「「菊次郎の」夏」菊次郎の夏 あんのういもさんの映画レビュー(感想・評価)
「菊次郎の」夏
この手の映画は、少年の成長物語がほとんどだが、「菊次郎の夏」は違う。主人公は少年の正男ではなく、成長しきれず社会的に失敗した中年の菊次郎である。それがこの映画の肝であり、斬新さである。
父は死に、母は遠くで仕事をしていると聞かされ、祖母に育てられている正男は、母を訪ねる旅に出る。しかし子供だけで旅に行くわけにはいかないため、菊次郎が付き添うこととなる。どうしようもない菊次郎は、まず競輪に行き、旅費だけでなく正男の小遣いをも溶かす。旅の道中で周りの人に理不尽に当たり散らかし、犯罪まがいというか、犯罪を繰り返す始末。全く手に負えない男だった。しかし、正男との旅を通じて、空回りをしながら不器用なりに、少しずつ優しさや他者への思いやりを取り戻していく。
ストーリーは良い。ありがちなものだが、軸となる主人公を変えることによって、他の作品と一線を画している。この作品で賛否が別れる部分は、後半のギャグのオンパレードだ。ストーリーとして解釈するなら、落ち込んだ正男を変な大人たちが元気づけるために面白おかしいことをしているのであるが、それがあまりにも馬鹿げていて尺が長い。確かに笑えるが、哀しみを帯びたストーリーと対比させるには、あまりにも強烈。しかし、前述したように、この映画の主人公は菊次郎なのだ。そして周りにいる変な大人たちも、間違いなく菊次郎サイドの人間だ。誰よりもよく遊び、楽しいことを知り尽くしている。そんな大人たちと、不器用だけど、徐々に優しさや思いやりを取り戻してきた菊次郎が、正男を元気づけ、笑うこと、人を信じることを思い出させるためには、ここまでやってもおかしくないと、腑に落ちる部分もある。
この映画で最も評価している点は、北野武の類稀なるカメラワークや画の構図。久石譲の芸術的な音楽。その二つの芸術がストーリーにより一層奥行きを与える。一見馬鹿げたドタバタ劇も、それらと対比してみると、なんとも言えない気持ちになる。また、この映画には多くの静寂と余白がある。それらがとても効果的に使われており、鑑賞者に考えさせる間となっている。そうせざるを得なくなった理由の一つにテーマソングの「Summer」が挙げられる。この曲はあまりにもインパクトが強すぎて、良くも悪くも聴き手を感傷的にさせる。この曲を劇中で多用すれば、そのインパクトは薄れ、映画全体がつまらないものになりかねない。だからこそ使う場面は限られる。あの曲が流れる時、鑑賞者の時間の感覚は一瞬止まり、それ以外のシーンでは音を消すことで、映像そのものの美しさが際立つ。
確かに北野武の映像には大きな魅力があった。邦画では珍しく、とてもリアルで重みがある。決して完璧な映画とは言えないが、その不完全さこそが、人間の不器用さや泥臭さを映し出していたように思う。記憶のどこかに残り続ける作品だった。