60年代のレトロな映画の良さを出していると思います。
ユカちゃんは、男の人を悦ばせたいだけなんだろうけど、空回り。
真実の愛と喜びは身体の関係だけじゃない。
映画を最後まで観ても結論は出ず、観賞後はユカの気持ちを私なり想像して考えてしまいました。
観る人によって捉え方も違うのだろうなぁ…。
ちょっと不思議な雰囲気の1人の少女の数日を覗き見したような、レトロでお洒落な映画でした。
肉体的な愛/精神的な愛
ユカは男を悦ばせることが自分の喜びで、誰にでも身体を許すけど、キスだけは許さない。それは、小さい頃、娼婦的な母が米兵(?)とキスしてるのを見てしまった時に、牧師がキスはだめだ!ってユカに教えるからなのだけれど、そもそも姦淫もだめだよ、と思ってしまう、ユカは教会に祈りにも行くし、家にもマリア様を置いてるのだけれど、キリスト教の教えとはちがう生き方をしている。ユカの認識では男と寝ることは罪じゃないのかもしれない。教育の大事さと危うさを感じた。
ユカはなにか困ることが起こると、娼婦上がりの母に相談するのだけれど、やっぱりその母のアドバイスは、とにかく相手に尽くすのよ、とか一見の人でも心をこめて愛するの、とか、やっぱり娼婦的で、ズレている。(娘のユカもやっぱりズレてて、パパさんとのデートのときに、自分のお母さんも連れて行っちゃったりする。しかも喜んでくれると思ってる。)肉体的な愛のことばかりで、精神的な愛のことは母は教えてはくれない。だからこそ、ユカの身体も心も愛してくれる修と、うまく通じ合えなくて、修はそのまま死んでしまう。ユカには修の、他の人と寝てほしくないという気持ちがあまりわからない。
・パトロンのパパ=肉体的な愛
(ユカのことを心配してくれてる場面もあるけど)
・元恋人の手品師=精神的な愛
(ほんとうに好きな人には、わたしと寝て、
なんて言っちゃだめってユカに言う)
・恋人の修=肉体的な愛+精神的な愛
パトロンのパパはお金、ビジネスの側面も。
ユカに生活費やお小遣いを渡す。
取引先との交渉により、その相手と寝てくれとユカに頼む。ユカも承諾するが、10万円を条件にする。
開始から1時間くらいのところでホテルニューグランドのロビーと玄関が映る。今はないしましまのテントがかわいくて感動し、ロビーの内装がほとんど変わらないことにも感動した。1964年の横浜の街の風景が見れるのも物語と同じくらい魅力的。
最後のダンスシーン、とってもヌーヴェルヴァーグを感じると思ったら、ゴダールがこの映画に影響を受けているそう、びっくり。すごく実験的な映像ですきだなあと思った。そしてなにより、加賀まりこがとてもかわいい、少女感と、コケティッシュと。
ゴダール風 加賀まりこ
ヌーヴェルヴァーグの雰囲気満載の映像と音楽の中、とにかく可愛い加賀まりこ。
いまでもお綺麗ですが、もうお人形。
盛り髪につけまつげにかわいいお洋服に、女子感たっぷり。少々痛めな不思議ちゃんというかメンヘラっぷりも、良くも悪くも女子力高い。
演者によっては許されないようなキャラクター。うん、加賀さんでなかったらアウトかも。
男を喜ばせることが生き甲斐という18歳のホステス役。お酒も飲むし、タバコも吸うし、キスはダメだけど誰とでも寝るし。誰とでも寝ることを全く悪く思っておらず、あどけない小悪魔女。
若かりし中尾彬に最初は気付かなくて2度見してしまった。
男たちが不幸な結末を辿るなか、唐突に終わった感じ。恋人の死体へのキス、パトロンの溺れる様を冷めた目で傍観。ふーむ。闇?病み?
ヌーヴェルヴァーグも、アンハッピーエンドが多かったようだし、アートな世界観といい、時代をよく表しているんだろうな。
脚本は倉本聰氏も関わっているみたい。
なんとなく、ペドロ&カプリシャスの『ジョニーからの伝言』と『マリーへの手紙』を思い出してました。
加賀まりこが最高に可愛い
丸い顔に大きな目、ぽてっとした唇。男ウケ100%の小悪魔顔。無邪気でわがままだけど純粋。可愛すぎる。
最後の1人で海を見て帰るシーンが好きでした。
60年代バンザイ!
ユカは、援助交際女に見える
1.ユカは、18歳の混血児で母子家庭、学校も行かず、働いてもいない感じ
2.①パトロン、②恋人、③奇術師、の3人と同時交際 → 3股女
3.それ以外の男とも寝てるし、自分から誘ってる
4.「パトロン収入で生活している」という訳ではないみたいだし、
「手当は貰うけど、それ以外は自由の身」
5.船長との件、性交覚悟で船室に入ったのは判るが、
キスを迫られ大声で「ノー」と叫んで退室 → 性交したか不明
6.パトロンと岸壁で踊り → パトロンを突き落とした様にも見える
→ 助けを求めるパトロンを見ているだけ → パトロンは溺死?
→ その後、警察に通報したかどうかは不明だが、
事情聴取も受けず、その場所を離脱
→ もし鮮明な映像の街頭カメラがあったら、殺人も視野?
7.男と寝る話はあるが、娼婦の映画としたら中途半端
→ まあ18才なので、いくらでも就職や更生可能
8.この映画の題名は、相当前から知っていた → その内、観ようと思ってた
→ 活発なギャルとか、特殊な行動する女かなと思ってたが、
上記のような映画だった
→ 観たら、裸も少し出て来るが、あまり興奮もしない
→ 観てて、あまり楽しくもない、余韻の少ない、判り辛い映画だった
ヌーヴェルバーグの影響?
ユカ(加賀)の性格もそうだったが、映像表現が実験的だったり、ふざけてるとしか思えない部分もあったり、ストーリーがありそうでなさそうな・・・
ユカの特徴は誰とでも寝ることだったが、母親(北林)の教え通り、男を喜ばせることが生きがいの女。さらに身体は許すが、キスは駄目だと徹底している。恋人・修(中尾)とは赤灯台の野外でしか寝ないのだ・・・
そんなユカにも悩みがあった。日曜日に修と街を歩いているとパトロンのパパ(加藤)が家族サービスしているところを目撃。後をつけてみると、娘に人形を買ってあげているパパの表情がとても喜んでいるように見えたのだ。その喜びの表情を見たい!私だって負けないくらいに喜ばせてあげたい!と思い、次に会うときには「人形を買って」とねだるユカであった・・・しかし、目撃した現場にはパパの妻もいたので、自分のおかあちゃん(北林)をも連れていくのだ(おいおい、そんなにバカなのか)。
ユカの頭の中はさっぱりつかめない不思議少女といったところか。終盤には、修が海に落ちて死に、死体に初めてキスをする。そして、パパの仕事上大事な客がユカと寝たいと要求してきたため、仕方なくその外人と寝るユカ。そして最後にはパパが海に転落して溺れるが、ユカは無関心に去って行った・・・。。
これが加賀まり子でなかったら、どうしようもない映画だと思う。男心をくすぐるコケティッシュな彼女は何故か魅力があるのだ。おっぱいはギリギリ見せてないが、うっすらと腋毛まで見せてくれる。
悪女は目覚めたのか
『月曜日のユカ』
星の数での評価は難しい。ただ中平康監督という人は、現在のアダルトビデオやお色気映画の人たちよりも数段複雑な頭脳だったという事だったかも知れない。解説者が映画の前に実験的な事をよくする監督だなんて言っていたが、加賀まりこのユカがオープニングが終わるところで静止したウインクの状態から目をあけてスタートする時点から1964年(昭和39)の映画で既に今よりも新しい気さえした。最初から卑猥な噂話や今でいうパパ活のような愛人まがいの会話の中に人種の色についての話などがされていて、ここら辺から既に50年前から現在の間に抑制されていった思想状況が垣間見られる。と書いていたところでコマーシャルになってカラーになって驚いたが、NHKプレミアムでなくて、BS12で録画していたことを思い出して、訂正できた。危ない。嘘を書いてしまうところだった。勘違いからであるが。昭和39年当時の人々の感覚はどうだったのか、現在では70歳前後の人たちからだろうが、19歳の設定とか言ってなかったか忘れたが、タバコは吸っているし、現在のように露骨には映像にしていないが、老人と性行為をしている描写の後で、中尾彬が演じている恋人なのかなんなのかという男も出てくる。この人たちが中年以降でしか見てこなかったが、さすがに20代と思われる頃は美男美女である。企画が水ノ江滝子と出ていた。中尾の若い男は老人の存在を知っている。どういう関係なのか。老人は加藤武だが、老人とは不倫で、老人が奥さんと一緒にいる家が遠くから見えて、ガラス張りなので、そこで不倫の癖に嫉妬して当てつけのために、中尾の若い男と野外セックスしてしまう。露骨には性行為の映像はしていない。日本映画なのに、教会でマリア像が出てきて、中途半端な性愛とキリスト教の関係をみせていたりする。現在援助交際をしているバカ少女たちのじいさんばあさんの頃の映画だが、何を後世に残そうとしていたのか。ユカは性行為はするのにキスはさせないという意味不明の話もある。ホステスのような仕事だったらしい。カタログ的なつぎはぎの人生。男も取り換えられる。そんな女を魅力的にみせようとする策略はこの時代の限界で後の世界への罪悪にも思える。共同脚本の一人が北の国からと同じだが、そのドラマもフリーセックス的なところがあったと思うし、これも後世への罪悪だろう。単なる売春婦の話に近かった。紙切れのような話である。ろくな時代ではなかったために、後世も狂ったままなのだろう。だが性描写は現在ほど露骨ではない。
加賀まりこもセミヌードの範囲で性行為を想像させている映像描写ではある。ここら辺が反転していったのだろう。踊っているシーンの音楽選択は雰囲気があると思うが、踊りはただ身体をゆすっている程度のものだが、それでも雰囲気は出ていた。ここら辺が陶酔のトリックなのかも知れない。そしてなぜか教会で「本気で愛してあげるわ。神様の前だから嘘はつかない」と言って、5人の男の前で後ろむきだが全裸になり、肩から上しかみせないが、全裸を5人にみせる。男たちは集団で加賀まりこをまわさずに無言で無表情に立ち去る。ユカは「どうしたのよ」と何度も言うが、集団性行為は為されずにユカ一人残る。これはどういう思想を吹き込もうとしたのか。むしろ女が滑稽にされている。解説者はこの場面だと特定はしていないが、フランス映画的のように言っていた。このシーンはいったい現在の爺さん婆さんはどう思ったのだろうか。加藤武の「パパ」の愛人も単なる度スケベじじいに過ぎない。加賀まりこの分厚い上向いた上唇が卑猥だったのだろうが、目が力を失ったようなどんぐり眼はなぜかプリクラで写っている現在の浮遊した小娘と同じようなもので、なにかの脳の部分の作用なのかも知れない。ユカは単なるバカに過ぎないのだが。バカにバカにされるんが淫乱なのかも知れない。しかし東京オリンピック開催はこの映画の七か月後なのだそうだ。
なぜかとてもルックスが格好いいのだが、中尾彬が友達とセックスした加賀まりこを怒っている。その理由が、俺はどうして道端でセックスして友達とはホテルでしたんだという理屈なのだった。人形がキーワードとして出てくるが、ある面、セックスに軽い女性の蔑視皮肉映画にも思える。日曜にパパと歩くというと、中尾彬が日曜は家族と過ごすもんなの。と加賀まりこに怒る。それがタイトルの『月曜のユカ』となるのか。「いいわ。日曜がダメなら月曜があるわ」とまるで相手の家族を気にしない。中尾彬が怒りだして出ていってしまう。男がしっかりしていて、女が軽いバカに描かれている。
とんだバカ女をけなすためのお笑い映画だったのかも知れない。逆説的にこうやってみせないとすでに50年前からどうしようもなかったのだろうが、無駄だったようだ。ユカの母ちゃんが女は売春しても喜ばすものだというものだから、教育が悪かったからそうなったのだという風刺もあったのだろうか。実の母ちゃんなのか、ホステスの先輩なのかちょっとわからない。風俗嬢の同伴話なのだが。食料の輸出入売買と女も一緒のようなアメリカ人の会話が出てきて、これだけフリーセックス女をバカにしているのも面白いが、その通りに女はさらにひどくなっていった。やはり母娘で馬鹿親子だった。娘の不倫愛人の加藤武に喜んで会おうとした狂った母親。こんな精神分裂のような映画の監督の娘の作家は猪瀬直樹と不倫していたのだという。その娘は自殺未遂を繰り返したという。そして今もテーマとして繰り返されているが、母子家庭事情からのホステスみたいな面と、そんな汚れた女でも、中尾彬が立ちなおさせるための天使のような存在として出てくる。普通は男女逆なはずだが。中尾は俺が稼ぐから一緒になろうという。朝飯を一緒に食うことになんな。映像技術的には中尾は声だけで、その間ずっと加賀のクローズアップをさせていた。愛人パパの商売から、ユカにアメリカ人船長とセックスしてくれと頼む。「なんでも言うことを聞いてやるしパパはユカが大好きなんだと詰め寄る。」ユカは、「いうこときいたらパパはうれしい?」と聞いて、承諾するが、そのかわり10万円くれという。昭和39年当時の10万円である。いいだろうという出ていく愛人パパと、無表情のユカ。そこに中尾彬が怒って出てくる。「なんて返事した」、あたしにキスしていいわと青年にユカがいうと、青年は頬を張って出ていった。そしてユカが少女の頃に、母親が売春する場面をみたのを思い出す。神父がそれはいけないと日本語でいい。やがて英語になってしまう。この場面も揺らいでいる社会の中で何か言いたかったのだろうと思う。張られたユカは落ち込んでいた中で、青年は自殺してしまう。まるで元アイドルに不倫されて死んでしまった夫のミュージシャンと同じようだ。男のほうに貞操性、純情性を与えたところが、日本の逆転現象をみせていて、決してフェミニズムの加賀まりこのための映画ではなかった。これは現在の人間には難しい映画だろう。ユカはセックスした友人に言われて死んだ青年に初めてのキスをしたが、なぜかわからないだろうにマリア像とそのような音楽が流れる。ユカの頬に涙が伝う。その後ユカは身体な性行為するが、キスはだめだと叫びながらアメリカ人のデブな男に犯される。その間に聖書がずっと映し出されている。ここにアメリカ人への皮肉も込めている様子がある。唇をいやそうに拭うユカを助けに来たのは愛人パパだった。倒錯だらけである。船を降りて埠頭で「踊ろう」とパパに行って一緒にダンスをする。パパに頼まれたアメリカ人とのセックスだったのか。その後でパパと踊り、青年は自殺した。
しかしそこまでは長い前置きだったのだと思う。フランスやアメリカでも流行った手法らしいが、危険な構成だ。悪女。これはネタバレをあえてするが、踊りの途中でユカは愛人パパを海に突き落とす。助けてくれと叫ぶパパをしゃがんでじっとみるユカ。愛人パパは沈んでいく。歩くユカに向かってパトカーが通り過ぎる。
可愛すぎる!加賀まりこ!
何をしていても可愛すぎる!和製ブリジットバルドーと言われていただけある。ヘアメイクファッション素晴らしくお洒落で勉強になりました。肝心のストーリー。こちらも現代でも通用する色褪せないストーリーだと思います。
キッスで壊れたストッパー
映画のストーリーも加賀まりこさんの美しさも2014年の今でも十分通用しますね(^^)d
表情の陰影の付け方が『同棲時代』の上村一夫先生や同時代の漫画家さんのそれに似て、当時のアーティストさんに強い影響を与えた作品なのかな~と……
因みにユカの黒い下着姿はメーテルのボディラインに激似?!と思ったのは私だけでしょうか?
最後に真面目な話。
あの時のパパを見つめるユカの頭と心の中には今まで大人の都合で押さえつけられていたものが幾千万もの蛇の様にのたうち回っていたはず、あの後の人生をユカはどう生きるのだろう?(ー_ー;)
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