沓掛時次郎 遊侠一匹(1966)のレビュー・感想・評価
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加藤泰、炸裂
ヤクザ映画全盛期の60年代中葉に制作された時代劇映画の傑作。『明治侠客伝 三代目襲名』の加藤泰がメガホンを取ったということもあり、撮影と演出の耽美さは目を瞠るほどだ。 熟れた柿や折れた櫛の受け渡しを通じて成される疑似的な情愛のやりとりといい前後のレイヤーを強く意識したダイナミックで立体的な画面構成といい、加藤泰に特有の作家性が遺憾なく発揮されている。 息を引き取るおきぬの旦那と時次郎が向かい合う場面では、時次郎の顔だけにスポットライトが当てられており、死せる者と生きる者との対比が強調される。とはいえ60年代末に流行ったATG映画ほどには厭味ったらしい技巧性は感じない。いい塩梅だ。 時次郎が旅館の女将に自身の過ちと喪失を懺悔するシーンでは、雪の夜を背景とした静謐なフィックスショットが3分間もの間持続する。懺悔の終わりと踵を接するように戸口の外から聞こえてくる追分の三味線が張り詰めたショットの水面を打擲し、それを合図に物語もまた劇的展開を迎える。緩急自在、という四字熟語がこれほど似合う映画作家もそうそういない。 あとは渥美清の使い方が上手い。せっかちな江戸っ子気質の彼を寡黙な時次郎の従者として登場させることで、物語映画が陥りがちな冒頭部の停滞感を難なくすり抜けている。とはいえ映画全体に占める彼の比率が上がりすぎては喜劇映画に転化してしまうため、前半で早々に退場させる。その容赦ない取捨選択に感服する。しかし彼の「百姓出身のやくざ者」という因業は公判でおきぬの親類の昌太郎へと引き継がれていくわけだから、そこまで無理な感じはしない。 もとよりヤクザ稼業の人間疎外的な本質に気がついていた時次郎。数々の喪失を経てようやく刀を捨てる決心がつくラストカットは感慨深いが、旅籠の女将が言ったように「少し遅かった」感もある。おきぬが遺した遺児を連れて彼が旅立つ先が信州・沓掛の平和な宿場町であることを願ってやまない。
期待はずれだった。
最初、トラさんがでてきたときは、こりゃぁスピード感があっていい!と思ったのだがストーリーが進むにつれてノロくなり、真ん中過ぎたあたりから時間が止まりそうな苦痛を味わった。それでも最初のところが面白かったので最後にはまた盛り上がるかも知れないと思って我慢してみた。・・・無駄な努力だった。
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