機動警察パトレイバー2 the Movieのレビュー・感想・評価
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日本は幻想からいまだに醒めてない
この映画の公開が90年代前半で、PKOで自衛隊が死ぬところから物語が始まるわけだが、当時のアニメ映画は、現実の社会問題をそんなにダイレクトに反映していたのだと、改めて見直して驚いた。ちょうどPKO派遣問題と憲法解釈問題が大きく議論されていた時期にその議論のど真ん中を行くような内容だ。
日本の戦後の反映は結局アメリカの核の傘のおかげで、世界にある戦争の現実に向き合わずにすんだから達成されたにすぎない。そして、そんな他国の犠牲の上に成り立っているという見立ては強烈に鋭い。この映画の公開から随分月日はたったが、いまだにこの国は世界の現実に向き合うことができていないのではないかと思う。この映画の問題提起は2021年現在も十分に通用するものだ。
映像の完成度も極めて高い。一枚絵で部屋に飾りたくなる美しいショットがたくさんあって見惚れる。
「まともでない役人には二種類の人間しかいない。悪党か正義の味方さ」
中間管理職の憤怒と悲哀が溢れる作品。前作で松井が、本作で後藤が口にする「正義の味方」という言葉がテーマだろうか。別の言葉を探すなら「貧乏くじ」だろう。
古く大きな組織というのは、上に行けば行くほど多様性を失うように思う。それは、組織への忠誠心を試す踏み絵のようなステップが幾つも用意され選別されていくからだろう。
自立思考できる者、自立思考に目覚めた者は途中でふるい落とされ、そこに悪党と正義の味方がいる。そうして考えると、悪党と正義の味方は共鳴しやすい危うい関係に思える。
進士が妻に言った「行かなきゃ、仕事より大事なものを失っちゃう」という一言は、その危うさと同時に意思の大切さをとても良く表している。(家族にとっての正しいが何かは別物だが…)
一方で現場は、忠誠心溢れるまともな役人達によって歪められていく。その様子は後年の大ヒットドラマ、踊る大捜査線へと繋がるものを感じる。後藤と南雲が呼ばれる会議シーンなんかは、誰もが青島のあの名台詞を思い出すのではないか。
そんな茶番のような会議から二人が逃走するところから、物語は一気に加速する。南雲に「今降りちゃ駄目だ」と伝える後藤。彼と榊の周到な準備が功を奏し、激しい闘いの末に南雲が柘植を逮捕する。指を絡ませ見つめ合った後で、互いの手を手錠で結ぶ南雲と柘植。必要な時に隣にいられなかった後悔を繰り返したくないということだろうか。その様子を離れたところから呆然と見つめる後藤、なんて無情な結末だろうか。
二人を見送った後、駆け寄ってくる第二小隊の初期メンバーを眺めながら「結局俺には連中だけか」と呟く後藤を見て少し救われた。しかし同時に、彼らを失うことがあれば後藤は柘植以上の事件を起こすのではないかという怖さを感じた。
…
街中に戦車が配備され「いつ何が起こってもおかしくない状況」という中で、淡々と続く日常。市民や自衛隊員の描写は、現実でもこうなるんだろうという納得感があって恐ろしい。こんな表現は実写にはできないアニメならではのものだと思う。
戦後平和主義に正面きって挑戦した最高傑作
1 本作のテーマ
第二次大戦の敗北により、戦後日本は憲法第9条を中核とする平和主義を絶対的な枠組みとして統治機構が構築、運営されてきた。
それは日米安保を裏付けにしたものであり、換言すれば外交・安保はすべて米国に依存しつつ、経済的繁栄のみ追求する「普通でない国」の歴史だったと言える。東西冷戦体制があったから、それでも差支えなかったのだ。
しかし、本作が公開される4年前にソ連は崩壊、東西冷戦体制は終焉を迎えた。世界情勢が流動化し始めた中、日本は戦争を絶対悪とする戦後平和主義のぬるま湯にいつまでも安穏としていていいのか、という問題提起が本作のすべてである。
2 ポリティカル・シチュエーション・ムービー
冒頭の国連PKOに参加した自衛隊のシーンでは、PKO参加五原則により武器使用が正当防衛等に限定される中、それを硬直的に運用した指令官の武器使用不許可により部隊を全滅させる柘植が描かれている。憲法9条は国際紛争に無力であり、柘植はその犠牲者である。
その怨念を秘めつつ、柘植は日本の安全保障体制の改革=世直しを目指すグループを自衛隊内部に結成し、偽装テロによる安保意識覚醒を目指す。
それはきわめてラジカルなもので、ベイブリッジ爆破から航空網寸断、さらには主要権力施設の破壊にまで及び、さらに生物兵器で首都全体を脅威に晒すものであった。この過程で治安維持や安全保障といった国家システムは大混乱に陥り、挙句の果てに米国の介入通告さえ招くにいたる。
その混乱から日本の安全保障体制が再構築されることを期待する――おそらくはそれがグループの狙いであり、柘植の怨念の解放と願望だと思われる。
偽装テロを仕掛ける柘植の戦略は周到であり、これに対峙する後藤たち特車2課もキャラクターが鮮やかで、テログループの存在感が薄いほかは、文句のつけようがない。
3 戦後平和主義体制批判の論理
押井守は見事なレトリックを駆使して平和主義日本を批判する。以下、登場人物のセリフから戦争・平和論議をみてみよう。
〈荒川:俺たちが守るべき平和…だが、この国のこの街の平和とはいったい何だ? かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争、そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争…そういった無数の戦争によって構成され、支えられてきた血塗れの経済的繁栄。それが俺たちの平和の中身だ。
戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な対価をよその国の戦争で支払い、そのことから目を逸らし続ける不正義の平和。
後藤:そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争よりよほどマシだ。
荒川:かつて正義の戦争を口にした連中に碌な奴はいなかったし、その口車にのって酷い目に遭った人間のリストで歴史の図書館は一杯だ。だが、正義の戦争と不正義の平和の差はそう明瞭なものじゃない。平和という言葉が嘘つきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることが出来ずにいるんだ。
戦争が平和を生むように平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?〉
荒川が指摘するのは、世界が緊密につながる中、日本の経済的繁栄は同盟国等の兵士が生命を懸けて贖ったもので、平和主義は偽善だということである。
これに対して、偽善の平和でも生きていた方がましだ、と後藤は反論する。
荒川の再反論は、日本人もPKO活動のように戦争に関わらざるを得なくなっていくし、本当は誰も信じない偽善の平和はやがて自ら戦争をまねくというのである。
また、ラストの戦闘シーン前には、次のような会話が交わされる。
〈後藤:この街はリアルな戦争には狭すぎる。
荒川:戦争はいつだって非現実的なものさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ。〉
後藤のセリフは、日本人にはまだ差し迫った対外的な危機意識が存在しないという主張だろう。対して荒川は、戦争は個々人の意識と無関係に勃発するのだ言っているようだ。
これらの受止め方は見る側の政治意識により大きく変わるだろうが、評者はもちろん荒川の意見に全面的に賛同する。後藤が荒川より説得的とは言えまい。
4 評価
本作は押井守の最高傑作である。これ以前にもこれ以後にも、本作以上の映画は撮れなかったし撮れないと思う。
ちなみに本作から28年を経た現在も、政府の自衛隊敵基地攻撃能力に関する公式見解は、「自衛隊は、現在、敵基地を攻撃することを目的とした装備体系を持っていないことから、敵基地に対し軍事的に有効な攻撃を行うことは、現実の可能性として極めて難しい」と、お花畑状態である。押井の戦後平和主義体制に対する問題提起は、いまだ有効と言えよう。
東京で戦争をするには
10代で観たときよりも500倍は面白かった。
登場人物たちが東京で戦争をする目的と、押井守がこの映画を作ること(東京で戦争する映画を作りたい!)が完璧に一致していて、その強度がこの映画の骨格となっていて実に見事だった。
この屁理屈の虚構こそ、映画、の作家性に思う存分浸った。
自衛隊の内部クーデターを描いた衝撃作...だけではない?
まあ簡単に要約すると自衛隊がアメリカ軍を偽装してテロ行為を起こし軍事蜂起を促そうとする内部クーデターを描いた作品です。
憲法改正とかにも関わる内容でしょう。
私は完全な文系人間であり、理系の人の言うことはよくわかりません。
ただこの作品のリアルさ、とくにテレビ制作会社のあのいかがわしい雰囲気には明らかに何かしらのメッセージがあると思いました。
自衛隊、テレビ製作会社、警察、内閣、国防省
暗躍する官僚たち
私は正直申し上げると、ここにさらに電通あたりが関与した内容ではないかとこの映画を観て推察をするわけですが、
そこはいろんな理由であまり明確には描けないのだろうなと...
描かないことで描いてるのではないかと思えたんです
映像に対する不信感、映像を、広告をそもそも手がける広告代理店への不信感というものがこの作品の背景にあるのではないかと私は考えます。
現在もまだ広告の中心は映像になるわけで、その映像を作るのが広告代理店の仕事であるならば、その代理店の主な取引先って絶対に開示されない上に、広告ってとても曖昧で危険な商品だという認識はあまり一般化していない。
テレビ制作マンの担当がこういいます。
"うちが編集したんだから、そりゃ観てますよ"
誰が編集することを指示したんでしょうかね。
そこをこの作品は描いておりません。
後藤隊長の
"混乱させることこそが目的"
というのもとても示唆的である。
まるで電通の社訓のようではあるまいか...
とても尖ってる作品である。
28年の時を経て、令和の日本に突き刺さる⚡️
ものすごく巧みに1993年当時の日本の状況を取り込んだ作劇が、2021年にまた見事にあぶり出される‼️しかも4DXで✨
同時にアニメーションと言う次元を越えた映像は描かれる世界の空気感を孕み、実写に負けない深みを作り出した。
「サイレント・トーキョー」との類似性を指摘する声も多いが、制約多い2次元表現をここまで高めた押井守×伊藤和明×川井憲次の素晴らしい仕事をぜひぜひご堪能あれ‼️
ドラマとしても南雲×後藤×柘植の精神的三角関係が架空の18号地で集約される流れが本当に素晴らしいと感じた✨
ULTIMA RATIO→飛行船に書かれたこのメッセージを今こそ日本の人たちには受け止めてほしい‼️
《初パトレイバー》ミリヲタ不完全燃焼に終わる
初パトレイバーです。アニメ・TV・劇場版実写、全部知らない。とにかく初めて。それが4DXですw
無駄な派手さがさが無く、リアルだった点が良かった。政治・軍事的背景が、結構興味深かった。マジに言うと、国内勢力どうしの武力衝突はテロリズムなので米軍が介入することは無いでしょう、ってのと。ミサイルを使うくらいなら軍事メジャーが絡んでいるのは間違いないわけで。であれば、尚の事。米軍がすることは、国外からの干渉を監視するだけでしょうね。
それよりも、リアルには現在のアメリカの国内事情を想起してしまって、シャレにならんぞオイオイ、なんて思ってしまいました。
ALL TIME BEST ってほどじゃないけど、面白い事は面白かった。
4Dxで再現された雨の効果が効果的な地味にも程がある刑事ドラマ
2002年冬の夕刻、横浜ベイブリッジが何者かによって爆破される事件が発生。現場の様子を偶然撮影したビデオ映像には自衛隊所属のF-16Jと思しき戦闘機が映り込んでいた。様々な憶測が錯綜する中、特車二課の南雲と後藤の元に見知らぬ男が訪ねてくる。陸幕調査部の荒川と名乗るその男はベイブリッジは米軍機によって爆撃されたものであり、この事件の背後にはある組織が暗躍していると告げ、その組織のリーダーと目されている人物である柘植という人物の捜索協力を申し入れる。しかしその柘植は南雲にとって忘れることの出来ない人物だった。
前作と同様いや前作以上にレイバーの活躍は限定的で、特車二課の面々ですら殆ど物語に絡んでこない。警察組織と自衛隊の対立が招いた首都封鎖という何気に現在と微妙に地続きの世界観で繰り広げられる腹の探り合いはほぼ刑事ドラマ。本作の主役である南雲の苦悩を湛えた佇まいが印象的な地味ながらずっしりと重い作品。正直4Dxの効果は序盤で発揮される以降はほぼ意味がありませんが、降り注ぐ雨の効果はしっかりドラマとシンクロしていました。
今観ると、また違った味わいがあります。
ご存知、押井守監督の「パトレイバー2」。
初めて観たのは高校生のとき。
「パトレイバー 劇場版」に本当に感動し、この2を楽しみに劇場まで足を運んだ。しかし、明らかに1とはテイストの異なる作品。パトレイバーという舞台を使って、押井色を全開に押し出した作品だったわけだ。高校生の自分には早すぎた。なので、最初観たときは全く面白くない、という評価だけで終わった。
あれから約30年。
後藤隊長の悲哀が沁みる年代になり、改めてこの作品の良さがわかる。
作品自体は最初に劇場で観たあと何度もDVDで見返した。1のスカッとした、これぞエンタメ!というストーリーも良いが、2の暗い雰囲気のストーリーも良いな、と歳を重ねるたびに感じるようになった。小説とかもそうだけど、歳を重ねてから見返すと違う発見がある。
この作品が公開されたのは「1993年」。
当時はガキだったので何も知らなかったが、大人になり冷戦など様々な歴史を知ることで、この時期がどれくらい重要だったのか、今になってわかる。この作品も、おそらくそういう危機感から作られたんだろう。首都圏で擬似戦争状態を作り出す、そのとき日本人(日本政府)はどう対応できるのか?庵野監督の「シン・ゴジラ」のテーマとも共通している。
日本は戦後に経済発展のみ追求し、他国のように戦争を(幸運にも)経験しなかった。2021年現在、冷戦が終わり、バブルがはじけ、失われた30年を経て、共同体が崩壊し、砂粒の個人だらけになり、格差が広がった。政治の世界は頭の中が昭和の80歳のジジイどもが権力をいまだに手放さずにいる。安倍政権から嘘をつくのが当たり前の世の中になり、安倍→菅と政権が代わったこの1年間、コロナに対して有効な対策を全く打てていない。森喜朗はもはや自分の何が問題なのか判断する能力すらなく、さらに、こんな能無しがなぜか自民党で権力を握っている。
そして、そのジジイだらけの政権を支えているのは多くの日本人だ。
ここまで落ちてしまった。そして、今後も落ち続ける。
この1993頃にもっと有効な対策を打てていれば・・この作品のような状況が良いかは置いといて、もっと危機感を持つような状況に追い込まれていれば、現在はかなり違った日本だっただろう。おそらく、日本人は占領されるくらいの危機感がないと変われないんじゃないかな。。阪神大震災、9.11(これはアメリカだけど)、リーマンショック、3.11、そして今回のコロナですら変われないのだから。そう思いながらこの作品を見返していると、暗澹たる気持ちになってきた。。。
この作品で、柘植は戦争状態を作ること自体を目的とした行動を取った。
それは、当時押井監督がまだ期待を持っていたのかな?とも思う。この時期の日本人であればやり直せる可能性がある、と。作中で荒川に「この国は、もう1度戦後からやり直すのさ」というセリフを言わせているが、むしろ、そうすることで、今とは違った社会をやり直す可能性があったのだろう。
2021年現在、日本社会がボロボロになった今、もはやその道はない。
今後死ぬまでに何度か見返すだろう。そのたびに違った印象を受けると思う。
そういう作品こそ、名作なんだろうな、と思う。
独り善がりの抽象絵巻(オリジナルでやってくれ)
押井守が好きな方は、どうぞこのレビューは読まずにスルーして下さいませ。
さて、本作であるが、エピソードやテーマは大変面白い。キャラ達は言うまでもなく魅力的である。
メカも音楽も声優陣も素晴らしい。
それなのに、どうしてこんなにつまらない作品になってしまうのか?
もちろん素材が良いから(素材とは、押井氏の語りたいテーマや全体的ストーリーとそれらを構成する1つ1つのエピソードも含む)それなりのレベルには当然仕上がるが「これだけ上質な材料を贅沢に使って何故!」と疑問と落胆が浮かぶ。
それはひとえにシェフ(監督)が、食べる人(観客)の事も生産者(原作者)の事も考えない独善的な調理を施しているからであろう。
難解か?いや、まったくそんな事はない。作品のテーマもストーリーもよくわかる。ではどうして「難解」に見えるのか?
そりゃあ、わざわざ、いちいちメタファーだのアレゴリーだのにするからですよ。センスの良いメタファーは私も好物ですけれどね。ダヴィンチ・コードなどは非常にテンポよく、快感ですらあるのだけれど、押井氏はただひたすら冗長なの!
思わせぶりでスローテンポな心象描写が「もう充分わかったから勘弁してくれ!時間の無駄!」と叫びたくなるほど続く。そんなシーンが繰り返し繰り返し挿入されていると、さすがに眠くなりますよ。
映画監督とは「表現者」だろう?伝えたいことを伝える為に表現するのだろう?わざと伝わりにくくしてどーすんの?
例えば、具体的に言うと憚りある事柄をメタファーで伝えるのならば、その必要性も芸術性もよくわかる。
しかし、押井作品は簡単な事までも、バカバカしいほどメタファーにしたがる。
一体何の為だ?難しい作品に見せかけて、含蓄が深いとでも言われたいのか?
また、作品に対する愛情や敬意が感じられない。
私はサンデー系作品は苦手だが、パトレイバーは秀逸だと思う。登場人物1人1人もキャラがしっかり立っていて魅力的だし、軽妙な台詞回しのゆうき節も気が利いている。メカもケレン味たっぷりである。しかし、押井氏自身がこれらすべてが嫌いだと明言している。
キャラも後藤さん、南雲さん以外は嫌いだし、二足歩行メカに存在意義を感じないそうだ。
だったらパトレイバーやるなよ!頼むから!
ビューティフル・ドリーマーを高橋留美子が嫌っているのもかくの如しだ。あれはまったく「うる星やつら」ではない。高橋ワールドと解釈があまりにも違うのだから。原作者の意図を無視して、好き勝手に世界観を作り変える暴挙は、創造者というより破壊者だと感じる。
パトレイバーにも同じ構図が透けて見える。世界観への敬意が無い。
リアリティが好きだからと言って作監に黄瀬氏を起用するか?あんなに眼が小さい野明と遊馬がいるものか。
「ロボ〜!」に目を輝かせるルフィ、ウソップ、チョッパー、そして野明。オトナでありながらそれらを具現化するフランキーや榊のおやっさん、シゲさんの存在意義も押井氏にはきっと理解出来ないのであろう。ゆうきまさみ氏はそれらをすべて飲み込んだ上で、オトナの遊びを描いてるんだよ。だから後藤さんが光るんだ。
パトレイバー第1話タイトル「ザ・ライトスタッフ(あっ軽い人々)」
最終話タイトル「THE RIGHT STUFF―正しい資質―」
ここに込められた価値の重さと作品根底に流れる世界観がわかるか?
重いテーマをいかにも意味ありげに重く描いたら、それはパトレイバーではないんだよ。
重いテーマを、あっ軽く笑いつつ、しかし熱く真剣に語るのがパトレイバーなんだ。それはいかに難しい事であろうか。
いくら小器用で調理技術に長けたシェフだとしても、こんな独善的料理では海原氏も山岡くんも席を立つわ。
天たまで干されたあと、パトレイバーに食わせて貰っておきながら、恩を仇で返すとはこの事だ。このテーマで映画撮りたきゃ、オリジナルでやればいいじゃないか。(出来ないよね)
他人の褌で相撲を取るのはもうやめてくれ。と、まぁ93年の作品に言っても始まらない。
「ある人質」鑑賞後は4DXパトレイバーに癒されようと、前もって映画館はしご計画を立てておいたが、押井氏だけが不安要因だった。悪い予感は的中してしまったな。やはりこれもビューティフルドリーマーであった。もし93年に見ていたら私も若かったから尚更許容出来なかっただろうな、、、。
このあと、キマイラ撮るのかな?
老成円熟した押井氏を観る事は出来るのであろうか?人間誰しも成長するから、押井さんも変わったか?
獏さんの方が謙虚で人格者だと思うが、天使のたまご=天野喜孝繋がりで違和感は少ない。
どうか「この映画は最高に面白い!」と言える作品になる事を強く願う。
何度観ても
4DXにて観賞。
予約した当日が朝から雪とは、なかなかオツなものだ。
公開当時大学生だった私には、さすがに初見ではよく分からなかった。
それからDVDを購入、もしかすると人生で最も回数を観た作品かも。
あらためて思うが、核心を突く説明を直前で寸止めして進んでいくストーリーなので、繰り返し観ないと全貌はつかみにくい。
そういうトコロに逆に惹かれてしまう様に、我々ファンは育てられてしまったのかも知れない。
とにかく押井監督好きならしびれるモチーフ満載。
旧約聖書・東京・兵器・犬・鳥はもちろん、カメラやモニター、窓や鏡を通して描かれる無機質な現実。非常事態と隣合わせの日常。そして大人の恋愛。
劇場版1作目がエンターテイメント寄りの作品だったのに対し、本作は現代の日本における「戦争観」を描くドラマなので、正直なところ4DX演出が時折邪魔に感じる部分は否めない。
まあそれでも往年のファンとしてはこれがまたスクリーンで観られるというのは感慨深い。
川井憲次氏の音楽などの信頼度MAXなスタッフ陣に加え、今のバナナマン日村さんが声優に参加してたり、藤島康介氏がメカデザイン協力してるなど、エンドロールも楽しめる。
6
オールタイムベストなのだが4DXはいらんち
4DXってなんなんですかね。
2度めの体験だったんですが、ほんと気が散りますね。
雪のシーンで「プシュッ」って余計な音出して、スクリーンに黒い影を落とすってなんなんでしょう。
風を吹き付けられて、寒いってなんなんでしょう。
霧のシーンにスモーク焚いて、表現ダブってしかも見辛いって何なんでしょう。
コンビニでおにぎりとかパンをカゴに詰めるシーンで椅子を揺らすのは、押井流のギャグ?もしくは皮肉?
作品自体は、何度も観てますが、紛うことなき傑作です。
映画館で初見できる人はとても幸せだと思いますが、それが4DXとなると、良いんだか悪いんだかw
怒りというより、ちょっと頭が悪い感じで笑けてきます、4DX。アトラクションっぽくするにしても、もう少しやりようあると思うんですけど。
通常スクリーンでやるならまた見に行きます。
色褪せない
久しぶりに見たけど、所々時代を感じるが、内容は色褪せないね。
本当に面白いドラマだよ。
ただ、予想通りというか、前作に比べて4DX感はちょっと弱いよねw
内容的にしょうがないけど。
それでも、改めてスクリーンで見て良かったと思ったな。
究極までリアリティを追求したアニメは、画面の中の虚構を暴く
冒頭でまず本作は、前線で犠牲者を出しながら、司令部の命令がないために何もできずに一方的にやられる自衛隊の場面から始まる。
それは当事者にとっては正に地獄だが、画面では間接的な情報の提示と、臨場感を削ぐ演出のせいで全く感情移入が出来ず、何が起こってるのかも理解できない。
その視線は前線の兵士のものではなく、事態を把握できず何もできない司令部のそれだ。
宮崎駿はこのシーンにスペクタクルがないためにつまらない、と評価しており、それは大半の視聴者の偽らざる感想だろう。
普通のエンタメ映画なら、この冒頭で派手なアクションを挿入して、観客の注意を引き付けるのが常道である。
前作のパト1では正にそのセオリー通りだった。
しかし本作のこの冒頭シーンは、作品全体のテーマを象徴しているのみならず、そのエンタメとしてのセオリーを破ることによって、異化効果を作って鑑賞者に考えることを促しているのだ。
次に場面は特赦二課で新型レイバーのテストするシーンに移り、ここではVRという最先端のバーチャルリアリティが出てくる。
またカメラを通した絵と、現実の絵の立体感が対照的に違うことが示される。
カメラを通した絵は立体感のない平面的な絵だが、本作の現実のシーンは押井守のレイアウト主義の粋を集めたような立体感をこれでもかと強調した、非常にリアルなものになっている。
テレビのニュースやバラエティなどの番組では、わざと望遠レンズを使って立体感をなくすことで、臨場感を減らし、肩の凝らない映像を作っている。
つまり実写でありながら、テレビの映像はわざとリアリティを剥奪することによって、画面の中で何が起きても深刻に受け取らないように促しているのだ。
そうしたマスコミによって育った人間は、物事に対して冷笑的で、何事に対しても無関心になる。(まるで某ネット民のようだが、そもそもあのわざとらしい露悪的な連中が、本当に好きでネットをやっているユーザーかどうか疑おう。連中が自分たちに都合の悪い書き込みには「わざと腐女子のふりして叩かせようとしている!」というように考えるのは何故だろうか?)
一方で押井守は、二次元アニメという平面的な絵を使ったメディアによって、徹底的にリアリティを追求する。
本作では、アニメという虚構でありながら現実感を追い求める本作と、現実でありながら現実感がないテレビやモニターを通した情報の峻烈な葛藤が展開される。
そしてそれは誰がいるのかも分からない、夢幻のようなビル群と、その下で地の上に足を付けている登場人物たちの対立でもある。
主人公たちは地の上にいる人間でありながら、その画面の向こう、ビルの中にいる顔も知らない人たちのために、同じ地上にいる者たちと戦う。
それは正に「誰のために戦わされてるのかも分からない」という、集団自衛権の問題と結び付く。
冒頭の戦闘で唯一生き残った自衛官の柘植は、仏教の仏像建築を目にする。
彼は民衆という実在するが見えない神のために戦っていた戦場で、実在しないが圧倒的な実在感を持って見える偶像に魅せられ、この瞬間に一種の棄教をしたわけである。
その偶像とは作中で荒川の口を通して語られる思想であり、実はあれは説得力を持っているが、全てデタラメなのだ。
ここにも押井守の一貫した「リアリティのない現実に代わる、リアルな虚構」というテーマが繰り返されている。
本作では同じモチーフとテーマが、全編を通してあの手この手で何度も描かれ、語られる。
結果的に全てのシーンが何らかのテーマを象徴しているような、凄まじい密度によって描かれている。
このようなテレビ批判のような映画が、むしろテレビ局の中で一部の人間に強く訴求したという事実が、本作の現実批判がどれだけ的を得たものかを語っている。(といってにこいつらにしろもっと直接的に叩かれてたら反発する程度だろう。テレビ局に味方をする人間に良心などない)
「フィクションと現実をごっちゃにする」という批判を業界人が頻りと使いたがるのは、正にそれこそ彼らのコンプレックスの急所であり、最も痛いところだからなのだ。
テーマと現実批判と演出が、全て奇跡的なほど渾然一体となって一致しており、ゆえに本作は押井守の最高傑作だと私は思う。
ラスト、黒幕と対峙するシーンでは白い鳥の群れが出てくる。
前作では冒頭で黒幕が自殺する時に黒い鳥であるカラスを放つ。
白い鳥とはキリスト教の象徴として聖霊を意味する。
黒いカラスとはその真逆で、悪霊ということを示しているのだろう。
何ともわかりやすいことに、そのカラスのタグには「666」とまで書かれているのだ。
前作の黒幕は自殺した後でも一人歩きするAIプログラムによって事件を起こす。
解き放たれたカラスは、そのAIプログラムというコンピューター言語によって、解き放たれた黒幕のスピリットを象徴しているわけだ。
押井守はイエズス会の神父に認められて対談までしたことがあるくらい、神学的な象徴性に関しては本職顔負けである。
本作では逆にラストシーンに白い鳥の群れが出てくる。
本作の戦争では「死傷者多数」と報告されているのにも関わらず、人が死ぬシーンは一切出てこない。
その代わりに最後の鳥の群れによって、黒幕が背負った死者の数を間接的に伝えている。
それが伝わらないということが、本作のテーマが現実であることを証明しているわけだ。
言葉で死者多数と伝えられても、実際に見せられないと実感を抱けないということは、どれだけ統計の上で戦死者が積み上がっても、少しも良心が痛まず、本作の警察幹部のように現実感を喪失し続けた大日本帝国の司令部と同じことなのだ
本作ではそれぞれの葛藤に対して一応答えを出している。
最も力強いのは、「現場を離れた司令部はもうどうしようもないから、現場の人間に全て頼るしかない」という現場主義の答えだ。
そのせいで本作は、本質的に現場的な人間の感性とはかけ離れていたながら、現場参加として受け入れられ、バリバリに当てられたあの踊る大捜査線の「事件は現場で起こっている」というセリフを生み出すに至る。
ナイーブで薄弱なものではあるが、「たとえ顔は見えなくても現実の人間を守る」という応えも提示する。
この二つに関しては、どちらも虚構よりも現実を選んでいる。
ところが最後の、リアリティのないテレビのニュースと、リアルなアニメという対立では、前者を選ぶことはできない。
それは本作がアニメ映画だからというより以上に、この場合だけ現実を伝えなければいけないはずのニュースが、自分たちの利益のためにその現実感をわざと奪おうとしているからだ。
他の二つの問題では、不可抗力的に仕方ない理由で現実からリアリティが喪失していたが、最後のこの問題に関しては、テレビがわざとそうしているのだ。
そうなるとアニメよりニュースを選ぶ、という選択は選ぶわけにはいかない。
しかし本作ではその問題は棚上げされる。
その、アニメという虚構に関してだけは現実より優先し得る、というアンサーをはっきり示すのは、自作の『攻殻機動隊』においてである。
上層部と現場の温度差
犯行予告後にベイブリッジが爆破された。警察は捜査の過程で自衛隊に疑いの目を向け両者の緊張は高まっていき…。
再鑑賞。前作の方がまとまりは良いが、保身に走る上層部によって事態が最悪の方向に向かっていく様はコロナ禍の現代だとより考えさせられる。
2度、3度と観て欲しい名作です。
武装テロを、パトレーバー小隊隊長の後藤が捜査する物語。
前作が、「パトレーバーを押井色で仕上げをした作品」なら、この作品は「押井作品をパトレーバーキャラが演じた作品」で、その意味ではビューティフルドリーマーに近い作品のように思えます。
ベイブリッジ爆破から続くテロ行為。そのテロに翻弄される政治家、幕僚、警察官僚、諜報機関、そして後藤たち。ストーリーはロボット物ではなく、ポリティカルサスペンスの様そうで進んで行きます。
そこにはグリフォンとの戦いのようなロボット格闘はなく、遊馬や野明の活躍もありません。
しかし、その捜査過程の描き方は秀逸で、観る者を魅了します。そしてクライマックスで再び集結する第二小隊という展開にはカタルシスを感じざるを得ません。
正直、最初鑑賞した時には失望感を持ちましたが、2度、3度と鑑賞すると、映画単体の魅力を実感出来る映画です。
個人的にはそのインパクトで、前作を上回った作品だと感じています。
バブル崩壊時
自衛隊機ではなくてアメリカ軍戦闘機によるものだと怪情報を入手。テロリズムもそうだが、ミグ戦闘機の亡命事件を引き合いに出して、日本が軍備増強に応じてくれないなどといった生々しさ。戦争直後からやり直さねばならないといったセリフも聞かれ、バブル崩壊時代の設定としては興味深いものがあった。
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