「藤純子の不可解な表情に観客の困惑を見た」侠骨一代 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
藤純子の不可解な表情に観客の困惑を見た
60年代の東映任侠映画はプロット的にいえばどれもこれも恐ろしいほど酷似している。情に厚い昔気質の侠客が搾取される民衆や義兄弟の仇を討つべく裸一貫で敵陣の真ん中にカチコミをかける。そして復讐を遂げると同時に絶命する。しかしまさにその清々しいまでの勧善懲悪的な様式美ゆえに、任侠映画は時代を代表する一大ジャンルにまで成長を遂げたといえる。
高倉健とマキノ雅弘はそんな60年代東映を代表する俳優と監督だったといえる。上述のプロットを従順になぞった『昭和残侠伝 死んで貰います』は今も60年代の、あるいは高倉健とマキノ雅弘を代表する任侠映画の名作として知られている。しかしそんな彼らが、彼ら自身が任侠映画の常道を破ったのが本作だ。
本作の道具立てそれ自体はきわめて典型的だ。男気一本で任侠世界を渡り歩いてきた男(高倉健)、そんな彼の魅力に次第に惹かれていく遊女(藤純子)、敵対勢力に属しているかつての戦友(大木実)といった具合に、今すぐにでも王道を征くヤクザ破滅譚が語られそうな雰囲気である。しかし物語はそう簡単には運ばない。
本作はまず主人公に、つまり高倉健に性的不能を課す。彼は遊郭で出会った藤純子が気になりはじめるが、それは藤が幼い頃に死別した母によく似ていたからだ。高倉は幾度となく藤に誘われるが、彼はそれを断腸の思いで断る。二人の愛は高倉の疑似近親相姦への恐怖から宙吊りにされ続ける。コイツは到底一筋縄じゃいけない映画だな、というのがこの時点でわかる。
順風満帆な生活を営んでいたかに思えた高倉だったが、貧民への義侠心から引き受けたインフラ事業をカネにしか興味のない隣の組に幾度となく邪魔されるようになる。トラックは燃やされ、敬愛するオヤジ(志村喬)は凶弾に倒れる。挙句の果てには高倉の窮状を知った藤が大金を援助する見返りに満州へ売り飛ばされてしまう。
ここへきて高倉は再び王道的な任侠映画の水路に戻され、敵対組織へのカチコミを余儀なくされる。その孤独な背中には死を覚悟した男の苦悩が滲んでいる。広々とした工事現場の隅から次々と姿を現す敵の軍勢を見た瞬間、ああ、死んだな・・・という様式的な絶望が画面を覆い尽くす。
しかしここで再び本作は任侠映画の常道を逸れる。高倉が一心不乱に日本刀を振り回す傍ら、彼の子分たちがどこからともなく現れて彼に加勢するのだ。これによって高倉は完全に死に場所を失う。最後には敵の首魁を討ち取るもののその佇まいはどこかやるせない。『昭和残侠伝』シリーズである意味気持ちよさそうに死んでいく姿とはまるっきり対照的だ。
ラストシークエンスでは満州に旅立つ船に乗った藤純子の哀しげな姿が映し出される。しかし万事が解決した今、彼女が満州に旅立つ意味はあるのか?悲しみの中に不可解さの入り混じった彼女の表情は、王道なヤクザ映画を観に来たはずが途方もない裏切りに遭ってしまった観客たちの胸中にわだかまる困惑と共鳴する。