風の中の牝鶏のレビュー・感想・評価
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弱い男と強い女。
〇作品全体
戦後日本という脆い世界で、大黒柱が欠けた家庭をなんとか守ろうとする主人公・時子。戦争という嵐は去ったものの、貧困という冷たい風は常時吹き続けていて、その風の中で翻弄されてしまう。その姿がつらく、悲しい。
子どもを救うために犯した過ちも、夫・修一が帰ってきたことにより報われるのではないかと思いながら見ていたが、時子にとって希望であったはずの修一が絶望の淵へと突き落す様子は、本当に痛々しく、つらい。言葉通り階段から突き落とされた時子だが、きっと痛かったのは体よりも心のはずだ。
対する修一の心情も、本当につらい。どうしようもない過ちだというのに時子へ強くあたる修一には怒りを感じたが、それと同時に人間味も感じて、作品の奥行きの深さを感じた。
時子と同様、家族のために体を売る若い女の話を聞くシーンがあるが、ありがちな物語としてはここで改心して時子へ謝罪する…みたいな流れになるだろう。しかし修一は会社の同僚に二律背反な感情を吐露する。わかってはいるけれど悲しみの矛先を向けられない怒りがあって、時子と向き合うことができない。「改心」と簡単に口にするけれど、それがとても難しいことは生きている人間ならわかるはずだ。同僚が話す「感情を押さえつけるんだ」という助言なんて常套句でしかない。そうするのが人としても、物語としても美しいけれど、それでは人は描けない。修一の美しくない弱さの描写は、人を描く小津安二郎の英断だと感じた。
そしてその弱さと対比的に映るのは、時子の強さだ。
序盤から終盤まで、時子はか弱そうな女性に見える。社会的にもそうだし、人間関係や発言を聞いても、なにかに流されてしまいそうな存在だ。しかし終盤は修一という大黒柱を二度と手放さない、という芯の太さが見えてくる。
言葉からも、そして修一を強く抱きしめる時子の両手からも、その強さが一貫してある。この芯の太さが、修一との対比として印象的に映った。
二人は互いに支えあって生きていくことを決意する。人としての弱さと芯の強さをかけ合わせた二人は、弱さを知っている分、きっとより強く生きていけるはずだ。
〇カメラワークとか
・建設途中のガスタンクが印象的だった。空洞の筒というのモチーフ。発展途上とか、夫という中身がない、みたいなイメージか。他には空き地に転がる穴の開いた缶を映したり、その向こうを歩く男性を映したりしていた。
・階段を昇り降りする時にカットを割らず、その動きを映しつづけていた。昇る降りるとか、移動中の動作を省いてテンポ良くする作品が多いイメージだけど、階段から落ちるカットを強調する役割でもあったのかもしれない。日常動作が映る場所で、落ちるという異常事態が起こるっていう。
〇その他
・ウィキペディアに当時はこういう戦後の苦労を描く作品が多かったから不評だったって書いてあって、なるほどとなった。小津作品っていう文脈で見ると、異彩を放っているけど、当時の作品群からしたらありきたりだったんだなあ。
・月島とか勝鬨橋のあたりの景色は今の景色と全く違って面白い。当時は田舎の土手みたいな場所だけど、今じゃきれいに整備されて、ビルも立ち並ぶ河川敷になってる。
・同僚役の笠智衆がめちゃくちゃ若い。
・『長屋紳士録』でも思ったけど、小津作品は「戦争」って言葉をまったくといっていいほど使っていないところがすごい。制作時期的に言わなくてもわかる共通認識だからっていう理由なのかもだけど。今の時代に「戦争」っていうワードが出ると、相当な悲惨さが言葉から伝わってしまう。その言葉を使わずとも、その時代の悲しみやつらさを描いているのって、とてもすごいことなのでは、と思った。
壮絶なる階段落ちは流石だ。 メス鳥は鳴かない。 それがこの映画の答...
壮絶なる階段落ちは流石だ。
メス鳥は鳴かない。
それがこの映画の答えだと僕は思う。
敗戦国としての『どうたら、こうたら』はない。
あるとすれば、むしろ国策とかに対するANTITHESEなはずだ。
普段、小津安二郎監督の考えている事のアイロニーだと思う。
その意味でこの映画は傑作だと想う
牝鶏とは敗戦国日本のことだったのです
1948年9月17日公開、白黒作品 もちろん松竹映画 小津監督の戦後第2作目 前作の「長屋紳士録」は戦争を挟んで5年のブランクを埋めるための肩慣らし 本作は松竹のトップスター田中絹代を迎えて、本格的な映画製作を戦後再開させたものと言えます 小津監督作品とは思えないような、暴力シーンがあります 特に階段のシーンは衝撃です たびたびその階段を何度となくみせて 小さな子供をおぶって登るシーンも挟んで、危険さを予告しておいて最後にそれを起こす計算はさすがです しかし、最後には夫婦愛で締めくくられ、やっぱり小津監督作品だと安心して終わります でも本作は本当に夫婦愛の映画だったのでしょうか? 自分には政治的な匂いを感じるのです 大事な子供の命を救うためとはいいながら、大きな取り返しのつかない間違いを犯してしまう妻 夫はそれをなじります 他に方法がなかった 仕方ないことだと分かっていても、なじるのです いくら妻が反省をみせて、二度としないと誓っても許せないのです すんだ事だと分かっていても許せないのです まるで警察の取り調べのように間違いを克明に言わせるのです 裁判のように現場検証までします 妻は心神耗弱となり朦朧とすらしています しまいには妻に暴力をふるうのです まかり間違えば、妻は死んでしまったかもしれない事故に至りようやく、彼は目が覚めるのです 二度と戦争を起こさないようにと、作られた新憲法は、1946年11月に公布され、1947年5月3日に施行されました また戦争を起こした戦争犯罪人を裁く東京裁判が、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われています 本作公開の1ヵ月まえにはその判決の翻訳が開始されたとの発表がなされていました つまり、妻の取り返しのつかない大変な過ちとは、戦争のアナロジーだと思うのです 新憲法と東京裁判で、反省し責任をとり二度としませんと誓ったのです しかし、戦後の政治は大きく左傾化して社会主義運動一色に染まっていました 急進的に過激に体制の変革を求めていたのです 戦前の価値観、日本の過去は全てが悪であると断定されるような勢いだったのです 日本の古来からの文化、伝統というようなものまで何もかもが否定されるような風潮だったのです 本作の公開は1948年9月17日 その1ヶ月前の同年8月19日、同じ映画会社の東宝の砧撮影所では大規模な労働争議が起きていました 2500人もの労働者が東宝砧撮影所に立てこもり、警官隊と暴力的に対峙して遂には占領軍が出動して戦車まで繰り出して収拾されるというような騒然とした世情だったのです 小津監督のいる松竹映画には、そのような労働争議はなかったようですが、この東宝争議が日本の映画界に与えた影響は非常に大きなものがあり、多くの監督や俳優が東宝を離れていったのです 小津監督にとっても衝撃的な事件であったと思います 非寛容な社会主義運動が行き着くところは一体どこなのか? 日本はどうなってしまうのか? いつまでも反省が足りないとなじってばかり、はては暴力をふるう そんなことで日本の再建ができるのでしょうか? それが本作のテーマだったのだと思うのです それ故に、本作は共産党を支持する人々が多い映画界では失敗作であるとの烙印を捺されてしまったのだと思います 確かに成功作とは言えないと思います しかし駄目な作品では決してありません 政治の季節のなかで、小津監督らしい主張がなされた素晴らしい作品であると思います 風の中のスバル 砂の中の銀河 中島みゆきの有名な歌の一節です 暴風雨の中でスバルの星など見えるわけがない 地上に天の川が光っていることなどない ありえないことです 同じように、風の中の牝鶏とは、暴風雨の中で牝鶏は飛べるわけがないと言っているのです そもそも牝鶏は飛べもしないのです 牝鶏とは敗戦国日本のことだったのです こんなことで敗戦国日本が再建できるのか それがタイトルの意味だと思います 大きなガスタンクの廃墟 やるべきことが見えているのに目に入っていないという意味でしょう
大人の道徳⁈
時代がら、女の人が頼るところなく、お金が要りようになり、仕方なくやったこと。 それなのに、怒りが収まらない旦那に対して、 何とか気持ちに折り合いをつけて〜と祈るような気持ちで見てた。 最後は、階段から落ちたことで旦那も気付き、 夫婦で忘れようと、前を向けてホッとした話。 私だったら、そもそも言わないな。
貧乏で生真面目な妻の一回だけの過ち
1948年の田中絹代主演の小津安二郎監督の作品。後年の映像の特徴、住まいの造形や風景の切り取り、話し手の正面撮りなどが、既にこの時に全く同様なのが、大変に興味深かった。
子供の上手い使い方や心情に呼応する音楽も、同じだ。女友達との会話も麦秋にそっくり。
色々な監督のタイプがあるが、小津監督は同じ様なものの繰り返しの中から創造性なるものを産み出していったことが分かった。
田中絹代演ずる主人公が、あの晩何をしたのか、その示し方が会話やイメージ画像で語られ、され気なくて見過ごしてしまいそう。後年の観客への謎解き提示に繋がるところか。ただ、この時点では隠されたメッセージ等、分かるヒトだけには分かるという深みは特に無さそうで、その点では相当に物足りなく感じてしまった。
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