陽炎座のレビュー・感想・評価
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【”男の魂は要らぬ。”今作は、妖艶燦燦、幽玄耽美なる鈴木清順の唯一無二の世界を堪能する”表の世界と裏の世界”を描いた色彩鮮やかな二人の女の情念と、それに巻き込まれた哀れなる男達を描いた幽霊譚である。】
■大正時代の1926年、TOKYO。
新派の劇作家・松崎(松田優作)は、落とした付け文が縁で品子(大楠道代)という美しい女と出会う。
その後も三度続いた奇妙な出会いと妖しい逢瀬の様。
それを、パトロンの玉脇(中村嘉葎雄)に打ち明けた松崎は、品子と一夜を共にした部屋が、玉脇の邸宅の一室と同じであることに気付き、彼女が玉脇の二人目の妻と知る。
一人目の妻は、ドイツ人のイネ(楠田枝里子)である事も分かるが、彼女は黒髪、黒い瞳に変えられており、同じく松崎と品子と遭った石段で出会うが、イネは既に病死していた・・。
◆感想<Caution!内容を勝手に解釈しています。及びやや内容に触れています。>
・今作でも、様々な蠱惑的な色彩が展開される。それは、松崎と品子が身体をくねらせ、逢瀬、抱擁する間であったり、品子が乳房に汁を垂らす鬼灯であったりする。
・物語は、松崎が逢瀬を重ねた品子からの”四度の逢瀬は・・。”という付文を頼りに金沢に舞台を移すが、その移動中に松崎は玉脇が乗る一等車に招かれる。
松崎は玉脇及び品子にかどわかされているのか、イネの亡霊に誘われているのか、観る側に解釈は委ねられる。
■というか、「ツィゴイネルワイゼン」のレビューにも書いたが、鈴木清順の作品は緻密に計算された脚本を、圧倒的な画の力が凌駕して成り立っているのである。
・列車内で出会った男(原田芳雄)が、松崎に博多人形の”裏”を覗かせるシーンは、深沢七郎の”秘戯”をモチーフとしたものであり、劇中、品子が菩薩の前に座りながら、そのまま回転し夜叉の像に変わる不可思議なるシーンは、正に”外面菩薩、内面夜叉”なのである。
あな、恐ろしや・・。
・再後半に画面の背後に大きく映される、数々の月岡芳年の無残絵の斬首された女の首から落ちる真紅の血潮。嗚呼、クラクラする・・。
井戸に“堕ちた”品子の口から出る一個の鬼灯。その後、無数に浮かび上がる鬼灯が井戸の水面を覆いつくすシーンは絶品である。
・そして、TOKYOに戻った腑抜けになった松崎は幼児のようになるのである。
<最後に、今作を再び見て感じたジョルジュ・バタイユの言葉と、今作品の原作を書いた泉鏡花の流れを汲む、学生時代に耽読した赤江獏の言葉を記してレビューの締めとする。
『エロティシズムとは、死に至るまで高まる生の賛美である』
『エロスはつねに死の腐敗のなかで微笑する』
今作を素人が如何に頭を捻って考えようが、鈴木清順の常人離れした思考には到底及ばないが、その一端は推測できる作品である。>
松田優作の会話劇。″新境地″ ?…そこまでではない。
1981年公開、日本ヘラルド配給。
1913(大正2年)に発表された泉鏡花の小説を原作とした、幻想的な映画。
監督:鈴木清順
脚本:田中陽造
主な配役
【松崎】:松田優作
【玉脇男爵】:中村嘉葎雄
【玉脇品子】:大楠道代
【玉脇いね(イレーネ)】:楠田枝里子
脚本の田中陽造は、日活ロマンポルノの全盛期を支えた脚本家として有名だが、
『セーラー服と機関銃』、
『上海バンスキング』、
『めぞん一刻』
などの成人映画以外の作品も手掛けている。
◆松田優作と中村嘉葎雄、
◆松田優作と大楠道代、
◆松田優作と楠田枝里子、
上記の組み合わせによる「会話劇」である。
その会話がもどかしい(笑)。
セリフ回しが、まるで武者小路実篤の『愛と死』を読んでいるような錯覚に陥る(笑)。
いまの日本人と少し違う。
『愛と死』を初めて読んだ時、
古さではなく、むしろ、なにか神聖な感じを受けたものだ。
この作品のセリフは、大正時代?を強く意識している。
イントネーションやアクセントではなく、
言葉遣いが違う。
観る側は、この違和感に慣れるか、あきらめるしかない。
製作陣の、
「大正期の空気を醸し出したい」、
という強い意思を汲み取ることができる。
1.松田優作はミスキャストではないか?
Wikipediaでは、
「アクション俳優として勇名を轟かせていた松田優作に、
監督が直径1mの円を描き
『この中から出ないような演技をしてください』と指導し、
彼の新境地を開かせた作品」
と紹介されている。
10年おきくらいに、何度も本作を観る機会があった。
しかし私は、一度たりとも
松田優作の ″新境地″ を感じられないのだ。
松田優作は、本作のために役柄を作りこんだりはしていないと思う。
もちろん、アクション映画ではないから
多少のアジャストはしているだろうが、
『家族ゲーム』とは違う次元だ。
本作での松田優作は、
誰もが知る松田優作であり、
『野獣死すべし』や『蘇える金狼』となにも変わらない。
2.美しい映像と音楽
「武満徹 ″風″ 」なのか、
単に「雅楽」なのか、
浅学な私にはわからないが、
雅楽器を用いた音楽が、作品全体に謎めいた雰囲気を醸し出す。
3.『ほおずき売りの婆さんを怖がるように』
とにかく、全編を通じて
わけの分からないセリフ、シーンが多い。
この世界観を受容できるのか、できないのか。
まとめ
◆大正期のムードを満喫したい方
◆夢野久作や小栗虫太郎、中井英夫が好きな方
◆鈴木清順を無条件に崇拝する方
大正浪漫のかほりを感じてゐるのです(笑)。
そのような皆さま向けの、ニッチマーケット向けマニアックな作品。
つまり、わたしの☆は、2.0
生者と死者が交わる境界にある迷宮劇場
『ツィゴイネルワイゼン』よりも分かりやすく、より死者との関わりが深くなった内容です。劇作家の男が三度偶然に逢った女性との現実とも幻想ともつかない迷宮のような恋愛に取り込まれていくお話しです。主人公のファム・ファタルが彼のパトロンの妻なのか、彼が出会った別の女性はパトロンの前妻の亡霊なのか、ミステリアスでいて怪奇的な展開が妙に心惹かれます。一方、途中から登場する原田芳雄のキャラの必然性がイマイチ理解できず、彼が関わる人形のエピソードと本筋のつながりが分かりにくいです。その分、田舎芝居の舞台を借りた、あの世劇場・陽炎座のシーンは生前の罪を裁かれているようでインパクトあります。ここでも鈴木清順の好みなのか、ケレン味たっぷりの劇中劇がでてきます。役者では、松田優作がこの異常とも言えるキャラに人間味を与えています。大楠道代のファム・ファタルも魅力的でした。
4Kデジタルリマスター版を観て
所感で書く。
仔細に調べ、物事の連なりや関連性を詳しく考えることは不可能とは思えないものの、そうした所でほんとうの感じたところで書いてみたいと思う。
先ず、眠いか眠くないか、で言えば、とても眠い。
だが、堪えられるかられないか、で言えば、堪えられる。
そして見たことも無い景色が連続的に、まるで羅列的に、どういうことなのか理解も覚束ないまま進む。
きっとこれは意味のあるものなのだ、という心持ちのまま、あれ、そうなのかな、いや、きっとそうに違いない、…とは思うのだが、これは一体…、という、迷宮の中を、美しさを見ながら迷うかの心地で流れる。その流れは進んでいるのか戻っているのかもよく分からない。けれども映画なのだから、時と共に流れているのだと思う、思わなければならない。
きっとこの作品におけるほおづきとは何か、だったり、最後に演じられる舞台の意味とは、ということは、より仔細な、良い評論を読んで頂きたく思う。
何はともあれ、これは一体何を意味していた映画なのだろう。
自分としては、寺山修司の映像作品に通じる感もあるが、寺山修司が詩〈ポエム〉から映画に触れようとしたのに対して、鈴木清順の今作を観ると、芸能、古典芸能などの諸用式を形骸的にも演繹化してそのオブジェクトひとつひとつに意味を浮かばせている、そんなような形で、観る者にとっては、果たして、作家が浮かばせた本当の意味なるものには届いたとしても、水中から水面に漂う木の葉のひとつをただ正に時と共に止めようとするようなもので、ただたしかに記憶には止められるものの、それは自然によって流れゆく、といった面持ちになぞらえると思う。
よってそうした寂しさが、詩的とも捉えられるとも思う。
ここまで、いくつか、自分は〝思う〟という言葉を幾たびも使っているが、そうして〝思う〟ことをしなければならない、と畏れて、〝思う〟と述べ続けてもいる。
ということもあり、そろそろ切り上げよう。
しかしながら、これだけの世界を組み立てた鈴木清順という人物はなんという人物であったことかと、4Kデジタルリマスター版を観て思った。
わからない…
鈴木清順を観ることはもう無いだろう
と思ってしまうくらいに楽しめなかった。
唯一良かったのは、
初めて松田優作の魅力が分かったこと。
終盤のもぬけの殻感は良かった。
あと加賀まりこはずっと加賀まりこだった…。
素晴らしい存在感。
(「ツィゴイネルワイゼン」の樹木希林然り)
その他は全く意気投合できなかった…。
歌舞伎や人形浄瑠璃の要素が垣間見られる異色作
「夢二」(1991年)、「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)に引き続き、鈴木清順監督生誕100周年記念でデジタルリマスター版が上映された「陽炎座」(1981年)を鑑賞。 「大正浪漫三部作」と言われているものの、本作の舞台は「大正から昭和に変わった東京」と銘打たれていたので、「大正浪漫」に数えていいのかなとも思う。ただ話の始まりは、大正天皇が崩御された1926年だったし、改元はこの年の12月25日だったので、まあ大正時代のお話と言っていいのでしょう。
三部作を通じて、原田芳雄や大楠道代などが共通して出演しており、役柄や風体も似通っているため、話の筋が異なっていてもなんとなく他の作品を引き摺ってしまいました。ただ本作の主役は松田優作で、こちらは三部作中「陽炎座」にしか出演しておらず、中村嘉葎雄とともに作品の主軸を担っていました。どちらかというとアクションスターのイメージが強い松田優作ですが、本作では実に静かなもので、中々新鮮でした。
また、三部作全般に言えることですが、場面の入れ替わりが唐突な感じで、ジーパンならずとも「なんじゃこりゃあ」と思うこともしばしばありましたが、本作を観て思ったのは、これって演劇的手法を取り入れているんだということ。舞台劇と違うのは、舞台の場合は場面を転換をする際にそこそこ時間が掛かるので、観ている方もそれと認識して心の準備をするものの、映画においては瞬時に舞台転換出来るため、いきなり場面が変わると所在が分からなくなってしまうことがありました。でも本作は、セリフ廻しも舞台劇っぽい部分が多々あり、そのためいきなりの場面転換もそれとして認識することが出来た感じでした。
それにしても大正時代というのは、どういう時代だったんでしょう。大正浪漫三部作で描かれているのは、どちらかと言えば”上級国民”とか知識人層の物語でしたが、和服を着る人が多数を占め、風習や社会制度においても、まだまだ江戸時代のそれを色濃く残した時代として描かれていました。大正12年(1923年)の関東大震災後の混乱を描いた「福田村事件」などは、一般庶民の姿を描いていましたが、髪型こそ髷は結っていないものの、こちらも時代劇で観る江戸時代とそんなに変わらない雰囲気を漂わせていました。
いずれも映画であり、ドキュメンタリーではないため、どこまで大正の意匠が正確に反映されているかは測りかねますが、仮に1930年代から40年代に掛けての戦争の時代がなかりせば、現代の様子もかなり変わっていたんだろうなと、思ったところです。
最後は映画の話から随分と離れてしまいましたが、演劇、特に歌舞伎や人形浄瑠璃的な要素が垣間見られた独特の作風を魅せてくれたということで、評価は★4とします。
見えるけど存在しない陽炎を存在証明にする冒頭から面白い
鈴木清順監督の大正浪漫三部作の二作目。
前作「ツィゴイネルワイゼン」のほうが世間の評価はいいし、自分もそう思う。作品の「良さ」は僅差ではあるが「ツィゴイネルワイゼン」だ。しかし「面白さ」という意味では本作のほうが上かなと思う。
わけが分からないといった類のレビューがチラホラあるけれど、そんなことはないだろう。
そりゃあ普段テレビアニメしか観ない人などには難しいかもしれないけれど、内容、ストーリー共にどちらかといえばわかりやすく親切に作られていた。少なくとも「ツィゴイネルワイゼン」よりは。
松田優作演じる松崎が玉脇を中心とした愛憎劇に巻き込まれ、次第に夢か現か定かではない幻想に飲み込まれていく話だ。
大正浪漫とはそれ以前の生活習慣が残る中に入り込んだ西洋的な思想との融合だ。あなたとあなた、夫婦になりなさいと結婚していた時代から自由恋愛への変化。つまり本作はラブロマンス映画であるのだが、明るく前向きなストーリーにするつもりがないあたりが曲者だ。
前作「ツィゴイネルワイゼン」もそうであったように、美化することなく滅びを描く。
本作に至っては冒頭から滅びの雰囲気が全開で、それこそが浪漫三部作の魅力なのではないかと二作目にして思った。
本作の本当の主人公ともいえるような中心的存在の玉脇。この人、本当にムカつくんだよね。こんなゲス野郎そうそういない。
こんな男のどこがいいんだと思うけれど、お金はあるし自信家だからまあモテるんだろうね。
そんな玉脇が死んでくれて嬉しかった。
玉脇が陽炎座から去るときに銃口に手紙がくくりつけられているのを見て思わずガッツポーズ。
魅力的な悪役とかよく聞くけど、こんなに憎たらしいだけの悪役ってすごい。
現実と虚構が入り交じる独特の世界観
泉鏡花の同名小説を原作に鈴木清順監督、松田優作主演の映画。
シュールな世界で、現実と虚構が入り交じり、着物の女優たち、襖絵など様々な美術や踊りが不思議で独特の世界観を作り出している。実験的な映画とも言えそう。
松田優作の飄々としたした風貌で一人常識的な人間を演じている。不気味で意味不明な人たちの男と女の関係に引きずり込まれる松田優作。
あまりのめり込めなかった。
広島市映像文化ライブラリーには結構の観客がいたが、多くは男性であった。
大正浪漫
鈴木清順映画は夜中によくテレビでやっていた。不気味な演出はトラウマ的に頭に残っている。前衛的な前時代表現により大正イメージは歪められたかもしれないとも今になって思う。話自体は総じて感じ入るところはなかった。
特筆すべきは松田優作のひょろっとした風体。時代のついた風景によくはまる。まさか楠田枝里子が女優をしていたとは、改めての発見。
夢であった方がいいのだ
大楠道代 35歳
加賀まりこ 38歳
楠田枝里子 29歳
彼女達がオバサンと見えるなら、まだ本作を受け入れる準備が出来ていないと思う
自分もかってそうであったから全く本作の価値がわからなかった
彼女達がなんと美しいのか、エロシズムに溢れているのかと驚嘆して食い入るようにその美しさを貪ることが出来るような歳になって、やっと見えてきたように思う
前景で行われる演技の背景には血みどろの凄惨な場面を詳細に描いた障壁画が大きく見せられる
女性の情痴の果ての愛憎の怖さ
それが、これでもかと展開中されているのだ
本作は松崎が覗く人形の裏、からくり眼鏡のようなものだ
彼女達への欲情の果ては恐ろしい結末が待っている
夢であった方がいいのだ
泉鏡花作品
どこまでが幽霊なのかわからない。心中マニアと春画と人形。玉脇がらみの女がつきまとう。楠田絵里子の貴重なヌードはほんの一瞬。大楠さんもいい!
歌舞伎の世界とかおどろおどろしい世界観は結構よかったのに、ラストが冗談っぽくて全体的にコメディ仕立てなイメージが残ってしまう・・・もっと艶っぽくしてくれたらいいなぁ。
終盤に背景として出てくる血なまぐさい絵が雰囲気でてました。
恋愛喜劇
前にも増して奇妙奇天烈なパラレルワールドのようにも映る場面の切り替えなど、編集のテンポが良く清順美学の世界観に魅了される。
終盤、俳優の存在感そっちのけで子供たちの舞台を永遠と見せ付けるような演出にブッ飛び過ぎて呆気にとられてしまう!?
滑稽でトボけた演技を披露する松田優作の後半から異様な人物に変わる様はおどろおどろしい。
夢
永遠に夢のような映画。
松田優作といえばハードボイルドなイメージですが、この映画ではシュールな紳士。
彼の新境地を開いた作品ですね。
映像がどこを止めても絵になるような美しいエロティシズム。
初めてみた時に衝撃すぎて理解不能だったため、2回3回とみていくとどんどんハマっていく。
鈴木清順の魔法にかけられた139分。
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