「金田一・市川論」獄門島(1977) よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
金田一・市川論
冒頭、プロローグ的に原爆のきのこ雲や復員列車のモノクロ映像が流れる。そして、金田一耕助が訪れる瀬戸内の小さな島では、戦争から戻ってくるはずの若者を待ちわびる者たちが、例によって陰惨な事件を引き起こすのだ。
市川崑は、一連の横溝正史シリーズだけではなく、他の作品でも、戦後の混乱を執拗に描く。彼によって描かれる戦後は、それ以前の習俗、生活習慣、社会階層の崩壊過程として描かれる。
名探偵・金田一耕助が訪れるのは、決まって岡山県のどこかの旧い封建的な因習の残る村である。
なぜいつも岡山県なのか。それは、いつもの早とちりな県警の警部・加藤武に「よし、分かった!」の名セリフを言わせるためだけではあるまい。岡山県は関西にも近く、そうした都会との交流が決して多くはないが、少なからず存在する。海と山の自然が豊かで、都会からもそう遠く離れてはいないことが、物語の舞台としての要件なのだ。
その舞台となる村には、たいてい金田一以外の他所者の存在があり、そのことが村人の旧来の価値観にゆさぶりをかけている。しかし、その他所者が恐ろしい殺人を行うことはない。むしろ、殺人の首謀者は旧制度によって最も守られている人間であり、しかも、その犯人が守ろうとするのは自分自身ではなく、その最愛の者の利益である。
犯人が連続して顔見知りの人間を殺さねばならないきっかけは、戦争へ行った者の帰還もしくは帰還しないことであることが多い。こうした戦争が人の心の中に落とす暗い影は市川崑の映画の通奏低音ともいえる。
殺人の被害者たちは、おそらく戦後の社会変動ののちには生きて行くことが最も難しい人々である。それは、村の有力な家の娘たちで、彼女たちの生活と人生は、その家の経済力と村人からの畏敬によって保証されている。旧来の制度が失われたのち、彼女たちの居場所はない。多くの横溝作品で、若い娘が次々と殺されるのだが、仮に殺人が行われなかったとしても戦後社会に彼女たちの生きて行く場所が存在しないのである。
闖入者である金田一耕助によって、たまたま事件は解決されるが、そのために犯人が守ろうとした旧い家族制度が崩壊していく悲劇。
しかし、戦争が終わった後の大きな社会の変化の中では、遅かれ早かれ彼らの守ろうとしたものは失くなっていく運命だった。そうした、戦後史の視点でみるとこの殺人事件は喜劇的なものになる。