風の中の牝鶏のレビュー・感想・評価
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壮絶なる階段落ちは流石だ。 メス鳥は鳴かない。 それがこの映画の答...
壮絶なる階段落ちは流石だ。
メス鳥は鳴かない。
それがこの映画の答えだと僕は思う。
敗戦国としての『どうたら、こうたら』はない。
あるとすれば、むしろ国策とかに対するANTITHESEなはずだ。
普段、小津安二郎監督の考えている事のアイロニーだと思う。
その意味でこの映画は傑作だと想う
牝鶏とは敗戦国日本のことだったのです
1948年9月17日公開、白黒作品
もちろん松竹映画
小津監督の戦後第2作目
前作の「長屋紳士録」は戦争を挟んで5年のブランクを埋めるための肩慣らし
本作は松竹のトップスター田中絹代を迎えて、本格的な映画製作を戦後再開させたものと言えます
小津監督作品とは思えないような、暴力シーンがあります
特に階段のシーンは衝撃です
たびたびその階段を何度となくみせて
小さな子供をおぶって登るシーンも挟んで、危険さを予告しておいて最後にそれを起こす計算はさすがです
しかし、最後には夫婦愛で締めくくられ、やっぱり小津監督作品だと安心して終わります
でも本作は本当に夫婦愛の映画だったのでしょうか?
自分には政治的な匂いを感じるのです
大事な子供の命を救うためとはいいながら、大きな取り返しのつかない間違いを犯してしまう妻
夫はそれをなじります
他に方法がなかった
仕方ないことだと分かっていても、なじるのです
いくら妻が反省をみせて、二度としないと誓っても許せないのです
すんだ事だと分かっていても許せないのです
まるで警察の取り調べのように間違いを克明に言わせるのです
裁判のように現場検証までします
妻は心神耗弱となり朦朧とすらしています
しまいには妻に暴力をふるうのです
まかり間違えば、妻は死んでしまったかもしれない事故に至りようやく、彼は目が覚めるのです
二度と戦争を起こさないようにと、作られた新憲法は、1946年11月に公布され、1947年5月3日に施行されました
また戦争を起こした戦争犯罪人を裁く東京裁判が、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われています
本作公開の1ヵ月まえにはその判決の翻訳が開始されたとの発表がなされていました
つまり、妻の取り返しのつかない大変な過ちとは、戦争のアナロジーだと思うのです
新憲法と東京裁判で、反省し責任をとり二度としませんと誓ったのです
しかし、戦後の政治は大きく左傾化して社会主義運動一色に染まっていました
急進的に過激に体制の変革を求めていたのです
戦前の価値観、日本の過去は全てが悪であると断定されるような勢いだったのです
日本の古来からの文化、伝統というようなものまで何もかもが否定されるような風潮だったのです
本作の公開は1948年9月17日
その1ヶ月前の同年8月19日、同じ映画会社の東宝の砧撮影所では大規模な労働争議が起きていました
2500人もの労働者が東宝砧撮影所に立てこもり、警官隊と暴力的に対峙して遂には占領軍が出動して戦車まで繰り出して収拾されるというような騒然とした世情だったのです
小津監督のいる松竹映画には、そのような労働争議はなかったようですが、この東宝争議が日本の映画界に与えた影響は非常に大きなものがあり、多くの監督や俳優が東宝を離れていったのです
小津監督にとっても衝撃的な事件であったと思います
非寛容な社会主義運動が行き着くところは一体どこなのか?
日本はどうなってしまうのか?
いつまでも反省が足りないとなじってばかり、はては暴力をふるう
そんなことで日本の再建ができるのでしょうか?
それが本作のテーマだったのだと思うのです
それ故に、本作は共産党を支持する人々が多い映画界では失敗作であるとの烙印を捺されてしまったのだと思います
確かに成功作とは言えないと思います
しかし駄目な作品では決してありません
政治の季節のなかで、小津監督らしい主張がなされた素晴らしい作品であると思います
風の中のスバル
砂の中の銀河
中島みゆきの有名な歌の一節です
暴風雨の中でスバルの星など見えるわけがない
地上に天の川が光っていることなどない
ありえないことです
同じように、風の中の牝鶏とは、暴風雨の中で牝鶏は飛べるわけがないと言っているのです
そもそも牝鶏は飛べもしないのです
牝鶏とは敗戦国日本のことだったのです
こんなことで敗戦国日本が再建できるのか
それがタイトルの意味だと思います
大きなガスタンクの廃墟
やるべきことが見えているのに目に入っていないという意味でしょう
大人の道徳⁈
時代がら、女の人が頼るところなく、お金が要りようになり、仕方なくやったこと。
それなのに、怒りが収まらない旦那に対して、
何とか気持ちに折り合いをつけて〜と祈るような気持ちで見てた。
最後は、階段から落ちたことで旦那も気付き、
夫婦で忘れようと、前を向けてホッとした話。
私だったら、そもそも言わないな。
貧乏で生真面目な妻の一回だけの過ち
1948年の田中絹代主演の小津安二郎監督の作品。後年の映像の特徴、住まいの造形や風景の切り取り、話し手の正面撮りなどが、既にこの時に全く同様なのが、大変に興味深かった。
子供の上手い使い方や心情に呼応する音楽も、同じだ。女友達との会話も麦秋にそっくり。
色々な監督のタイプがあるが、小津監督は同じ様なものの繰り返しの中から創造性なるものを産み出していったことが分かった。
田中絹代演ずる主人公が、あの晩何をしたのか、その示し方が会話やイメージ画像で語られ、され気なくて見過ごしてしまいそう。後年の観客への謎解き提示に繋がるところか。ただ、この時点では隠されたメッセージ等、分かるヒトだけには分かるという深みは特に無さそうで、その点では相当に物足りなく感じてしまった。
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